2011/08/15

売れない絵はダメな絵か:「相対的な独立」の問題 (1)


この記事は、先日ある学生さんと話していたときの内容を、


ご本人の「友人にも聞かせたい」という要望に応えるために思い出しながら書いてみたものです。


最終的にはいつものところに着地したのではないかと思いますが、あれやこれやとお話ししたことをこうやっていくつかの記事にわけて掲載することになると、「この話はいったいどこへ向かってゆくのだ??」となりそうなので、この一連の記事の大きなテーマを述べておくことにします。


わたしが今回問題視しているのは、切り分けて考えたり論じなければならないことをごっちゃにした挙句、非常に極端な結論を出してくるという主張の仕方です。
またそれが社会の中で、上からの強力と相まって人を従わせる武器になっていることです。


空気中には水分が含まれているから、晴れも雨も大差ない、といったような冗談のような主張を本気で述べる人間がいるという事実について、その表現そのものの裏側にどのような論理が含まれているかを見ることができなければ、違和感は覚えるもののうまく反論できない、ということはこれまでの記事でも見てきたとおりです。


今回の記事も、大きく見れば、それと同じように、「真理のように思われることでもそれを度外れに押し広げるのならば、誤謬に転化する」という<対立物の相互浸透>を論じていくわけですが、そのなかでもとくに、その逸脱が起きる理由というものを探ってゆこうと思います。


その過程で、ものごとの間にはつながっている部分と共につながっていない部分があるのだという意味で、「相対的な独立」ということばが出てきます。


たとえば、あなたの絵が展覧会に出されるとなったとき、構想も製作も誰よりも熱心に時間をかけて取り組んだものの、評価が芳しくなかったとしましょう。(学習の進んでいる方へ:これは一般的な喩えなので、「表現」そのものの特殊性は考えないでくださいね)
そのときに最高値のついた絵を出展した画家が、「ついた値段が実力の差を表しているね」と言ったのだとしたら、悔しい感情は堪えるとしても、そんなことはない、そんな考えは間違っているのだと、まっとうな形で反論できるでしょうか。
まっとうな形での反駁というのは、その場で掴みかかって発言を訂正させたり、上からの圧力を根回ししたりといったことではありませんし、「その嫌味は人間としての差を表すことになるよ」といった売り言葉に買い言葉でもなく、「どこからどこまでは正しいが、それから先は言い過ぎですよ」という論理的な指摘によってなされるものです。


行き過ぎた意見が世にはびこるというのは、もちろんそれを発した側に主だった責任があるのですが、それをおかしいとは思いながらも指摘する姿勢がなかったり、それを指摘するための論理性がなかったりといった受け取り手にも、一部の責任があるわけです。


上で述べたように、この記事での議論は必ずしも真っ直ぐに進むわけではありませんが、大きな観点から言えば、そういったことを準備してもらうために書かれたものです。


では、はじめましょうか。


◆◆◆

きょうび就職活動をしている学生さんには、こんなことばが投げかけられているらしい。

「社会がお前に合わせてくれると思うのは勘違いだ、お前が社会に合わせてゆくのが世の中というものだ」。

表現そのものはやや違っていたけれども、要点を言えばこんなふうである。


ちょっと前、ある学生さんと会ったときにこの話が出たので、思わず「あほらし」と言ったら、手を握られた。

「あなたも、そう思いますか!」

◆◆◆

どうやらこの話をしたときに、そんな反応をする人間がほかにいなかったらしい。

これはどこぞの人物のことばを、就職セミナーの人間が引用して持ちだしてきたときのもののようだが、他の学生たちが「なるほど」と頷いて聞いているのを見ると、そんな意見は極端すぎるのではないかと思える自分のほうがおかしいのかもしれないと思えてきて、非常な温度差を感じたもののようである。

価値観の違う人間は要らない、そういった主張を包み隠さず述べる企業もたしかにある。
ある大企業では、人材を採用するときの評価項目で、能力と価値観を掛け合わせたものを数値化しているが、能力が1以上の正の整数なのに対し、価値観の項目はマイナス、負の整数からはじまるのである。
そうすると、価値観がその企業と異なっている場合には、ポテンシャルが高ければ高いほど、とんでもないマイナス評価になることになる。
こういったことを公言することは、その企業の価値観に共感できない学生にたいして前もって選考に来るべきではないという意思表示にもなっているわけで、そういう意味では企業側の良心であると言えないこともない。

どこでもいいからとにかく職にありつければよい、仕事のやり方も人格も所属する組織に合わせてみせるという場合になら、そういう企業で面接をする前に、会長だかの人生哲学を解いた本でもアタマに叩きこんでおけば、それなりの対策はできるものである。
しかし、自分の目指す道から一歩も踏み外したくないとまでは言わないまでも、人倫に悖ることはしたくない、自分の価値観に合った生き方を探したいという場合には、ほかのやり方を探すしかないということになるし、どこの企業もこんなふうなのだとしたら、事実的に社会の落伍者として扱われかねない。

◆◆◆

話を聞いてみるとこの学生さんは、就職活動をしていても自分にとってこれだという会社にめぐり合うことができず、それなら国外に出るべきか、大学院にでも入るべきか、文芸でもやってつつましく暮らすべきか、といろいろ思い悩んでいたところに、このことばがトドメをさした格好になったようである。

そんなことで気疲れして身体を壊して実家に帰ったら帰ったで、両親が「そんなに頑張って就職活動しているということはさぞかし良い会社に入ってくれるに違いない」といったような期待を寄せているのが辛くて仕方がない、ということであった。

こうやって大雑把に書いてしまうとありきたりの話のようではあるけれども、本人にとっては人生をかけた大きな悩みである。

◆◆◆

人がその人自身の生き方について考えてゆく時に、その人の人格やそのとき置かれた状況を踏まえなければ正しい答えは導くことができないのは当然である。

市民の今日の食料も危ういという時に、ある王女が「パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない」と言ったというのは事実とは異なるようであるが、このエピソードがそれなりの説得力を持っていることは、当人の置かれている状況を鑑みなければ悩みに応えることはできないということを暗示している。
飽食の時代に生まれた子供たちに、仕事のやりがいなんてどうでもいいからさっさと働けと言うのも、生きる意味など考えずむしゃらに働いてきていざ定年になったら、自分の好きなものなどまるで見つからないことに気付かされたという人間に、自分自身を見つめてこなかったことに責任があるなどと詰っても仕方がないのも、それと同じである。

だからわたしも、学生さんからこのような相談があると、原則論はまるで表に出さないように受け答えするのであるが、学者として根拠のないことをしゃべるわけにはいかないから、その裏側には明確なものの考え方をしっかりと用意することだけは、その名にかけて準備しようとするわけである。

人の生き方はそれぞれだという事実を身近で見ていると、それがいかに複雑であるかを思い知らされるわけだが、だからといってそのことに引きずられて、結局は人はそれぞれ別々の存在だから、「人間としての生き方」などというものも論じようがないのだというのは、早計にすぎる。

現象が複雑であればあるほど、それを考えるための方法を持っておくことが望ましいということは、こういう場合にも言えるわけである。


(2につづく)

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