前回の記事では、Apple社の音楽プレーヤーの2つのモデルの形を比べてみて、それぞれの使い勝手はどう変わってくるかを考えることにしたのでした。
読者のみなさんも、実際に考えてもらえたでしょうか。
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両者ともに、ほぼ同じと言っていいほどに似通った形でしたから、デザインにさほど関心のない人にとってもその差を見つけるのはさほど難しくはなかったのではないかと思っています。
答えを言うならば、その使い勝手における差というのは、「クリップを衣服に挟むときに、つまむための遊びがあるかどうか」です。
難しく考えすぎてかえってわからなかった(相互浸透)、という人はいても、そんなことは気づきもしなかった、という人は少ないのではないかと思います。
ところが使い手の側から見たときに、見た目には(=現象的には)差があることに気づいても、それがどのような使い勝手の差となって顕れるのかと考えを進めてみることができるかどうかは、それを見る者が、実際にそれを道具として使った時のことをイメージできるかどうか、にかかっています。
作り手側の条件を言うならば、どんな道具や製品でも、それが人間のために作られたものである限りは、どれだけ形状が美しかったり色が鮮やかであったりしても、使い手のことを無視したものであってはいないことになります。
そうであるからには道具の作り手は、その使い手が道具をどのように使うかを考えながら、いわば精神を物質的に模写する形で道具として創り上げてゆきますね。
道具の使い手が、どんなに実用的な道具を使ったときにでも、その道具の素晴らしさに感銘を受けるというのは、そこに作り手の、そういった精神性が見え隠れするからです。
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わたしは実際にG2を使っていたのでなおさら強く感じたのですけれど、G4が発表されたときにその写真を見るやいなや、「これはAppleらしくない」と思ったのでした。
それは、Appleという会社が、使い手のことをとことんまで考えた上でものづくりをしていることを、それまでの十数年というあいだずっと見てきていたので、Appleという会社の考えそうなことが、「Appleらしさ」という表象として把握されていたことに由来しています。
その「Appleらしさ」に照らして新しい製品G4を見たときに「これはらしくない」と感じたことについて、改めて考えてみると、新モデルG4には、旧モデルG2のときにあった指でつまむための遊びがないことに気付かされました。
もしG4を、他の会社が出したのであれば、とくに疑問を持たなかったところですが、これを他ならぬAppleが出したという事実が、わたしを驚かせたわけです。
もしG4を衣服のクリップにつけようとして指でつまもうとすると、リング上になっているボタンを押し込むことになってしまいます。
それぞれ、Apple社が用意した公式ページからの写真。(右はサイズを合わせるために切り取った) G4では、G2のようなアングルからの写真が採用されなかったのはなぜだろうか? |
ユーザーが音楽プレーヤーを衣服に挟んで固定しようとしたときに、思いもかけず音楽が巻き戻ってしまうというのは、使い勝手をとことんまで考える「Appleらしい」仕事からはかけ離れているというわけです。
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誤動作を防ぐロック機能もあるにはあるので、これが致命的な欠陥だということにはなりませんが、小型化を目指したあまりに使い勝手を損なうというのは、あまり良い方向性とは言えないことは確かです。
今回の比較においてはあまり話を出さないけれども、と断っておいた第3世代(G3)は、ここを極端に踏み外したモデルでした。
あまりの小型化を進めて、まるで単なるクリップでしかないようなミニマムな本体デザインを手に入れたG3は、操作ボタンをイヤフォンだけに集約してしまったために、曲を選ぶためにもボタンの押しっぱなしで曲名を聞くなどの操作が必要になるなどという、使い勝手のうえでの著しい後退を示すことになりました。
G3(第3世代 iPod shuffle) |
この反省を生かしたところにこそG4がありました。
事実、G4では、G2をベースにしながらもG3の機能を盛り込んだひとつの完成形として本道を担うことになりました。
もっとも、そこにもわたしの指摘したような欠点があることも、今後の発展を予期させる手がかりとなっています。
要すると、G4の直系の前身というのは、G3ではなくてG2ということだったのであり、わたしがG3を飛ばして論じ始めたのも、それが理由となっていたのでした。
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歴史は必ずしも直線上の発展をたどらないということは、製品開発の分野においても、ある新しい発想が、度外れに新し「すぎて」、使い手がついてこられない場合があるために、そういったいわば冒険的な失敗作が、傍流として例外的な扱いになることから引き出してくることができます。
このように、ものごとの発展はジグザグの形をとっていますが、それを歴史的に長い目で見て一つの道として浮かび上がらせることができるのならば、その本道を、表象に置いて捉え得た、ということになるわけです。
長い友達づきあいで掴みとった「あなたらしさ」という表象が、たとえ言葉にするとその意味を失ったり、頭の中にしかなく実体として手に取ることはできなくとも、単なる妄想や勘違いのたぐいではないことは、ここからも根拠付けられるのがわかってもらえるのではないでしょうか。
(3につづく)
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