2011/08/04

「あなたらしくない」をどう理解するか (3):Appleにみる「らしさ」

(2のつづき)


前回では、Apple社の各世代の商品を形の上で比べてみたあと、その創作過程を遡るように考えてみて、同社が製品の使い手に対して、どのような配慮を行ったか、または行えなかったかを見てきました。

もっとも現代は消費社会であって、開発元はたとえ機能的にはほとんど違いがなくても、「毎年新モデルを発表しなければならない」という使命が課せられているわけであって、開発元が革新的な冒険をしようとすればするほど、その裏返しとして前のほうが良かった、という声も出がちであるという事実も指摘しておくべきかもしれません。

そのときには開発元は、内容はともかく見た目を変えることに寄りかかって新規性を作りだそうとする傾向が避けられないものとなりますから、ユーザーの側でも、ただ新しいからとか、ただ変わったからだとかで飛びつくのではなく、「その変わり方」が良い方向性にあるか、悪い方向性にあるかと、それを実際に手に入れたときに自分のライフスタイルに合っているかと考えてみれなければなりません。

◆◆◆

ただ、もしこのままApple社が、デザイン性を優先させるあまりに使い勝手を二の次に考えはじめるとすると、その「Appleらしさ」という表象はまた別のものへと移り変わってゆくわけですから、「らしさ」というものは、その意味では流動的です。

表象のこの性質は対象の性質に由来し、「すべてのものはたえず運動を続けている」ということから本質的に規定されているのですが、だからといって、Appleらしさの把握は人によっても違うし、個人の中でも時期によって違うから、本質などはじめからありはしないのだ、とかいう相対主義が正しくなることはありえません。

いくらゆく川の流れが絶えることのないものであっても、川が川であることに変わりはありません。
いくら人の細胞が数ヶ月で入れ替わるとはいっても、その人がその人であることにはなんの変わりもありません。

だからこそ、それを川であり池でも海でもないということには意味があり、その人があの人とは違うと言うのであって、学問的に整理すれば、概念は具体的なものを抽象してはいますが、その中に個別を含むという意味で「止揚」していると捉えるのが正しいのです。

「あなたらしさ」というものも、川の流れと同じで、そのものでありながらそうではなくなってきつつあるというように、変わらないものと変わってゆくものとの統一においてはじめて正しく理解できるものですから、あれかこれかという結論を出しそうになったときには、ちょっと立ち止まって弁証法的に考えるようにしてください。

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もしあなたが新しい服を着て学校に行ったとき、「あなたらしくないね」と言われるのが気になったとしたら、それがどのようなところを見た、どのような「あなたらしさ」と比べたところの感想なのかと、ときには本人にたずねてみることも含めて考えてみるとよいでしょう。

相手の中に「あなたらしさ」が表象として持たれているということからすれば、それなりの期間を友人として過ごしている場合が多いでしょうから。

その内実を調べてみると、
服装を変えたのに中身がそのままだから釣り合いがとれていないということかもしれませんし、
服装を整えて顔つきまで変わったということなのかもしれませんし、
服装を変えたことから新学期は新たな気持ちで過ごそうという志が読み取れたということかもしれません。

いちばん最後のことを指摘されていたというのであれば、自分のことを、その表現だけではなくて思いまでをも汲み取って評してくれているわけですから、これは丁寧にお礼を言っておくのがよさそうです。

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ところで、芸術家が、彼女や彼の「認識」を物質的に模写して「表現」したものを、鑑賞者はそれとは逆向きに、「表現」と向き合うことにより作り手の「認識」を読み取ることをとおして、その人格に感動を覚えるというのが、創作と二次創作の関係であったことを思い出してください。

これは、今回引き合いに出した音楽プレーヤーの作り手と使い手の関係も同じことが言えますし、上のような友人関係のあいだにも同じ構造を見つけることは難しいことではありません。

それぞれの過程の中には相互浸透があり、そのことを長く続けてゆくことによって、量質転化的に対象についての「〜らしさ」という表象が持たれることになってゆきますから、そういった間柄であれば、相手の「表現」を見通して、その裏側に隠された「認識」、つまり大きくは精神のあり方を想像してみる、ということができるようになってきます。

◆◆◆

そういうわけで、道でバッタリ出会った占い師や自己啓発セミナーなんかで、「あなたらしさを大事にしなさい」と言われたところで、その時には気分が良くてもあとで何の根拠もなかったことがわかってきはじめかえって落ち込むというのは、しごく当然なことなのです。

たとえ同じセリフを言われたのだとしても、その相手が気心の知れた友人なのならば、その意味合いは全く変わってきます。
なぜならそこに込められた精神のあり方が、まるで違うからです。

そう考えてみると、「あなたらしくない」と言われるのもなかなか悪いことではない…どころかむしろ、と、思えてきませんか。


(了)

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