2011/08/22

道具の本質の周辺:HPのWebOS機器開発中止の報によせて


一般の人たちは、会社の動きを見ます。


Android端末数がiPhoneのそれを抜いたとか、
Windows PhoneのあたらしいOSが出て期待できそうだとか、
そういうことですね。


自分の使っている機械のOSについて、それなりの関心を持っている人にとっては、
iPhoneを使っていればAppleを応援するでしょうし、それ以外のスマートフォンを使っているのならAndroidを悪くは言わないでしょう。
そういうことが理由で、競争する会社を見る側のユーザーのほうでも、その動きに合わせるように対立するような動きがみられることにもなるわけです。

そのときに論拠として挙げられるのは、市場におけるシェアや出荷数といったわかりやすい指標であって、これは指標であるだけに時代と共に移り変わります。
端末が多機能化するときには音楽プレーヤー市場のシェアだけに着目しているわけにはゆかなくなりますし、出荷数がいくら多くてもそれが売れれば売れるほど赤字になっているようなときには、その会社が長期的にはどのような戦略をとっているのかの中でそれを位置づけねば正しい理解はできなくなります。

そんなふうに、ある指標が本質を捉えそこねることが反省されて、別の指標に移り変わったとしても、そこに示されているのは単なる結果でしかないことに、何らの変わりもありません。

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ではその過程にあるのは何かといえば、人の動きです。

Apple社で“iPodの父”と呼ばれたジョン・ルビンシュタインは、Palm社(現・HP社)でWebOSというあたらしいOSを開発しています。
Palm社でインターフェイスのデザインを担当していたマティアス・ドゥアルテは、デザインチームとともにGoogle社に移籍しました。

この変化は、すぐに結果として現象することにはなりませんが、長期的に見ればそこでのものづくりを大きく変えてゆくことになります。

ですから、物事を本質的に把握しようとしたり、業界の動向を読み取りたい人は、人の動きに着目するわけです。


わたしは商学系の大学で学位を取りましたが、それでもどの会社が何をやって儲けたなどという話には、興味があった試しがありません。

商学の研究の場合でも、すでに起こった出来事をいくら分析しても将来は読み取ることができないばかりか、
いきおい余って細かな出来事の探求に身をやつすようにもなると、素人よりも誤った将来を予測しがちであることに加えて、
ひとりのユーザーから見ても、たくさんの人が使っているからという理由で自分の使うものの品質が保障されることにはならないからです。

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さてこれだけ断っておけば、このBlogでは、なにかが売れたかどうかやどこかが数で優っているかではなく、
そのものの本質的な規定において優れているかどうか、という物事の見方をするのだなとわかってもらえると思います。

人間関係についても同じことが言えますが、その人の意見が少数派であることと、それが正しく事実を踏まえているかどうかは相対的に独立しているのが当然なのですから、民主主義だからなんでもかんでも多数決の原理を持ち込めば答えが出るのだという短絡は、教育においても表現においても看過することは、絶対にできません。

そういう観点からすると、わたしはジョン・ルビンシュタインがPalm社に移ってから開発したWebOSを見たときに、ひと目でAppleのiOSに勝るとも劣らない使い勝手を実現していることがわかりました。

2009年に、かつてPDA業界の雄Palm社がそれを発表したときに、角のとれたやさしいインターフェイスやカード型の簡単明瞭なマルチタスク機能を見て、使い勝手の点でAppleを越える存在が現れるとは、ととても驚きました。

PDA市場の衰退と共に日本を撤退していたPalm社を、HP社が買収したときには、これで日本再上陸が叶うかもしれないという望みが持てると同時に、職人気質で経営的な観点に欠けるPalm社を、PCの開発をはじめて10年そこそこで世界最大手に伸し上がったHPなら、きっとうまく扱ってくれるだろうとも思いました。

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ところが、先週8/18のHPの発表です。

速報:HP、PC部門の切り離しを検討。webOSデバイスは終息

心底、がっかりしてしまいました。


続報が出たところで、さらにがっかりしました。

hp のPC部門切り離し、担当幹部も数日前まで知らされず

もはや、言い訳の余地なし。

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これが春先に、WebOSを自社開発のPCに載せてゆくとまで明言していた会社のやることでしょうか。
ひとつの会社が、目指すところを見据えるがゆえに目先の方針を変えることはありえますが、ここまでの言行不一致は信頼を失墜させるには十分です。
事実、同社の株価は現在暴落していますが、発言への信頼を欠いては資本主義を生き残ることはできないのですからやむなき事でしょう。

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インターフェイスに目を向けると、
マティアス・ドゥアルテの移籍で、これから少しは明るい展望が生まれてきたはずのAndroidを除けば、
ユーザーにとっての使い勝手でiOSに比肩しうるのは、いまのところWebOSを除いて他にありません。

現行のAndroidのユーザーインターフェイスは、あちこちで言われているように、一言でいえば"chaos"(混沌)なのであって、わたしからすれば、一般ユーザーに使わせてよいだけの品質を備えていません。

Windows Phoneについては、日本上陸の際に、より深く検討してゆきますが、いまのところ言えるのは「電話機はそもそも人とのコミュニケーションを取るための道具である」という原則論をふまえたところまでは良かったものの、競合と競争するにあたっては、それらが展開する「電子辞書にもなりナビにもなりゲーム機にもなる携帯端末」として使おうとすると、とたんに使い勝手が悪くなるという欠陥を解消する必要があるようです。

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インターフェイスについての議論になると、どんなユーザーでもフィーチャーフォンを使っていることを根拠にあげて、OSの出来・不出来などユーザーにとってさほどの関係はないと短絡する論者がいるようですが、それは人間の側に出来の悪いOSに合わせるだけの柔軟性が備わっていることを、度外れに強調しているにすぎません。

オタクはどれほど使い勝手の悪い携帯電話でも自分なりにカスタマイズして使いますが、一般ユーザーがいくら慣れたといっても、電話機能とメールをやっとできるという範囲より外には出ることができないからこそ、「簡単ケータイ」なるものがロングセラーになるという事実があるわけです。

人間には、決まった操作をルーチン化して、ひとつの技として身につける能力が備わっているために、出来の悪い道具でもそれなりに使いこなせはしますが、そのことが道具の品質がどうだっていいというのであれば、人間が機械にあわせるべきだという、とんでもない機械論だと詰られても仕方がありません。

道具は、それが生産性を上げるためのものである限りは、その作り手は、作り手としての義務でもって、使い勝手への探求を決して止めてはいけないわけです。

いくら代用が利くからといって、鉛筆を箸の代わりに使ったり、カッターナイフで魚を捌くといったことは、特殊な場合でない限り、人に押し付けて良いものではありません。

道具の本質というものはそういうところにあるのであって、物事に本質などないという相対主義者や、本質が先に存在して個別はそこから生ずるという三流観念論者に本質が捉えられないのは、「本質」という文字といくら格闘したところで、具体的な事実の検討なしにそれを規定することなどできるはずもないからです。

◆◆◆

そういう意味でWebOSが示した思想性は、道具の本質をとらえたところにありました。

HP社は、WebOS搭載ハードウェアの開発をやめる代わりに、ソフトウェアとしては存続させてゆく意向を示していますが、これだけの言行不一致をしでかした会社に、うまい舵取りを期待すること自体がナンセンスだと思えてきます。

道具の本質に興味のあるわたしにとっては、同社がPC事業を本社から切り離すといった決定よりも、WebOSの今後のほうが、はるかに気になるところです。

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