2011/11/01

構成とはなにを意味するか:「文学考察: あしー新美南吉」を中心にして (2)

前回の最後には、



おねしょの話がでてきました。

わたしたち人間が、大人になるにつれておねしょをしなくなる理由を考えてみてほしい、と言っておきましたが、少し思うところはあったでしょうか。
それとも、おねしょと評論に一体何の関係があるか、と思われたでしょうか。

どうでもいい話ですが、わたしは経営学を専攻していた時期もあり、実地でビジネスをしておられる方とたとえ話をまじえて理論の話をすると、大体は後者のような反応が返って来て叱られる、という経験をしてきましたが、こんな文字ばっかりのblogにわざわざ来てくださっている読者のみなさんの反応がそうでないことを願います。

ここで例示した両者のあいだに横たわっている共通性というのは、一言で言えばひとつの技術が自分の技として身につく過程を一般的に捉えたときの構造なのです。
わたしたちが当たり前に身につけて駆使している人間としての技は、わたしたちが幼少の頃に、お母さんやお父さんが熱心に注意して導いてくれたことによってその振る舞い方として完成されてきたものですが、その過程に置かれていたわたしたちにとっては、それらの経験を正しく記憶の中で位置づける心身ともの実力を持たなかったために、「すでに完成されたもの」としてしか自覚しにくいものであるという特徴を持っています。

人間として完成されてきた存在には等しく、この「人間として育まれた」という過程があり、完成されてきたというよりもむしろ、「完成させられてきた」というほうが正確なほどの蓄積があるものなのです。

◆◆◆

ここまでいっしょに考えて来てもらえれば、前回のさいごの問も、なるほどなんだかわかりかけてきた、という方も多くなっていそうです。

もしそうであれば、ここまで大きくなっているわたしたちが、
水を張ったおけと同じようだからとフライパンで熱せられた油に手をつっこまないのは、
犬小屋を掃除した雑巾で顔を拭かないのは、
蛇口を締めるときはお湯の方から締めるのは、
食事の前には手を合わせて「いただきます」と言うのは、
なぜ身についているのか、ということもわかりつつあるはずです。

これらはすべて、自分で合理的に考えて導きだした生活の作法であると言うよりも、わけもわからないままにそう教えられてやっているうちに、そのなかから合理的なものを見つけるとともに、その実力そのものをも養わされてきたという過程を持っていることなのです。

どれほどに幼少の頃の自分の精神のあり方を思い返すことができない人間でも、実際に自分の子どもが生まれたり、身近に接するようになると、彼女や彼らを自分の写し鏡として、自分がかつてそうであったころのことを振り返る(観念的な二重化)ことができる場合がほとんどです。
そうすると、物心つくころには、それまでの少ない経験の中からでもひとつの考え方を導きだしてきますから、「あれかこれか」という割り切り方しかできなかったとしても、素朴なものごとの見方、つまり「物心」というものを身につけ始めることがわかります。

たとえば、親戚の子どもにたいして「●●くんはそのブロックで遊ぶのが好きなのね。保育所ではみんなそれで遊んでいるの?」という聞き方をすると、「ううん、みんなじゃない」、という答えが返ってくることがあります。

この子供さんは、なにを指してそう応えたのかわかりますか。
これはなにも反抗したいなどというのではなくて、「みんな」という言い方が、「そこにいるすべての人たち」という意味以外ではないために、それは事実と違うよと言いたかったのであって、こういう種類の反応が、大人からすれば、一見すると融通が利かないようにも思われるのです。
もっともこの反応は、大人が社会的な経験の中で多数に合わせたりして知らず知らずのうちに妥協したりぼかしてきたりしたことばそのものの意味を再確認する契機となる事実でもあり、「嬰児のしだいしだいに智慧づきて佛に遠くなるぞ悲しき」と一休禅師に謳わしめたのは、こういったことがらを指しているわけです。

◆◆◆

ここまで言うと、なにか言いたくてうずうずしている読者の顔が浮かんでくるようです。

面と向かっての授業なら目があった人に、「鋭いですね」と答えてもらうところですが、おそらくうずうずしている読者のみなさんの言いたいとおり、この、人間として育てられてはじめて人間足りうる、というのは、なにも「個別的な知識」だけに限るものではありません。

両親に教えられて、はじめは「そんなものかなあ、よくわからないけれど」と疑問を感じる実力もないままに導かれて、形から真似始めているうちに、その方法でものごとを進めると危険を避けることができたり、また学校に入ったときには同じ歯磨きでも友だち同士でやり方が違っているという経験を見ることをとおして、「なるほどこういう理由があったのか」と学んで、質的に身についたことを逆向きに捉え返し始めることがあります。

そのことに疑問を持って、友だちのやり方と自分のそれとはどちらが良いのかなと考え始めて、そこに一本の道がすっと通ったときに、ひとつの道がうっすらと見え始めます。それが、「ものごとの考え方」、つまり「論理性」になってゆくもとになるものです。

わたしたちが人間として育てられる過程に受けた教育の中には、具体的な知識の他に、こういったものごとの考え方が含まれていますから、小学校入学当初から、すでに「理解の早い子」という個性が生まれているわけです。
ここで理解がはやいというのは、直接には知らないはずのあたらしい分野の学習でさえ、飲み込みが早いという不思議がありますから、それをほとんどの人は「天の才」であるというふうにみなします。

たとえば両親を医者に持つ子どもが、ままごとでも医者らしく振舞うのは現象としてわかりやすいことながら、そのほかにも、教えていないことまでどうしてだか考えを進められているという事実に、保護者や先生がびっくりさせられるというのは、知識だけでなく、考え方や目のあたりにしたものごとを整理して理解するやり方そのものをも学んできているからに他なりません。

この論理性の養成にまで筆を進めるとさすがに脱線しすぎの感がありますから掘り下げて論じませんが、両親がすぐに感情的にならずにちゃんとした理由を持ってしつけをしたり、また子どもが答えにたどり着く前にあれやこれやと説明してしまわないことが大切だと言われる理由も、こうして過程に目を向ければ見えてくるはずです。

◆◆◆

これはなにも、子どもの教育だけに限ることなのではなく、あらゆる修練について必ず守らなければならないほどの重要事を含んでいるのであり、文芸についても同じことが言えます。

わたしが文芸の指導ではデッサンや作品の理解に手を抜かせなかったり、フォームが整っているかを、長期間にわたって厳しく指摘するというのはまさにここに理由があるのであって、はじめに定めた形がそのもののうちに持っている実力以上には、武芸は絶対に上達し得ない、という恐ろしさがあるからです。

上達過程で、あれがいいこれがいいと、形や型をコロコロ変えて良いものではなかったという事実は、到達した結果を自分で目の当たりにすれば自ずと知れることですが、人生を棒に振る前に、ぜひとも生涯をかけての上達過程を前もって仮定してみて、「ほんとうにこの道は頂上までつながっているのか?」と、やり方そのものが最上のものであるかを確認して欲しいと思います。
人からダメだと言われると、なおさら意固地になってしまうものですから…。

以前知り合いが、「私は幼少から剣道をしてきたから右腕の腕力が常人の3倍あり云々」などと話しているのを耳にして、思わず「あなたは右腕を柄の近くにして竹刀を握っているのですよね?」と確認してしまったことがありました。
つまり、ごく一般的な剣道をしているのなら、右腕だけが異常に発達することなどあり得ないからです。(左腕ならまだしも、ですが)

いつも言っているように、「頂上にはたどり着かない道」というものもあるのです。
もっと言えば、「やればやるほど下手になる」というやり方もあるのです。
指導してきた側に責任があるとはいえ、数年の蓄積が苦い結果に終わってしまうのを見るのは、なんとも悲しいことだと言わねばなりません。

◆◆◆

専攻する分野はともかく、自分の取り組むやり方だけは、考えうる最上のものであることが一流になるための絶対的な条件です。

水難事故のための水泳を学びたい、武道を護身術のレベルまで学ぶことが出来れば良いなど、「わたしはこのレベルで十分」という目標設定の仕方はあり得ることですが、「どうせ到達しないであろう」という含みをもたせた目標や夢の描き方しかできないのであれば、そもそもその対象には取り組むべきではありません。

そんなことに時間を使うなら、どんなことでももっと自分のためになることがあるでしょう。
そもそもの夢や目標を目指すための動機のほとんどを、異性にモテたい、強く見せたい、などという外聞ばかりが支配しているから、やりたくもないようなことをいい加減な目標を掲げてやってしまうことになるのではないでしょうか。

泣いても笑っても一回きりの人生ですから、どうせやるなら最上のやり方で、と考えてゆきましょう。

歴史上に名を残している偉人たちが例外なく、若い頃は非情な不理解に苦しめられてきたり、爪弾きになったあと力を得て元の道に戻ってくるのは、そのころに、「ただがむしゃらに頑張った」というのではなく、努力はもちろんのことながら、「やりかたそのものが本質的かどうか、最上のものかどうか、一流に通じる道なのかどうか」ということを、日々真剣に考えながら歩んできたからです。

こういう過程がなければひとつの道を歩き通すことはできないというのは、ひとつの歴史的な必然性であり、構成を整えるということの本質は、論理性を整えるということに他なりません。

文学の場合であれば、構成を整えて論じることをとおして、自らの認識を整え、整えた認識を技として持つことが最低限度必要であるということです。

やっと話が元に戻ってきましたが、ともかくわたしはあらゆる事柄を、やりかたそのものを歴史性をふまえて考えることのできる力が身につけば、それは一見遠回りのようでありながら、その力はどこでどんな問題にぶつかった時にも使えるほどの確かなものとなってゆくことを学問の世界を歩く中で学び、その力に突き動かされるようにしながら実際の問題を解きながら確かめてきたので、後進にもそのやり方を自然に踏まえてもらえるようにと考えているのです。

こう説明されると、今回例に挙げたところの、力をつけつつある論者も、当初はとにかく言われたとおりにやってきただけだった修練内容を振り返ってみて、そこにどのような内実が含まれていたのかを確認してもらえるのではないかと思います。


(3につづく)

1 件のコメント:

  1. >やりかたそのものを歴史性をふまえて考えることのできる力が身につけば…

     身につけたいです。

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