2012/03/10

極意論とはどう向きあうべきか (1):「文学考察: 仇討三態・その三ー菊池寛」を中心にして

※前書きが長くなったので記事を分けました。


この記事は、明日の21:00に公開する記事の前置きのお話で、このBlogで学んでほしいことについて言及してあります。

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評論へのコメントの書き出しでこんなことを言うのもナンですが、せっかくこんな文字ばかりのBlogを読んでくださっている読者のみなさんへ、ぜひともわかってもらいたいことがあります。

常々表明していることなので繰り返しになり恐縮ですが、このBlogは、「へ〜なるほどね、今はそんな新しいことがあるのか」といったふうな新しい「知識」をお伝えしているところではありません。

そうした勘違いをされないために、「心理学的に言えば云々」、「哲学史に照らして言えば何々」、といった知識的なことはほとんど登場させずに、学問用語で言えばひとつの概念を提示すれば終わる話でも、その代わりに身近な例で置き換えるような工夫をしているくらいです。
これはつまるところ、一生のうちに一秒たりとも無駄にできないはずの、貴重な、貴重な時間を費やしてここに来てくださっている読者の方々に、「ものごとを本質的に見るということはどういうことなのか」、「本質的に考えるということはどういうことなのか」、「それはどのようにすれば使えるのか」、をお伝えしたいがためです。

それぞれに対応する言葉は、学問的にいえば「認識論」、「弁証法」、「表現論」および「技術論」ということになりますが、それは簡単にいえば、個々別々の雑多な知識をお知らせするのではなく、「ああ、こういうふうに考えればいいのか」というものであり、いわば本質的な根っこをつかまえるところの考え方、俗に言う「知恵」のようなものなのです。

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しかしわたしたちの日常生活では、時間のかかる考え方の習得などよりも、過程はともかく1年後に大学に合格しろ、とにかく取引先を回りまくって今日の売上を増やせ、と言われることが多いでしょう。
10年後に自分がいかに本質的な前進を遂げているかよりも、今日明日何をして食っていくのか、がはるかに優位に立っているのであり、それどころかタテマエはともかく実質的には、前者などは「考えるだけムダ」と切り捨てるのが暗黙の了解です。

学校でも社会でもそんな雰囲気の中で、なにを思ったかこんなところに学びに来る人たちは、それだから、心身ともの自分自身の全細胞を根こそぎ入れ替えるような厳しさで自分の道へと取り組まねばならないことになっているのです。
ただ本質的に前進したい、という一念については、わたしに直接尻を叩かれている学生さんだけではなくて、ここにわざわざ来てくれている読者のみなさんにとっても同じことだと思うのです。
この場合は、直接叱られるという手引きがないために、「自分自身の細胞を入れ替えて、本質的な前進をできる自分へ転化させるのだ」という強い自制心が必要ですから、むしろとても大変なことをやっておられるのではないだろうかと思ってもいます。

弁証法を使って考えてみてください、と言われても、たとえば「なるほど、他人であったはずの夫と、最近口癖が似てきたと言われるのは<対立物の相互浸透>と言われる法則かもしれない」と一時はわかったとしても、次の日には仕事や家事の忙しさに負われてそんな問題意識などどこへやら、とにかく食わなければ勉強どころではない、と吹き飛んでしまいがちでしょう。

それもそのはずで、ひとつの技の習得には、毎日欠かさずそれに取り組むことが必要であるように、弁証法や認識論の上達は、ピアノの上達、武芸の上達と同じ修練の過程が必要とされるからです。
日々の修練の途上には、砂を噛むような味気なさや、数カ月のスランプがあることも稀ではないものです。

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そこをなんとかひとつでも手がかりはないかと、試みに、「弁証法」と辞書をひくと、カントにおいてはなんたら、ヘーゲルにおいてはなんたら、とえらく難しいことが書いてありますよね。
さてでは、そのことばを読んで、どのような技かがわかりましたか?「ああなるほどそういうことか、これはいいことを知った、明日から使ってみよう」という意欲が湧いて来ましたか?

そんなわけがない!というのが素朴な感想ですよね。それで良いのです。
技と言うものは、説明を読んで習得できるものでは決して無いからです。
どれだけ遠回りに見えても、日々の修練を通して獲得してゆかねばならないものだからです。

わたしの雑談やコメントを読むと、必要なぶんだけは馴染みの薄い学問用語も出てきますが、それよりも重要なのは、そのほとんどの表現の中に、弁証法が(直接は眼に見えないかたちで)含まれているのだ、ということなのです。

ここは注意して読んでくださいね、というところには括弧書きしてありますが、そうでないところがほとんどです。
(以前は弁証法の法則などの学問用語を<>で括っていましたが、あまりに物々しいですから、最近は特別に強調したい場合を除いて()で括って書いてあります)

ですから、何が言いたいかといえば、
「文章の流れの中にはたらいている弁証法性を探して読むということを、意識してやってもらわなければいけない」
ということなのです。

その作業をしない場合には、その表向きの表現のなかから、自分の気に入ったものを見つけてしまいがちになるのです。

たとえば次に公開する記事のコメントの中に、こんな表現があります。
「それだけに、刀に相応しい使い手の人格が必要になる(相互浸透)のです。」
ここで法則について括弧書きしているのは、この箇所が格言風であり、極意論的であるがゆえに、単に格言などのような、「知識」一辺倒に受け止められる危険があると考えているからです。

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読者のみなさんは、こういうフレーズをまる覚えして、友人や後輩に、「いいか大事なのは、刀に相応しい人格を養わねばならぬ、ということだ」と言ってみたくなったことはありませんか。
そういう感情は、仮にも人間なら誰でも持っていますね。
まだ経験の少ない年齢であればあるほど、その傾向は強いでしょう。
自分に足りないものを、ほかから横滑りしたもので補おうとするからです。

こういった格言を言おうとする時には、二種類の方法があります。
ひとつに簡単な知識をまる覚えして表明することと、それに対して、長い長い経験を経て、そこから血のにじむような努力でつかみとってきたたったひとつのコツをなんとかことばに紡ぐこと、です。
このそれぞれは、過程をまるで含んでいないものと、過程を多分に含んではいてもそのほとんどが表現の中に隠されて(抽象されて)表向きは見えないもの、という大きな違いがありますが、それを聞く者にとっては同じ表現に映ります。

それなら、どこかで聞きかじった知識的な格言を、同期や後輩に向かって披露すれば格好はつくのだから、それで済ませてしまおう。
こう考えてしまうかもしれません。
ところが、このやり方では、格好がつくのはたかだか数年で、なにしろ難しいことはよく知っていても、格言などというものはおいそれと実行できるものではないからこその格言である以上、実際には技として使えていないことが露見してきます。
そうすると今度はその言行不一致ぶりから、かえって頭デッカチの衒学者、という謗りすら受けかねないことになるわけです。

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わたしは短期的な格好がつくかどうかなどよりも、長期的に見て本当に当人の実力になること「だけ」を集中して指導し、伝えてゆかねばと心に誓っていますから、読者のみなさんにも努力を強いる形になって恐縮ですが、ぜひともひとつの表現が、どのような技を使って導きだされたものなのか、という「過程」にこそ目を向けていただきたいのです。

その手がかりとして、今回取り上げた格言風なことばや、極意論的なことばには、必ず断りが入れてあることに注意してみてください。
「極意論的に要すると〜」とあったときには、「この先は結論だけを書いてあるから、これをまる覚えしても何の意味もありませんよ」という忠告も含めて伝えたかったのだな、と理解してください。
それまでの文章の展開をいちおう踏まえられたのであれば、その極意なるものは、読者ご自身のアタマで考えたとしても、似たようなものが出てくるはずなのです。
そのことは、いわば備忘録のための一言、でしかないのであって、その表現を振りかざしてもなんの意味もないのです。

このせわしない世の中の流れの中で、少なくともこのBlogを読んでいるうちは、「あれもこれも知らないと馬鹿丸出である!情報の波を泳ぎ切ってみせよ!」というような喧しい言論はひとつもないものと思います。
ですからここに来てくださっているその時間はせっかくの機会ですので、「急がば回れ」のやり方を読み取ってくださり、たとえ時間はかかっても、1年後、3年後、また10年後に「質的な」前進をしよう、そのためのやり方を少しでも読み取ろう、という姿勢と方法を少しでもたくさん掴みとってくださるよう、切に願っています。

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参考にしてもらいたい文献は、専門的な話題が出てきた時にどうしても避けられないものについてわずかばかりに提示するだけですが、わたしは三浦つとむの続きの仕事、とくに表現論と認識論に取り組んでいる関係上、下記の本については目を通してもらっているものとして記事を書いてあります。

・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』

また同じ作者の『芸術とはどういうものか』などからはじめて、全集なども併せて読み進めてもらえれば、さらに理解が進むものと思います。

こんなやり方でいいのかな?など不明な点がありましたら、遠慮なく一声かけてください。
本質的なものが理解されないままに蔑まれるのはいつの時代でも同じなのだ、と覚悟を決めて、自分こそは、と考えている人には、助力を惜しみません。


(2につづく)

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