2012/05/01

デザインの世界観をいかに継承するか:G2R "BLACK KIWI" (2)

昨日の記事では、


ハニカム(蜂の巣型の六角形)をたくさんつかったフェイスデザインを検討しました。

試作001(前回掲載したものと同じ)
三角形や四角形、今回使った六角形などといった図形は、人類が自然のなかで見つけた多様な形象を、「かたち」像として抽象化したうえで、数字と関連付けることでより明確に持つようになった概念です。

そのどれもがまっすぐの線だけから構成されているので、純粋なものと見られがちであり、そのことを受けて、n角形で構成されたデザインを多用することによって純粋性を保とうとする作家もいます。

こうした観念論的な考え方では、眼の前に見える具体的な個別よりも先に、一般的な類型の存在を認めるのですから、「お隣のポチ」の前に「犬」のイデアがあり、それをもとにしてポチやハチ公が生成されているのだと説明します。

しかし唯物論、科学的な世界観では、そうは考えません。
あくまでもわたしたちがおぎゃあと生まれてものごとを見たり感じたりするという経験のなかで、お隣のポチや図鑑のコリー、映画の中のハチ公といった個々別々の個体をとりあえずは捉えた上で、それらを抽象化することによって「犬」という概念を生成させてゆくのです。

それらの概念は、物心付く前からわたしたちの脳裏に宿っているために、あたかも生まれる前や前世の記憶として、個を超えた人類全体が普遍的に持っているかのような錯覚を覚えたとしても、いちおうは無理のないことかもしれません。

しかし事実としては、意識しようとするまいと、犬という概念も、n角形というそれよりも比較的に抽象化の進んだ概念にしても、わたしたちの生活経験から抽象されてきたものです。

そういう向きでよくよく考えてみると、自然界には純粋な直線というものはほとんどありませんから、たとえばn角形に備わっているように見える純粋さは、自然の中にある素朴さではなくて、あくまでも「人間が観念的に抽象化したこと」に由来する純粋さであることを忘れてはいけません。

何が言いたいかというと、直線や円といった、抽象化された図形をいくらたくさん使っただけでは、シンプルで優れたデザインにはならないのだ、ということです。

◆◆◆

それではほんとうの意味で自然に学んで、そこから良いデザインを創りだそうとすれば、どのような過程を踏むのが正しいのでしょうか。

わたしたち人類が、その総体として歩んできた歴史のなかで、n角形や円といった図形が獲得されてきたことは先程お話しましたね。

しかしあの図形は、わたしたち個人個人が、自らの手で獲得したものではありません。
ここに、大きな問題があるのです。

ある意味では、ここまで抽象化が進んだからこそあれらの図形を小学生の間にしっかりと身につけることができ、さらにそれを公式的に使うことができるという利点を持っているのですが、その反面、それらがどのような個別を抽象化して獲得してこられたものなのか、という過程については、わたしたち一人ひとりのアタマの中にはぽっかりと抜け落ちてしまっているからです。

たとえばわたしたちが概念として持っている「三角形」という概念について考えてみてください。
わたしたちは、犬の耳やヒトデの足、角張った石ころの一つの面から、それを導き出しましたか?
そうではないでしょう。
それとは逆で、小学校のあいだに「三角形」という図形を習ったから、あらゆる個別の実体からその図形に似た形を引き出してくるだけの力が養われた、というほうが正確なはずです。

しかし実のところ、こういった学習の仕方は本質的な進歩から見れば、むしろひとつの後退を意味しているのであって、それがどれだけ高度なものであろうとも、誰かが発見した図形や公式を、いくら現実の中に見いだしたとしても、それは単なる追試にしかすぎないのです。

本当の進歩というのは、古代のギリシャ人が自然のなかの美しさから、黄金比なるものを引き出してきたのと同じことを、現代的な視点で新たに行える実力を養うことにあるのですから。

◆◆◆

ではどうすれば良いのか?

どうすれば、本質的な進歩として、普遍的でかつ新しいデザインを考えてゆけるのか、を結論から言えば、まずはわたしたちがすでに習得してしまった「抽象」像を念頭に置きながら、それを「具体」的な個別の中に見つけ続ける、ということにあります。

わたしたちが義務教育を始めとした学校教育で学んできたことは、当然ながらそれはそれで人類の進歩に従っての内実を含んでいるのですから、その意味では現代に相応しいだけの相当に尊く意味のあることなのですが、そこから自らの足で本質的な前進を遂げるためには、この「おりる」という過程がどうしても必要なのです。

すでに人類が抽象してきた概念を念頭に置いて、それらが具体的な個別のどこにあるのかと探しまわって、つまり幾度となく「おりる」という過程を繰り返すということは、結局のところ、人類がどのようにして個別から概念を抽象してきたのか、という「のぼり」の過程を逆向きに辿りなおすことでもあるのです。

この、個人としての「おりる」ことと人類としての「のぼる」の統一、つまり「のぼりおり」の中で、n角形とかその公式とか、そういった結論だけではなく、それらがどのようにして発見されてきて、どのようにして抽象化されて図形や公式といった概念となってきたのか、という過程、さらには過程的な構造をこそ、わたしたちは必死に習得しなければならないのです。

幼少の頃に、歩道橋の上から車のナンバープレートを見て、棒線でつながれている左右の数字を足したり割ったりする子どもや、習ったばかりの割り算でクラスを半分に分けようとしたら、最後の一人を真っ二つにしなければならないような気がして怖い思いをしたりする子供たちがいます。

彼女や彼らは一般的な観点から言えば学習が遅いので、周りからは取り残されたり変わり者扱いされることもありますが、最終的に飛躍的に伸びる可能性を持っています。
これは上で述べたような「のぼりおり」を独学でこなしていることによって、それなりの必然性を持つことになっているのです。

(このことは、庄司和晃が三段階連関理論で、また三浦つとむが『1たす1は2にならない』でヒントを述べていましたが、彼らの示唆に従って教育論に認識論を取り入れている人はあまりにも少ないようです。上のような問題を、訓練の数や感受性の問題だけとして捉えるのは誤りのもとです。教育や指導には、人間が持っている認識の立体構造の把握が必要です。)

◆◆◆

ここで述べた「のぼりおり」の必要性は、人類が個別から抽象して「のぼった」ことを逆向きに「おりてみる」という、とても大きな観点からの本質的な歩み方ですが、それを小さな問題として扱ったところに、前回のこの発言がありました。


「具体的なものをいったん抽象化したのちに、別の要素を加味しながら具体化しなおす」


今回の場合で言えば、わたしたちがフロントバッグの時に作った鳥の顔のモチーフを、単純な直線として抽象したあと、再び別のモチーフとして描き直す、ということです。

これが、今回問題にしている、世界観の継承のためのやりかたでした。

こののぼりおりの過程は、眼に見えない形ではあっても客観的な関係として結ばれることになりますから、たとえば自然界にはあり得ないようなドラゴンやキメラ、ユニコーンなどといった想像上の生き物を創作するときにも、抽象化と具体化がうまく組み合わさった時にはじめて、「ああ、なんだか本物みたいだな。本当にいそうだな」という感触を生むことになるわけです。

いくら独創的な創作物ではあっても自然のあり方から学ばないものは、成立の根拠を持ちえないというわけです。

◆◆◆

わたしは今回、先程も挙げた「試作001」が、角張っていて面白みのないデザインであることを確認した上で、さらに具体化を進めることにしました。

そのときに使ったのが、前回表にまとめておいた「鳥の尻尾」というモチーフです。

試作001+鳥の尻尾、はこんなふうになりました。

試作002


中央のコンチョの下の切り欠きが、ハニカムを少しずつ崩したような、鳥の尻尾のようなかたちになっていますね。
ほかにも、ベルト留めを2枚の革を用いて交差させられることが技術的にはっきりしたので、立体感を持たせる工夫を盛り込みました。

ところが、それと同時に、尾のようにつくった口の部分は歯車のようでもあり、ベルト留めも角張っていることから、フロントバッグの生物的な雰囲気に反して、機械的な印象を持つようになって来てしまいました。

◆◆◆

そのことを反省する方向で、さらに丸みを帯びるようにしたものが、試作003という形をとることになりました。

試作003
このときに、中央に位置するコンチョと、その両側のベルト留めのほかにも、あらゆるところに「円」が用いられ始めているのがわかってもらえると思います。

ベルトの先端も円ですし、ベルト留めの下の切欠きの曲線も円ですし、2つのベルトの先端の曲線も、それを大きく延長した時には鞄の腹部を抱え込むような大きな円を持っていますし、また顔となっている尾部も大きく見たときには円が隠されています。

このときに出てきた「円」というモチーフを念頭に置いて、オーナーと見つけてきた素材を検討しながら、次のようなイメージをふくらませてゆきました。
・自然というものが、雑多な様相を見せながらもなお一定のかたちで調和がとれているということ
・円があるからには、その中央は一点に集約されること
・フロントバッグの一点で始められた曲線は、リアバッグで円環を迎えて始点に戻ること

◆◆◆

完成を迎えた現在から言えば、このときに「円」というモチーフがとても深い意味を持ち始めたことから、もともとあった「尻尾」というモチーフは、次第に不要のものとなってゆくことになったのです。

ここでは紙面の都合上、3つの試作を掲載しましたが、実のところ、この他にも10案以上は実際に上記のようなデザイン案を作ってみては壊し、のくり返しが行われています。

ただひとつ言えるのは、そのデザインの過程というのは、大きく見れば一定の方向に進んでいるということであり、ほとんど逆向きには進まなかった、ということでした。
このことは、わたしたちの今回の進み方が、抽象から個別へ、という大きな流れの中にあるということであり、砕けた言い方をすれば、抽象的な概念的な図形から、実際に四肢を持って生きている生物のあり方へ、という方向性であったということです。

ひとつの生物の身体つきをみると、そこにはあらゆる形が見え隠れしており、抽象化しようとすればあらゆる図形が出てきますが、それでも、全体としてはひとつとして無駄のないかたちをとっているものです。

わたしたちはそういった、骨格や筋肉とそれらの連関、運動の際の緊密な連携という、生物の身体の仕組みから学んで、フロントバッグ、リアバッグはそれぞれとして個性を持ちながらもなお、自転車全体の一部として大きな繋がりを持っているというかたちに仕上げようとしたのです。


(3につづく)

1 件のコメント:

  1. ‎2012‎年‎4‎月‎30‎日の記事を読んだ直後の感想は、>「科学とは何か」というお題についてのお返事を4月中にすませましょう。< の約束は ?!明日から五月だよ~でありましたが…
    ~その後、もしかして…と思いきや…今日の記事です。

    「 科学を説明するのに『科学』という言葉を使うのが当たり前 」 的先入観に毒されていた自分を発見できました。

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