2011/07/01

毎日の暮らしを整えるには

※今日は予定をちょっと変更して、こういうテーマで少し書いておこうと思います。
必要に応じて適宜、公開する記事を選べるのはBlogという媒体の良いところです。
昨日の続きを楽しみにしてくださっていた読者の方はすみません。近いうちに公開しますね。


「毎日、時間をどう使えばそんなに色々できるんですか」。


ある学生さんに、春先あたりにこう聞かれました。

「色々っていうのは?」と質問を質問で返しましたら、こんなふうに思われていることが理由の質問だったことがわかりました。
「仕事もするし運動もするし、芸術もやってますよね。あまり寝ていないのかなと」。

それで、こんなふうに答えました。
「けっこう寝てるほうだと思うよ。頭痛持ちだから寝ないと効率悪いもの。
いつも動きまわっていないとかえって落ち着かないのは確かだけどね」。

その日は、そのことについてもっと正確に言いたいなと思っていたのですが、
話題がほかに移ってしまったのでそのままになっていました。

そういうわけで、思いつくことを書いておくことにします。

◆◆◆

人生をとおしてあれもやりたい、これもやりたい、という場合には、あれをやったあとのこれが、一定期間以上の間が空くと効率としてはとても悪くなってしまいます。
ですから、できれば一日のあいだに両方に触れておける環境を整える必要があります。

そういうことをうけて、あれもこれもやりくりするための実践的な工夫という場合にはいくつかありますが、そのことについて、ちょっと思い出したことがあります。

あるとき、わたしのやっていることを全部真似して、それよりも5%ずつ作業時間を多くすれば、じきにわたしよりも知力・体力ともに上等の人物になれるはずだ、と言っていた弟子がいました。
これを聞いたときには、ずいぶん信用されているなあと嬉しく思うとともに、そういう考え方があったか、というおかしさが相まって、なるほどと笑ったものです。
ですが、やってみればわかるとおり、それは無理です。

まずこのアイデアについての根本的な欠点は、時間をかけたからと言って同じ結果が出るとは限らないことです。
成果をより良くしようと思えば、そこにかけた時間よりも、目標を目指すための「やり方は正しいか」、という過程に目を向けねばならないからです。

たとえば、トレーニングを後輩たちにしてもらうと、運動に慣れている(?)人ほど、腕立て・腹筋・背筋などの基礎運動を、異様な速さで終えてしまいます。
ですが、あれではだめです。
むしろ補強したい部位に意識を集中しながら、ゆっくりやったほうが、回数はさほどでなくとも効果はあるものです。
これは、眼に見えやすい結果を重視しがちな場合に陥りがちな誤りですが、どちらにしても過程に目を向けねば上達は頭打ちになってしまいます。

読書について言えば、「本を何冊読んだか」よりも、「『どれくらい大事な』本を、『どれくらい大切に』読んだか」のほうが、はるかに重要なのだと言えば、少しは「過程」というものについて眼を向けていただけるでしょうか。

◆◆◆

また実践的な問題として、これは何も自分だけに当てはまることではありませんが、ある人が自分の道を突き詰めてゆく過程で、細かな工夫を凝らして生活を整えている場合に、他の人が「いきなり」同じ生活のサイクルを過ごすことはできません。
無理して1日だけならまだしも、1週間、1ヶ月と続けることはまず無理です。
というのは、睡眠時間はちゃんととっているわたしのばあいでさえ、一日のあいだにやることとその時間は、かなり合理的なものになっているからです。

たとえば、研究職という仕事を選んで毎日数時間も机に向かうとなると、姿勢が悪くなり、精神的にも参りやすくなります。
そういうわけで毎日身体を動かさねばなりませんから、身体的なトレーニングが必要になってきます。
そうやってデスクワークで固まった身体をほぐそうとして毎日トレーニングするともなると、「今日はしんどいから止めよう」というわけにはゆきませんので、湯船に浸かってのマッサージなど、今日の疲れを明日に残さないための工夫が欠かせません。
ところが悠長にマッサージだけをやっている余裕はないということになると、ジップロックに入れたiPadなんかで下調べだけでも済ませてしまえば、入浴後の一仕事も楽になるでしょう。

こういう自分についての特殊性と、生物体としての人間に必要な代謝、つまり睡眠や食事を併せて考えたものを大雑把なスケジュールとして持つことにします。

すると、その内容はというと、誰にとっても守らなければならないものがあるように、わたしの場合には、自分自身で自覚的に決めた生き方、「学者」として生活を考えたときに、正しいことを正しく考えて、正しく伝えてゆかねばなりません。
この規定からすると、慕ってくれている後進を失望させることはできないことになるので、指導のために一日のうち数時間は使うことになります。
ここで実作業として数時間使うということは、下調べや考えをまとめることは他の隙間の時間にやっておかねばなりませんから、これを移動中などにしておきます。
また、後進のための原則に従えば、去年と同じことをやるわけにはゆきませんので、毎年、質的な向上が見られるかどうかということを厳しく目標として定めることにもなるでしょう。

◆◆◆

これは単なる人柄とか気質的なレベルのものですけれど、わたしには、「人生は旅だ」というおおまかな指針があり、これは今日やったことを明日もできなければ意味がない、ということです。
今日は特別に頑張ったから明日は家でゴロゴロしていた、というのでは元のもくあみなのです。
これまで生きてきて、自分がどのようなときに周囲に流されやすいかということも分かっていますから、「一夜漬け」はやめよう、と考えているのです。

ですから上で述べたようなことは、これまで生きてきた日々の経験の中でうまくバランスをとれた事柄と分量の組み合わせだというわけですね。
ここでいう組み合わせというものが、今の自分にできるぎりぎりの線であり、自分の体力と精神力で以てやっと一日を終えて、前後不覚で布団にもぐると、明日も同じように過ごせるだけの「いつものサイクル」、ということです。
それとは逆に、例外的な予定が入ったりとかで、20時間ぶっ続けで勉強したのでトレーニングには行けなかった、という日が続くと、どうしてもどこかで歪みが出てきてしまいます。

これはみなさんにも考えてみてほしいことですが、人生というと途方もなく長いものに見えるものでも、結局は日々の積み重ねでしかありませんね。
そうすると、毎日をどう過ごすかを大事に考えている人ならば、人生も大事に扱われているということなのですし、その逆もまたしかり、ということになるでしょう。
そこに、人間として欠けてはいけないこと、自分の職業や立場として欠けてはいけないこと、人類の文化を前に進めるために欠けてはいけないことなど、自分にとって生命に変えても譲ることができないことを加味すれば、自然とやるべきことは見えてくるのではないでしょうか。

こういうふうに、スケジュールというものは、人生をとおしての大きな目標のための、実践的な必要性に基づいて導きだされるものですから、人の、何時に起きて語学をやってジョギングをして、などという細かな予定を横滑りしたところで、あまり意味が無いでしょう。

◆◆◆

ただいくら生活を整えているときにも、長期的な疲労がたまってしまう場合には、やはり倒れます。
わたしも数年に1度は、40度を越える熱を出してうんうん唸っていることがあったりしますが、それでも、体調が崩れ始めていることは、「いつもと違う」という感覚でもってとても敏感に察知できますから、倒れる期間を予測できます。
こういうときに気になるのは、周りにどれだけ迷惑がかかるかということですから、おおよそこれくらいで動けるようになるだろうという期間がわかるだけでも、精神的な助けになるものです。

それから、短期的に好奇心に負けて夜更かしをしてしまうこともありますね。
わたしは映画鑑賞なんかは刺激が少なすぎて寝てしまうほどには疲れていますが、創作活動、これについては自制心を働かせて止めるすべを知りません。
こういったことを例外として扱うかどうかは人によるでしょうが、どちらにせよ、「いつものサイクル」というものが立てられておらず生活が乱れきっている場合には「例外」というものもありえないわけです。

念のために申し添えておきますと、これはなにも、「毎日同じことをしろ」などと言いたいわけではありません。
わたしも無類の旅好きですから、機会があればどこへでも飛んでいきます。
ただそのときにも、その旅というものが人生の中でどのような位置づけにあるか、ということは明確に意識して過ごします。
たとえば、去年は時間をとって北海道へ自転車ででかけましたが、毎日できるだけ重いギアで運転してきました。
帰ってきてからは、そこで培ってきたものをどれくらいのトレーニングで維持できるかという観点を含めて、その構成を見なおしています。
語学力の場合でも、そこで付けた力を維持するには、という観点を持てば、同じような工夫ができるでしょう。


基本的には、毎日同じペースでコツコツ前に進んで、結果としていつのまにか力がついているという、<量質転化>ができる環境を生活の中で整える、ということに最大限の注意を払ってください。
いまがどれだけダメであろうとかまいませんので、これだけを、自分の生活全てにわたって丁寧に、真剣に考えて行動してください。
鏡を見るときに何を考えているか、起きたとき今日は何をどう過ごすのか、毎日歩くときの一歩ずつにどんな気持ちを込めているのか、そういうところまで仔細にわたって考えてください。
人のために生きたいのか、覚悟をしたいのか、金を儲けたいのか。
どんな偉人でも、はじめはただの人ですから、そういうことをとおして高みへと昇っているのです。

◆◆◆

自分の決めた道を目指すために命がけで努力するというのは、寝る間も惜しんで身体をガタガタにしながら人のために尽くす、というイメージを持っていらっしゃる方がおられるかもしれませんし、一時的にはそういうこともあり得ます。
わたしも、守らなければならないことのためなら命は惜しくありません。

ですが、ほんとうに道を定めて生きるからには、それが自分のことを犠牲にして人を立てる、という行き過ぎにならないように、人のことだけではなく自分のことも、しっかりと見ておく責任があります。

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