2012/01/14

人間の集団意識は存在するか (1)

卒論・受験シーズンですね。


学生のみなさんは、満足のいく成果を出せたでしょうか。

評価がついてこない場合でも、全力でやりきったことが実感としてはっきりしているときにはけっこうな満足があるものです。
逆に言えば、気を抜いていたのにどういうわけか評価がついてきた場合なんかは表面上うまくやり遂げたように見えるものの、次回で手痛いしっぺ返しを食らうこと請け合いですので、そういう意味でもやはり、いつも言うように目指すべき目標は自分の外側に委ねきってしまわないほうが懸命です。

人柄にもよりますが、勝った時も負けた時も、貶された時も褒められた時もあまりオーバーに喜ばない人のほうが、伸びしろが多いことが少なくないのは、「勝ったは勝ったがもっとうまい勝ち方があったのではないか、もしかすると楽に勝ってしまったのではないか」と自問自答できているからです。

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さて卒論をいくつか見ていると、残念なことに例年のことながら、あまり大した卒論を書かせてもらっていない学生さんが多いなあということに、否応なしに気付かされます。

ひとつの対象に目標を持って取り組むという創作活動は、取り組むまでにはそれなりの逡巡があるものの、一度軌道に乗ってしまえばひとりでもかなり強い推進力ですすめてゆけるだけの楽しさに満ちあふれているのですが、後進をそこまですら運んでゆける人間がまったくいないというのが現状のようです。

わたしは正直なところ、概念的な師弟関係にもあまり妙な思い入れがありません(現実的になっているものは大切ですよ)から、必要とされるだけきっちり動いて、必要とされないならそれはそれとしてひとりで自分のことをやっているのでも全然かまわないのですが、そんないいかげんな人間が外野から支えていなければどうにもならないほどであるようです。

そもそも、作品にしろ学生にしろ、一定期間手元においたからという理由だけで、中身のないものに自分のハンコをついて外に出してしまうということを、人間としてどうしようもないほど恥ずかしいことだと思えないという感性が、なんとも底しれぬ異常さです。

ひとつの作品は、その作り手の人格を表しています。
ひとりの子どもは、物心つくまではその親の人格を受け継ぎます。

それではひとりの学生はどうか、となったときには、年齢的に当人のすでに完成された人間性が取り返し難いことや、その期間の短さ・密度の低さから言えば人格までをも質的に高めることは難しいにしても、卒論くらいはどこに出しても恥ずかしくないものを、との一念で指導に当たるのが、立場としても人間としてもまっとうなところではないでしょうか。

思いのくすぶるばかりの学生たちを見ていると、なんとも酷いところに飼い殺しにされているのだなあと思いますが、いけないところに気づいてしまったからには動かないわけにはゆきません。

これも運命だと観念して、わたしたちはわたしたちで、前に進むことにしましょう。

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さて、表題に挙げておいたとおりの問題なのですが、卒論テーマのひとつに、組織文化を扱ったものがありました。

わたしは一目見て、それを「ひどい卒論」シリーズに加えて大規模な開腹手術を施すことにしたのですが、その理由はといえば、論文の土台がガタガタであった、というか、土台がまずもって皆無であったからです。

当の学生も、参考にすべき論文をいくつか挙げられたけれども、あっちではこう言い、こっちではああ言うという有様で、参考にしようにもどうにもならない、というのでわたしのところにやってきたようでした。

この「あっちではこう言い〜」というのは実のところ、そのそれぞれに学問的な土台がないか、あってもバラバラの立場からの発言なので、参考にしようとする当人がしっかりとした根拠を持って考えたいという真摯な人柄であればあるほどに参照しにくい性質を備えてしまっているのです。
学問をまるで思想のように扱って、あらかじめ設定した自分の言いたいことを、あちこちの本から抜粋して権威付けることだけに血道をあげているような研究者を指導教員として持ってしまうと、このような迷路に迷いこまされることがあります。

眼に見えるものが複雑なときにはそもそも、ということで、いつもどおり原則に立ち返って考えてゆくことにしましょうか。

(2につづく)

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