2012/01/18

創作活動はなにから学ぶか (3):オタクは革新を生み出せない

(2のつづき)


前回では、専門家の陥りやすい落とし穴について触れてきましたが、個人的なことをいえば、わたしも自分のことを、本来なら悪い意味での専門家的、一言で言えば「オタク」的だと思います。

自分の知らないことを知っている人の話を聞くのはとても充実した時間であると感じますし、昨日は知らなかったことを今日知ることができるのは、なにより幸せなことだと思います。
去年の年末も自転車のイベント会場で、前から勝手に弟子入りしていた先生とたまたま出会ったときには、ご本人の事情も顧みず、あれやこれやと細かな理論がどうなっているのかを聞き出したものでした。

実際にものづくりをするときにも、微に入り細を穿ち、というこだわりをもったその先に、ものごとの本質が見えてくることも実感としてよくわかります。
しかしそうやって視野がどんどん狭くなる性質があるからこそ、1年ごとに、また一緒に勉強する学生たち一人ごとに、違った分野に取り組む必要があるのです。

◆◆◆

わたしはこの記事の(1)のはじめに、「バッグを作るのになぜ万年筆から学ばねばならないか」という質問に答えようとしていましたね。
そのときの答えは、「いくらバッグという分野の個別的な知識を集めたとしても、新しいバッグは創れないからですよ」としておきました。

ここで「作る」ではなくて「創る」と書いたのは、自分の作りたいものを、既製のもののコピーでなくて、今まではなかったようなものを作ろうとすればするほどに、「既製のバッグだけ」の専門家になってはいけないのだ、という意味合いを込めての表現だったからです。

もしわたしたちにとっての「新しい」というものが、たとえば3色ボールペンから学んで4色ボールペンを作ることを指しているのであれば、オタクになってしまっていても充分に役目を果たせるでしょう。
その場合なら、2.0GHzのCPUよりも2.4GHzのほうが尊いですし、携帯電話の画面は大きければ大きい方が良いですし、カメラのレンズは明るければ明るいほうが良いでしょう。

しかし、それが「本当に新しい」ということでしょうか?
本質的にものごとを進めるということなのでしょうか?

ものごとを新しく考えなおすときには、その分野の個別的な知識も要りますし、そこからその分野がどのような変遷をたどって現在に至ったかという流れを追ってみることはもちろん必要なのですが、とりもなおさず必要なことは、その先になにがあるのかということ段になると、人の手を借りずにあくまでも自分の力で想像し、実際に創造してみるのでなければならないということです。

ほんとうの意味での革新というのは、既存の知識をしっかりと学んだ上で、すでにある前提を疑ってみて、それがほんとうにいちばんの近道なのだろうか?と考えなおすことのできる感性・想像力と、それを手かがりに実際に歩みをすすめることのできる実行力を兼ね備えたときに起こるものなのであって、4色ボールペンを作ることとは質的に違います。

たとえばわたしが去年に革細工に取り組んだ時にも、オーナーとの議論をする中で、「色はもっと濃いほうが好みだが形がゆるいのはイヤだ」とか、「裏面も美しくなければイヤだ、間抜けな縫い目を晒すのは恥だ」とか、「ペンケースはどうしても三角形にしたい」とかいう、「こういうのがいいな」どころか、「こうでなければ絶対にダメ」というまでに強い思いがありました。

その思いをとにもかくにも正面から受け止めて、なんとか形にしてやろうという目的意識があるからこそ、「現状は無理だがどうすればいいのかを考えよう」と考えを進めて行けたものでした。
本職の鞄屋さんから言わせると、「よくこんなところ縫ったねえ」とか、「よくこんな道具で作ったねえ」とか、呆れ半分で驚かれるのですが、知りすぎていないからこそできることもあったのでしょう。

ここをもし、そういった「これが欲しい、絶対だ!」という強い目的意識なしに、たとえば世界中のすべてのカバンを知り尽くしている人間が欲しい物を描くとしたらどうなるでしょうか。
その業界に限って言えばとても常識的な、つまりあらゆる制約条件をくぐり抜けるようなアイデアの、技術的にもセーフティでなんの問題もなく実現できるようなものになると思えてきませんか。
こういう考え方をしたときには、どうしても「オタク」的な発想に行き着かざるをえないのです。

◆◆◆

わたしがバッグ作りなんかをしていて行き詰まったときにいちばん参考にしたのは、たくさんのバッグが載っている本などではなくて、動物の骨格が歴史的に追ってゆけるような図鑑だったり、もっと言えば散歩しながら川辺で拾ってきた石ころでした。

山のてっぺんにあったときにはゴツゴツしていたであろう岩石が、水に押し流されて長い長い旅をするなかで徐々に削られてきたという過程が、そのとき手に取った石ころひとつの中に歴史性として刻まれているのだとすると、それは何とぶつかったのか(相互浸透)、どれだけぶつかって続けてきたのか(量質転化)、つまるところどういった磨き上げられ方だったのだろうか(歴史的な論理性、歴史性)と想像してみることができます。

ひとつの石ころでさえそのような歴史性を持っているのなら、地球が誕生して以来の動物の進化の過程などを考えて、そこにはどれだけのものが含まれているのかを想像してみると、これは恐ろしいまでの歴史性が根底に流れているのであり、つまみ食いするだけでもアイデアの宝庫だと言えると思いませんか。

それに比べると人間は、すでにあるものに線を足したりボタンをつけたり、枝葉のところの工夫ばかりを凝らしていると思いませんか。

目に見える現象面だけを追ってもそうなのですし、そこから進んで本質的なところを突き詰めようとすればするほどに、筆記具を前進させる時には「文字を記録するとはどういうことか」を考えてみなければなりません。バッグを前進させたいのであれば、「ものを持ち運ぶとはどういうことなのか」という視点を持たねばなりません。

◆◆◆

技術革新ということばが独り歩きすぎるあまりに、「革新」という言葉の意味がとらえにくくなっているきらがあるのですが、「革新」というのはなにも、あたらしい技術が生まれるのを指をくわえて待っていなければならないというものなのではなく、オタク的な常識に染まっていない人間が、「あれ、ここはこうしたほうが便利なんじゃないの?」という素朴な指摘を、馬鹿だからできて、実際に推し進められたという場合に起きたときに与えられるのだと考えたほうがむしろ正しいようにも思えます。

たとえば「このリモコンって、なんでこんなにボタン多いの?」とか、「このカメラって、なんでこんなに複雑なの?」ということを、単なる一人のワガママだと片付けてしまわずに突き詰めてゆくところにも、そのきっかけがあると言えます。
テレビもカメラも、それぞれ「そもそも」、ゆったり映像を楽しむために、気に入った風景を残すためにあるのなら、手順の複雑さは別に必要とされているわけではありませんね。
オタク化したコミュニティが、いくらその手順にケレン味を見出して自分たちの城に閉じこもるための方便に利用したとしても、他の多数にとっては道具の本質が揺らぐことはありませんから、彼女や彼らは自分にとって都合の良いものを好き好きに選びます。

「馬鹿ほど怖いものはない」というのは、これから取り組むことの常識を知らずに、「だってこっちのほうがいいもの」と馬鹿が譲らないままに前進したときに、革新が起こることがある、という意味にもとれます。
AppleのCEOだったスティーブ・ジョブズは講演で、学生へのメッセージとして"Stay foolish, Stay hungry."と言っていましたが、あれはここらへんの事情を経験的に掴んでいたから言った言葉なのかもしれませんね。

どんなことにせよ歴史を踏まえているのは良いことなのですが、それを「知識的に」知っているだけで、「あれはこういう理由でこの形になっているんだよ」ということを、現実に直面している不便さの言い訳に使っているような専門家や業界は、例外なしに破滅への道を突き進んでいる、と考えてよいことにもなります。

こういうわけで、道具やデザインを考えるにあたっても、先へ進むために必要なのは歴史的な個別の知識ではなくて、歴史の流れと流れ方、つまり論理性なのだ、といういつもの結論に行き着かざるをえないのでした。

(了)

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