2012/01/17

創作活動はなにから学ぶか (2):専門家からオタクへの転化

※後編を書いていたら長くなったので、全3編になりました。
読みやすいように副題を付けましたが、(1)の本文については修正はしていません。

(1のつづき)


前回では、いろいろな分野の専門家が、その専門とする対象をどのように見るかをおおまかに書いてきました。
身近にいる人の中で、特定の分野に精通している人を思い浮かべてもらえればそれほどずれてはいないことがわかってもらえると思うのですが、ここでの専門家像というものを一言で言えば、一般の人の認識の仕方では捉え切れないこまかな品質について判別しうる、ということでした。

わたしたちはこういった専門家が身近にいることを非常にありがたく思うことが多いものですし、通常ならば相談料でも取られるところを無償で、しかも喜んで教えてくれるところを見るにつけ、彼や彼女らのいったいどこが問題なのか、なんともありがたいばかりじゃないかと思えてきてもおかしくありません。

学生のみなさんは、まだひとつの道具が新しい考え方の道具によって乗り越えられる様を、文字で読む歴史はまだしもその場に身をおいて体験した少ないはずなのでわかりにくかもしれません。

たとえば、というところで、携帯電話が出るたびにあたらしいものに買い換えていた人が近くにいるとしましょう。
今度タッチパネル式のスマートフォンというのが出るというので、彼にあれはどうだろうかと聞いたなら、どういう返事が返ってくるでしょうか。
「テンキーがないとメールも満足に打てないし、絵文字も使えずおサイフケータイにもならないものなんてダメだろう。第一ちょっと考えればわかるとおり、画面を直接触ったら指紋でべったりでとても使えたものではない。物好きは飛びつくかも知れないが、一過性のブームで終わるだろう」と言うかも知れません。

彼は詳しいから正しいだろうと考えて、その意見を素直に聞いていたけれども、1年経つ頃には周りの人たちがパラパラとスマートフォンに変え始めました。彼にもう一度聞くと、帰ってきた答えは「動じるな、変化は一時的だ」というものでした。

あなたはそろそろ、はたしていつまで彼についてゆけばいいのだろうかと、不安になってくると同時に、彼の立場がどういうものなのかを理解しはじめました。

同じことは、電動自動車が出たときにも、電動自転車が出たときにも、デジタルカメラが出たときにも、既存の技術とは違ったやりかたを使った製品が出るときには、それがたとえどんな分野であっても繰り返されてきた主張です。
こういった主張を一言で言えば、「新しいものは邪道である」という考え方です。

昔からの精通者というのは、現代の筆記具が失ってしまった書き味と所有感を万年筆が満たしてくれることを知っているのと同じように、アンティークの収集家もオールドカメラの心酔者も、たしかに細かな品質に心細やかに気づくことができますが、それでもどうしてもわからないし、また目に入ることがあっても頭を横に振ってわかろうとしないことは、すでに自分が囲い込んでしまった世界の、その外側のことなのです。

この原理的な考え方は、新しいものを見るときにも、それが従来の流れの延長線上にあるかどうかという尺度を持ち出さずにはいられないために、論理的な強制として、新しいものを直ちに邪道と見做さなければならない立場に置かれているわけです。

◆◆◆

たとえばフィルムカメラの全盛期に、カシオがデジタルカメラの普及機を登場させたときには、古参のカメラメーカーはもちろんのこと、写真愛好家たちもその反応は冷ややかでした。
ファインダーを覗かずに写真が撮れるか、連写ができないのに決定的瞬間を押さえられるか、板にレンズをつけたようなものをカメラと呼べるか、と言いました。
ところがそれから15年と少し経った現在、時代はどのようになっているでしょうか。
どれだけの会社がまだフィルムカメラを製造しており、どれだけのユーザーがそれを使っており、どれだけの人間がファインダーを覗いて写真を撮影しているでしょうか。

2011年の中ごろ世界最大の写真投稿サイトのFlickrでは、「最も使われているカメラ」(最も使われているカメラ付きスマートフォン、ではありません)はiPhoneになりました。

Flickrより転載

いまあなたがiPhoneで写真を撮影すると、iPhoneは自動的に撮影場所を記録してくれますし、自動的に複数の写真を合成して見栄えの良いものにしてくれますし、その場で編集も出来ますし、それをSNSで共有して友人たちに一斉に見せることもできますし、そのうえ撮影された次の瞬間には特別な操作なしにiPadやPCの大画面で写真の出来映えを確認することもできます。これらのすべてが、ケーブルを繋いだりしなくとも自動的に行われます。

さてそうすると、この先にもカメラは今のままの形で残り続けるでしょうか?

ひとつの目安として、どれだけの数の人間に支持されているかを見ると、プロ向けのカメラの場合はひとつのモデルが全世界で年間10万台売れれば大ヒットですが、iPhone 4の場合は発売3日で400万台を売り上げています。

数で比べても本質は揺るがない、他業種のことを持ちだしても意味がないという人もいますが、そう言い切ってしまってもよいでしょうか。
つい最近の出来事を挙げるにしても、自動車が馬車を、携帯電話がポケベルを、iPodがウォークマンを、それぞれ徐々に、時には瞬く間に乗り越えてしまったことは、どれもがそれまでの世界に閉じこもっていた人間には予想もつかなかったことだったはずです。

ポケベルをあれほどまでに愛用していた人たちが、まったくの一夜、といってもいいほどのスピード感をもって携帯電話に乗り換えたことはまだそれほどの昔でもありませんし、あれほど一過性のブームで終わると言われていたスマートフォンが、今年には従来型の携帯電話を完全に乗り越えることにもなっているわけです。
この大きな変化をユーザーの側から見れば、ただ便利な道具を選べばそれでよいですし、上で述べたような専門家のように、「形式的な逸脱になんらかの根拠付けを見出してからでないと動いてはならぬ」という心理的な制約もないのですが、作り手側から見れば、これはとても大変な変化です。

さきほどはiPhoneを発端にしたタッチパネル式のスマートフォンという機械が、あっという間にカメラとしても台頭してきたかという一例を上げましたが、スマートフォンはなにも、カメラとして使いやすいだけではなく、電子辞書に電子書籍、ゲーム機、予定表やナビといった他の分野にも足がかりを持っているのです。
それらの分野に従事してきた人たちや、それを支えてきたファン層は、あたらしいものが普及するさまを、別の惑星から来たエイリアンの侵略のように受け止めるかも知れませんが、柔軟な考え方のできるユーザーから見れば、持ち運ぶ道具、買う必要のある道具をひとつにまとめてくれる救世主かもしれません。

専門家が相当の審美眼を備えており、滅びかかってゆくもののなかにそれを乗り越えて滅ぼしつつあるものには到底叶わない所有感、使い心地、神に至るほどの細かな品質を備えていることを認めたとしても、専門家が神だと崇めているのは、とても狭い分野の、極めて強い特殊性を持った神であることを忘れてはいけないと思うのです。
道具の目的はあくまでも、ひとつの目的をより容易くより良く叶えること、なのですから。

もしあなたが広い見識を持った一流の専門家になりたいと思うのなら、原理的なものごとの見方はそのままにして、その原理を、既存の道具の見た目の形式面に置くのではなく、「その道具がどういうものであるか、なにをなすためのものか」という本質の面に置くことにすればよいのです。

(3につづく)

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