2012/01/15

人間の集団意識は存在するか (2)

(1のつづき)


いやしくも学問の世界で、どんなことでも学問のレベルでなにかを論じようとしたときには、その世界観を決めておかねばならないのでした。

ひとつめに観念論と、ふたつめには唯物論です。

前者では、人間の精神があらかじめ存在するというところから議論を始めることになり、精神が物質に先行するものであることを認めます。
それに対して後者では、物質があらかじめ存在するという前提から議論しますから、世の中に存在するあらゆるものを、精神さえも、物質的な働きとして解いてゆくことになります。

一般の方からすれば、前者のことばだけを捉えて根性論だと思ったり、後者を人間の精神の豊かさを認めない人間機械論のように思い込んだりもする恐れもあるところかも知れませんが、仮にも研究者を名乗るのならそんな人間はいない、はず、なので、誤解を恐れずに話を進めます。
もっとも科学の名を借りて、DNAがどうだから早くに結婚できるだとか、ドーパミンがレセプターに受容されて恋心が云々、などという妄言を臆面も無く披露するような人物もいるようですから、受け取り手にまっとうな常識を持ってもらうほかないのが悲しいところですが。

もしまともな意味で科学的な知見を活かそうとすれば、唯物論を土台にするのが親和性も高くなるのですが、そういう基礎的なことがわからないと、観念論で書かれた哲学に科学的な発見を接木したりして自説を補強してしまい、それが一冊の本であるのにもかかわらず、「あっちではこう言い〜」という代物になってしまうのです。

ここでたとえば唯物論的に考えてゆくのなら、精神が人間のアタマから抜けだして存在する、ということはナンセンスであることになりますね。あくまでも精神は、人間のアタマの中での働きなのですから。

(「たとえば〜的に、」と簡単そうに書いたので、世界観を使い分けて活動ができるように見えるかも知れませんが、現実的には不可能だと考えたほうが懸命です。つまり、ある時点で観念論を土台として研究すると決めたなら、その生涯を観念論者として学問を探求するのでなければ、最終的な学問体系は完成しないということです。唯物論を選んだときでも同じです。両者は互いに移行しあいますし、とくに唯物論では、そうであることをどこかで踏み外してしまうと、その理論体系を観念論の変形として完成させざるを得なくなります。)

ところが、みなさんも体感としてはおわかりのとおり、ある組織には、独自の社風、独自の文化というものがあるでしょう。
この、掴みにくいけれどもたしかに存在する集団の中の意識を扱おうとして、その矛盾の前に立ち往生してしまう人が少なくありません。

よくあるのが、集団意識が「存在する派」対「存在しない派」です。
前者はアンケートを取ってみて、「存在すると思った人とどちらかといえば存在すると思った人を足すと9割だから、こちらが真実なのだ」と言ってみたり、後者は眼に見えないものを存在することにすると学問にならない、内面など存在の実証できないものは棄ててしまえ、といった具合です。
ほかにも、その間にあれやこれやの変種が出てきます。
こういった形式主義と、その中間の独自思想家が、あれやこれやの立場で研究を出してきますから、そのそれぞれの立場を明確に区分できる読み手でないと、やっぱり「あっちではこう言い〜」といった具合になるしかないわけです。

◆◆◆

今回の論文では、集団意識を取り扱う段になって、それがなんなのかがわからなくなり、指導教官に聞いてみたところ、「アリを見てみよ、あれだけの大群が、一糸乱れぬ組織を作り上げているだろう。あれは、それぞれの個体を統合する集団意識がそうさせているからにほからならないのであって、どこにあるかは誰にもわからないがとにかく存在するのだから、人間も同じように考えるとよい」という答えが返ってきたそうです。

はたして、人間の意識をアリの行動学と同一に扱っても良いものだろうか?種別は無視できるとしても、内面的な意識の研究なのに外面的な行動から類推してきて良いものだろうか?などと考えると、またまた調べてみなければならない本があらゆるジャンルにあるような気がしてきて、いったいいつになったら卒論が書けるのだろう…というため息を漏らすしかなくなるのも無理はありません。

(3につづく)

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