2012/01/16

創作活動はなにから学ぶか (1):専門家のあり方

思うところあって、


手持ちの万年筆をじっくり眺めていました。

わたしは手持ちの物を増やしたくないのでお金があろうがなかろうがあんまり物を買いませんし、買ったものはどれだけ貴重な稀覯書でもアンティークでもまるきり遠慮なく使い倒しますが、それだけに手元にあるものは「本当にいまこれが必要なのか?」と検討を重ねてきたものばかりなので、自分としてはけっこうな思い入れがあります。


写真にあるのは手持ちの万年筆ですが、右側のものはここ10年ほど使い続けていても、なんの不満もありません。

もともとは家族が放ったらかしにしていたものを洗って使っているだけなので、その意味では偶然の出合いであるとはいえ、それでも毎日毎日使っているのにこれだけの期間手元においても苦になっていないということは、そこにそれだけの根拠がなければおかしいのです。

いま個人的に、ものづくりの分野でいくつか取り組んでいる事柄があるのですが、当然ながらその出来映えが去年と比べて質的に向上していなければならないという条件がありますから、本当に気に入って選んだり使い続けてきたものの中にどのような根拠が潜んでいるのかということを改めて向き合い直すことで、この先の道しるべになってもらおうと考えたのです。(ちなみに年末に言っていた、「残りひとつの作品」というのは、素材が手に入ってから作業に入ることになりました。どうせ自分たちでやるなら、できるだけ安くで作りたいですしね)

◆◆◆

わたしがあんまりぼんやり手元を見つめているので、なにをしているのかとたずねてきた学生さんにこう説明しましたら、「なぜ彫刻したり絵を描いたりといったものづくりをするときに、他でもない万年筆を選んだのですか」と聞き返されました。

わたしは、この質問をちょっと考えてみて、これは、「たとえばあたらしくバッグを作るときには、世界中のバッグを調べてみればよいはずではないか。なんらの関連性もないはずの万年筆からなにを学ぼうというのか」ということを聞きたいのだろうなと理解しました。

これについて結論から言うことにすると、「バッグをいくら調べてみても、本当にあたらしいバッグは創れないからですよ」ということになりますが、つい最近、革新性とはどういうものか、について友人のあいだでやりとりしたので、ちょうどいい機会だと思い、そのことも含めて整理して書き残しておくことにしたのでした。

お題については記事のタイトルにしたようなものにしましたが、そのほかにも、「専門家は何を見落とすか」、「革新はどこから起こるか」といった内容にも触れたものになると思います。

思います、と無責任なのは、あれやこれやと考えながら書いているところなのでどんなことに言及するかが書き終わってからでないとよくわからないためですが、明日の夜には空き時間で後編を書き上げられるはずなので、あんまりにもとっ散らかっている場合にはこの前編も手を加えて読みやすくするつもりです。(加筆修正したときにはお知らせします)

◆◆◆

はじめに、というわけで、冒頭でせっかく万年筆のことについて触れたので、それが筆記具の中で持っている位置づけを考えてみましょうか。

万年筆をふくむ筆記具の歴史は、もともと人類が知識を蓄積するようになったころにまで遡ることができます。
知識を蓄積し、後進へと伝えてゆくにあたって、古代の文明に生きた人たちは、石や粘土に絵や文字を刻みつけたりするようになったのでした。
そのころは先の尖った硬い石や金属であったものが、羊皮紙や紙が出始める頃になると、筆記具もそれに相応しい形に姿を変えることになり(相互浸透)、鳥の羽にインクをつけて使うものからはじまり、衣服を汚さぬように工夫されたものを経て、いわゆる毛細管現象を使った現代の万年筆に通じるものができてきたのです。

ところで筆記具を広く見渡すことにすると、19世紀の終わりにいまの形に近い万年筆が生まれるのと前後して、いろいろな種類の筆記具が登場しています。
コンテに鉛筆、シャープペン、ボールペンが代表的なものですが、それらが出揃った現在においての万年筆の位置づけとしては、それらに押されるかたちで、実用的な筆記具というよりも嗜好品としての意味合いが強くなってきたように思われます。

万年筆が、常用の文具としては他のものにその座を空け渡したのにはそれなりの理由があり、たとえば書いてすぐに触ると服の袖が汚れるだとか、蛍光灯に当てておくと退色してしまうだとか、同じ色のインクに見えても混ぜると固まってしまうものがあるだとか、書いたあとでも水に濡れると滲んでしまうだとかがそれです。(このことについて、ブルーブラックインクは保存性に優れているからそんなわけがないと頑なに主張する人もいますが、それでも退色したり乾いても濡らせば滲むというのが経験的な事実です。書きつける紙質にもよりますが、わたしの机に貼ってあるメモ書きも5年でほとんど読めなくなっていますから)

もっとも、上で述べた短所というのは、切り離すことのできない側面とも結びついており、その側面から見れば長所でもあるのです。
たとえばインクが水性であることから濃淡がつけやすく文字に個性が出やすくなり、ボールペンのようにインクのくずで紙を汚さずにすんだり、文字の書き始めにボール跡が残らない、などという利点がそれです。

とくに個人的なことを言えば、万年筆が他の筆記具と比べて優れていると思われるのは、やはりその書き味です。
わたしは手持ちの万年筆を忘れたことに気づくと、時間が許すならどれだけ面倒でも取りに帰るほどに、他の筆記具では代用の効かないものであると思っています。
万年筆の愛好家は、多かれ少なかれ同意してくれるのではないでしょうか。

◆◆◆

そのことにそれほど思い入れのない大多数の人からすると、何を大げさな、というところでしょう。

それでも「神は細部に宿る」という言葉があるとおり、ものごとを突き詰めていくと、一般の人からはとても想像もつかない細かな工夫が折り重なって、その道具の特徴を彩っていることがわかるものです。
たとえば筆記具なんて書ければなんでもいいと思っている主婦は、信頼できる八百屋さんで買うのでなければ、スーパーでは野菜を裏返して、茎の断面がどうなっているかを確認しますね。それから革好きなら、革製品に「ネン」が入っているかどうかを真っ先に見るものですし、それと同じように万年筆愛好家なら、ペン先とニブの素材と繋がり方をみて書き味を想像します。

その分野のものごとに詳しい人が、先人から受け継いだり、自分の長年の経験から養ってきたそういった見識眼というものには、それだけの根拠があり、またそれだけの実際的な有効性を持っているものです。

いちばん正面の野菜を手にとって家に帰っていざ料理しようと思ったら痛んで使えなかったり、目が肥えてくると革製品だと思っていたものが合皮であることがわかったり、同じ万年筆を使っているはずなのにマニアが中字を削って細字にしたものを使わせてもらったら書き味がまるで違っていたりすると、この失敗を繰り返すまいという気持ちが働いて、次こそはと熱心に勉強するのも無理はありません。
そしてその知識を実際のもの選びや友人との議論に活かすことができると、なおのこと探究心に磨きがかかり、そのことと直接に、努力して得た知識の確からしさが経験によって力強く裏付けられたようにも思われてきます。

このことは、職業上の研究職だけではなくて、たとえば自分の仕事に真摯に取り組んだり、自分の趣味を真剣に突き詰めたりする人には、必ずといっていいほど見られる傾向です。

彼女や彼ら、いわばその道の専門家は日頃から知識の獲得に余念がありませんから、もしあなたがそのジャンルについて聞きたいことを相談すれば、探しているもののいちばん美味しい時期はいつか、新製品が出るのはいつか、一見するとよく見えるが使いにくいものはどれか、自分の目的に叶うグレードの商品はどれくらいか、といったことを細々と、しかも何の見返りも要求せずに親切に教えてくれるでしょう。

(2につづく)

0 件のコメント:

コメントを投稿