2012/01/13

どうでもいい雑記:生活の質はなにが保証するか

この前ホームセンターに行って、

レモンクリスパム。けっこう強いレモンのにおいがします。
植木鉢と受け皿を買ってきました。

夏の終わりに買ってきたハーブがやけに大きくなってきたので植え替えようと思ったのです。

商品を持ってレジに行ったら、「780円になります」とのこと。
アレっと思って確認してみたら、販売員の方が受け皿も植木鉢とのセット販売だと思って合計金額に含めていなかったようなのです。

これはいけないと思って、「あっ、この受け皿別売りですよ」と伝えたあと、間違いのもとが受け皿のバーコードシールがとれてしまっていたからだとわかったので、シール付きのものを取りに行って戻りました。

そのときにわたしが「あぶない、ズルするとこだった」と言いましたら、販売員のお姉さんはえらく丁寧にお礼を言ってくれたあと、「ふつう逆じゃないですか」と言って笑っておいででした。

帰りしな自転車に乗りながら考えてみてやっと気づきましたが、「ふつう逆」というのは、ふつうなら「バレなければズルするだろう」ということだったようです。

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これは別に良心が咎めた、とかそういう類のことではなくて、わたしが他のことを考えているときは人一倍ボンヤリしてしまっているだけのことなのですが、改めて思い返してみると、たしかになんでもお金で買えてしまうところで生活している人の中には、お金というものが絶対的な尺度だと思い込んでいるような頭デッカチがけっこういるものなあ、というところに行きあたりました。

以前に友人と二人で北海道を自転車で回ったことがあり、農家の軒先の売店で茹でとうきびを食べていたら、「芋掘ってけ」と言われたので、昼ごろまで芋掘りを手伝ったことがありました。

実に楽しく過ごして帰る頃になると、芋を一箱やると言ってくださったので、ずいぶん楽しませてもらったのになおのこと贈り物までいただいて恐縮ですとお伝えして、自宅に送らせていただいたものでした。

もしこのときにちゃんと計算しようとすれば、売店で正規に芋を買った時の値段から自費で払った送料を引いて、労働時間で割れば、自分の働きがどれくらいとして評価されたのかがいちおう算出できます。

ところで、この金額のなかに、ここでの経験のどれだけが含まれていると言えるでしょうか?

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わたしは大学からもらう研究費が高すぎると事務に文句を言いに行って正気を疑われたりもしたので、数で言えば少数派であることがわからないわけではないのですが、前年と同じことをやっているのに「どういうわけか」もらう給料が上がってしまうというのは、なんだか気持ち悪くて仕方がありません。

世の中のお金の流れや賃金体系とそれによるモチベーション云々ということは、経営学を専攻してきたので客観的な事実としてはわかりますが、直接的な原因でないものを理解したからといって、内面が満たされることにはならないでしょう。
もっとも、研究の質を少しでも評価してもらえたのなら喜んで受け取るところなのですが。

たとえば100円のボールペンと100円のパンが、同じ値段だからといって価値が同じでないことくらいは誰でもそうだと言ってくれるでしょうが、同じ100円のボールペンでも、職場の備品を拝借したのと父親に貰ったものでは価値が違っていたっておかしくありません。

経済的な価値というものは、それはそれでとても便利な尺度ではありますが、それとものごとの価値を一緒くたにしてしまってはわかるものもわからなくなってしまいます。

もし貰ったものが金券だったとしても、それを誰からどう貰うかによって、やはり意味合いは違ってくると思うのです。
わたしは去年の夏頃にいただいた図書券を昨日やっと使いました。いちばん良い使い道がなんなのかをずっと考えていたからです。

わたしは85円のアプリを買うのに1ヶ月迷って結局買わなかったりするのに、思い立ったらン十万円かけてその日のうちに旅行に行ってしまったりするので、控えめに見積もっても極端なのでしょうが、100円で買った「から」使い捨てでも良くて、1000万円で買った「から」家宝にせねばならないという考え方には、どうしたって馴染めそうにありません。

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購買行動が人間の行動のひとつであるからには、そこには必ず何らかの目的意識が前提としてはたらいているのであって、買い物の価値を決めるのは値札ではなくそこに込められた目的意識性次第なのです。

いまの自分にとってほんとうに必要なのかと真剣に議論を闘わせて、いちばん良くしてくれるところに納得してお金を払い、ものを買う、という当たり前のことをしていると、家の中にあるものにだってしっかりとした意味合いが出てくるでしょう。

わたしは家の中を見渡すと、もらったもののほうが自分で買ったものよりもずっと多いことに気づきますが、それでもそのほとんどに、誰にどういう経緯で譲り受けたのかという説明がちゃんとできます。形のないものだって同じことです。

不景気になるたびに持ち出される「生活の質」などというものは、使えるお金が減ったからなんとか満足したことにしようと慌てて持ちだしてくれば満たせるような生き方なのではなくて、自分がどれだけちゃんと考えて活動をしたかによって、いくらでも高めていけるものではないでしょうか。

考えるのに、お金なんて要らないでしょう。

結論がどんなものになるとしても、ものごとの価値を評価する基準を自分の外部、たとえば世の中の評判やそれに着いた値札のようなものにすべて委ねてしまうような生き方は、どうしたって人間らしいものになるとは思えません。

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