2012/01/08

文学考察: 越年ー岡本かの子

一連の文学評論へのコメントについて、


一般の読者のみなさんも、難しすぎると思われる場合には一声かけてください。

その時の能力はともかく、意欲がありさえすれば引き上げてともに歩むということが、学者としての責務ですから。

人生を左右するのは努力です。
生まれ育った条件などは、努力の前にはさほどの意味もありません。


◆文学作品◆

岡本かの子 越年



◆ノブくんの評論◆

文学考察: 越年ー岡本かの子
ある年末、少し気弱な女性社員の加奈江は、突然同じ会社の男性社員である堂島から訳も分からないまま頬を撲られてしまいます。そして怒りを感じた彼女は、次の日に自身の上司にこの事を話し、こらしめようと考えました。ですが上司の話では、なんと彼は加奈江を撲ったその日に既に退社しているというのです。そこで彼女は同僚の朋子と共に、堂島の同僚から、彼がよく現れるという通りを聞き出し、彼の捜索をはじめます。やがてその年は過ぎ去り、新しい年を迎えた時、彼女達は遂に堂島を発見し、彼を撲ることで自身の仇討ちを果すことに成功しました。
その数日後、彼女は堂島らしき自分物から、一通の手紙を貰います。そこには、彼女がそれまで予想もしていなかった、何故堂島は彼女を撲らなければならないのかが書かれてありました。なんと彼は、実は以前から加奈江に対して好意をもっており、会社を辞めた後、彼女に会えなくなることを割り切れずにいました。ですが、その気持ちをどう表現して良いのか分からず、自分の事を忘れさせないために敢えて彼女を撲ったというのです。この手紙を読んだ彼女は、堂島の強い思いに心奪われ、再び堂島を探しはじめました。ですが、彼とはそれっきり会えないままとなってしまいました。
 
この作品では〈表現の中身は、常に同じだとは限らない〉ということが描かれています。 
さて、上記の一般性を考えるにあたって、何故加奈江は堂島を撲ったのか、というごく当たり前とも思えるような疑問から考えていきましょう。まず、彼女は堂島に撲られた時、取り敢えずは撲られなければいけない理由を探してはいます。しかし、そうした理由は思いつきませんでした。そこで彼女は、撲るということは、堂島がそれなりの怒りを何かに感じたはずであり、又自分がその非を自身に見つけられなかったということは、恐らく些細な出来事で怒りを感じているのではないか、という考えに至り、彼を非難せずにはいられなくなっていったのでしょう。言わば彼女は、撲るという表現を自分の、常識の範囲の中で考えていたのです。ですから、彼女は表現としては堂島が自分を撲ったように、自分もまた彼に対して怒りをもって頬を叩かずにはいられなかったのです。
ですが、堂島の場合、怒りの為に彼女を撲ったのではありません。上記にもあるように、彼のそうした表現は、あくまでも彼女への愛情からのものなのですから。言わば、彼は彼女を撲ってでも、彼女に思われたかったのです。そして、こうした表現の仕方は、これまで自分の範囲の中でしか撲るという事を考えていなかった加奈江にとっては、非常に強烈なものであり、堂島を追わずにはいられなくなっていったのです。

◆わたしのコメント◆

この物語は、「加奈江」の主観を主軸に据えて、彼女を撲った直後に退社した同僚の「堂島」が、なぜ彼女にそういった振る舞いをしなければならなかったのかが描かれてゆきます。
その理由が明らかになるのは、物語の終盤の堂島からの手紙ですが、それによると彼は、彼女を想う気持ちが日増しに募ってきたものの、その内面を当人にどう伝えてよいのかがわからずに、刹那的に手を挙げるしかなかったのだ、というものなのでした。

そのような物語全体の流れを見ると、論者の書いたあらすじは要点を押さえており、かといって蛇足もなく必要十分で、なかなかの文章だと言っても贔屓目にはならないでしょう。

つづく論証では、この物語が「堂島が加奈江を撲った」というひとつの事件にまつわるものであることをしっかりとふまえ、加奈江にとっての「撲る」というものがどういうものなのか、それに対して堂島が「撲」らなければならなくなったのはなぜだったのか、という過程を追ってゆき、それらの矛盾を統一することによって、〈表現の中身は、常に同じだとは限らない〉という一般性を引き出しています。

◆◆◆

あらすじと論証を見ると、論者の理解がこの作品に照らして十分なものであることはわかるのですが、惜しむらくは一般性の表現が固く拙いことと、やや一般的すぎるきらいがあるということです。

毎度ながらのおさらいをしておくと、弁証法的唯物論における表現の三層構造は、「対象→認識→表現」でしたね。

鑑賞者は、ある表現を見るときに、その表現者の認識を直接に手に掴んで見ることはできないために、その表現過程を逆向きにたどるようにして、表現者の認識を追体験してゆかねばならないのでした。
そうして「なるほど、このような表現をしたのは、このようなことを伝えたかったためであったのか」と観念的に追体験できることをもって、そこに正しい鑑賞が成立したのだと言います。
しかしそれと同時にひとつの表現は、それが表現されたときには表現者の手を離れて、第三者によっていかようにも解釈しうるという意味で、認識と表現は「相対的に独立」した関係にありますから、表現者はそのことをふまえて、自らの思いを過たずに伝えるための表現を工夫しなければならないことにもなるのです。

これらの両面が、ある表現について、鑑賞者から見た表現の読み取り方と、表現者に必要とされる工夫なのでした。

このように、正しく鑑賞できているということは、認識から表現への過程に、客観的な関係が結ばれているという意味なのですから、この物語に即して言えば、加奈江が、堂島が自分を撲った理由を想像して、以前に彼に返事をしなかったからだろうと予想したのは、事実と異なる誤解であったのだ、ということができます。

しかし翻って、堂島が加奈江を撲ったということは、好意を伝えるにはあまりにも未熟でまずいふるまいだったのであって、加奈江がいくら彼のことを誤解をしたとしても、彼の落ち度を割り引くことにはならないでしょう。

◆◆◆

これら表現にまつわる学問的な整理をふまえて、論者の一般性〈表現の中身は、常に同じだとは限らない〉をもう一度見ると、どうやら論者は、「表現は認識とは相対的に独立したものなのだ」ということを感じ取ってはいたけれども、うまく自分のことばで表現することができずにこのような言い回しをするしかなかったのだ、ということが「表現の中身」という拙いことばづかいから読み取れます。

もし論者が、加奈江が堂島の振る舞いを誤解し、堂島が加奈江にふさわしい振る舞いをできなかったこと、つまり「堂島が加奈江を撲った」という事件の解釈の違いがこの作品の本質的な核心なのだと言いたかったのであれば、この物語は、<表現がまずかったためにおこったすれ違い>を描いているのだ、などと言えばいいことになるでしょう。

より堅い表現としたいのであれば、<ひとつの表現は、その担い手を離れてはいかようにも解釈されてしまう>、と言えばいいことになります。

いずれにしても「表現の中身」というぼやけた言い方は、学問的な表現論を学んでいる人間としては残念であるので、より明確な言葉遣いを工夫してほしいところです。

論者が拙い表現をしたときのことを考えてみたときも、わたしは論者の認識を読み取れているかもしれないとしてもおそらく一般読者には正しく伝わらないであろうことを思えば、やはり表現というのは、認識とは相対的に独立したものだと理解するのが自然であることがわかります。

加えて言うならば、いくら良い認識を持っていても、それをあまさず伝えるには正しい表現が必要なのであって、それは学問で言うところの認識から表現までの「技術」を磨いてゆかねばならないのだ、ということにもなるのです。

「わかっているはずだがうまく言えない」というもどかしさから逃げずに、それをしっかり正面に見据えつつ修練に当たってください。

◆◆◆

論者が文学作品の論理性を捉えるための修練の本道に戻りつつあるようなので、この先にどのような道程が待ち受けているのかについてかなり先取りする形になりますが、道を歩む手がかりとしておぼろげに目指すべきところを書いておくことにします。

さきほど、論者の書いたあらすじを評価しておきましたが、それほどの美文だろうかと訝しく思われる方もおられるかもしれません。
それに比べると世にある名文とされるものの中には、やけに飾り立てたようなものも多く、悪く言えば手垢まみれのレトリックの凝らし方を競っているようなところもあります。
このことについて言えば、わたし個人としては、ごく一般的な表現を使いながらも「こうでしかありえない」というところにまで研ぎ澄まされた表現にこそ美を感じますし、たとえどのような飾り立てた表現に行き着くときにも、それが確かな土台に根ざしていないのなら、正しく「粉飾」であると見做すべきだと考えています。

論者には以前から、鈍才として努力しなさい、と言ってきましたが、そこに積極的な意味がないのなら、発言する必要がないはずのものでした。わたし個人としても、嫌味を言うために仕事をしているわけではありませんから。
「鈍才」というものの積極的な意味とは何かを端的に言うならば、作品やものごとの論理性を正しくふまえられる実力を、まったくなんの前提もない地平、誰よりも低層から一歩ずつ築きあげることができるという、ほかでもないそのことこそが、鈍才ならではの唯一にして最大の利点だということです。
とくに論者は、ここ数回の評論を通して本道から脇道に逸れないコツを掴みかけているはずですから、現時点の自分の条件を卑下するような向きに身をやつすことなく、自分が得た実感をこそ最大の手がかりとして周囲の冷ややかな視線も跳ね除けて、脇目もふらずに歩みを進めてもらいたいと願っています。

これは、ものごとを二歩も三歩も飛び越えて本質を捕まえてしまう天才には、絶対に成し得ないことであり、自分が誰よりも長い長い、気の遠くなるような長い道のりを歩いて、「急がば回れ」(対立物の相互浸透、量質転化)を事実的に成し切ったときには、続くどんな鈍才をも導いてゆけるだけの道ができることでもあるのですから。

以前に、古くから伝わる極意を振りかざしているような姿勢は、机の角で頭をぶつけたときに見える光景をデッサンしているようなものであり、もっと悪くは世界を支配する究極の真理なるものを酒だかクスリだかなんだかで見ようとするような根性とあまり変わらないのだ、という悪口を言ったことがありますが、そのどれもが過程を含んでいないところに致命的な欠陥があるのだ、という意味での批判でした。
過程を含まない結論が本質的であることはどうしたってあり得ませんから、むしろ天才肌の人間のほうにこそ、いきなりたどり着いてしまった結論(「本質」ではありません)からわざわざ降りて、なにもない地平から登り直すという、精神的にも事実的にも非常に困難な課題が待ち受けていると言えるのです。

鈍才にしかできないことがあると言われると、単なる気休めのように聞こえる人が多いようですが、このような内実があることをしっかりとふまえて、そんな短絡には陥らないようにしてもらいたいものです。


【正誤】
・その数日後、彼女は堂島らしき自分物から→人物から

【青空文庫 原文の落丁】
・そういう覚悟が別に加わって近ごろになく気持ちが張り続けていた→句点がない

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