2012/01/15

人間の集団意識は存在するか (3)

(2のつづき)

前回では、集団意識が存在する派、存在しない派について見てきました。


では、このどちらが正しいのでしょうか。

結論から言えば、集団意識が存在するという、素朴で感性的な認識は、必ずしも間違いではないのです。
ところが、「存在する派」の間違いは、それを「実体的な存在として」探しまわった、ということにあるのです。

もともと、人間のアタマの上に精神が抜き出て存在する、ということがあり得ないとしておいたはずなのに、組織の成員が入社後にだんだんと足並みが揃って効率が良くなってくるという現実を見れば見るほどに、なんらかの力がはたらいていることも否定できないために、どうしても集団意識というもやもやした雲のようなものが組織の成員のアタマの上から、それぞれに司令を与えているような説明をせざるをえなくなってしまったのでした。
それでも、オバケのような集団意識はやはりおかしいと考えてゆくと、組織図を見れば直属の上司がおり、その上にはまた上司、というふうにして社長がいちばん上に位置していることを突き止めると、結局のところ社長がオバケの正体であったのだということになってしまいます。

研究者の恐ろしいところは、一般の人と違って、「自説の辻褄が合わないことには食いっぱぐれる」という強制力が働きますから、どれだけ珍妙な結論になろうとも、研究者として振舞っている間には、傍からみるとどれだけコジツケに見えようとも、頑として自説を曲げようとしないところです。

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集団意識と呼びたくなるものはたしかに経験上感得されるものですが、それはなにも、わたしたちの頭上にもやもやと存在していて、そこから司令を発信しているようなものではないのであって、あくまでもわたしたちそれぞれの「アタマの中」に個々別々に、自由意志とは違ったかたちで、学問的に言えば「対象化された観念」として存在しているのだ、と理解すれば良いのです。

たとえばある会社に入社したときは、そこでのやり方がそれまでの人生とは違いすぎて、本当に馴染めるだろうかと思うものですが、そこで過ごす年月が長くなるにつれて、「なるほど、電話応対で『もしもし』ではなく『もしも』で切るのは、外部からではなく同僚の電話に出るときの合図なのか」といった独自のルールに慣れ親しんで、使いこなせるようになってゆきますし、それが眼に見えないものであっても、「あんな口の聞き方をしたら部長は起こるぞ、ほらみたことか」と、予想が立てられてゆくようになります。
組織で長く活動を続けていると、自分が「あれをしなきゃ」と思ったことを他の誰かがやってくれていたりしたときなど、阿吽の呼吸が見られるときにはなおさらその確信は深まります。

つまり組織の成員がそれぞれを同一の組織で過ごし、そのそれぞれが同様のかたちで対象化された観念を持つようになり、それに従って行動することによって、その現象面だけから分析しようとすると、あたかも集団意識に統率されて突き動かされているように見える、ということなるのです。

現象だけを見て過程における構造が読み取れないと、どうしたって相容れない2つの事実を突きつけられるのと同時に、研究者としてその理由を考えなければならない事情の板挟みになって、結局オバケのようなものが自分たちを統率していると思い込まずにはいられなくなります。

研究者ならば、一般の人たちからも嘲笑されるようなトンデモ話に捕まらないだろうと思うのは早計です。

最近、わたしの周りに「本質のつもりで実体を探し回るのをやめよ」と言われて怒られていた人がいましたが、その姿を見て、まったく何度怒られれば気がすむのだ、と応援半分、ミーハー半分で見守っていた人も、今回の話がわかっていなかったのであれば、素朴な常識を持った一般の人たちから笑われる運命にあります。

◆◆◆

同じように家庭という小さな組織を見ることにすると、赤の他人であったはずの二人が夫婦という関係を結んだときには、口癖や仕草などが似てくる、という個と個のあいだの相互浸透が見つかりますね。
もしその過程を細かに見るならば、妻の表現を見た夫が、それを対象化された観念として持ったことをきっかけにして、それが当人の自由意志との浸透を繰り返すという、自由意志と対象化された観念との相互浸透が量質転化的することによって生成される現象ということができます。

会社組織の成員の場合は、明文化された規則などの形で強制力を持ったものから生成されたところの対象化された観念によるために家庭内とは浸透度合いに違いが見られること、成員の数が多くなればなるほどにその間で結ばれる関係性は飛躍的に増えることなどという違いはありますが、原理的な生成と発展の構造は、それほど理解に苦しむほどのことはありません。

全体の構造がわかれば、どのように調査を進めてゆけばよいのかも自ずと明らかになってゆきます。
構造がわかれば、参考する文献の中に踏み落としが見られる場合には、それを訂正しながら読み進めることができます。
構造を読み解けるためには、どれだけ遠回りのように見えたとしても、学問における世界観をちゃんと押さえておくことがいちばんの近道なのですし、そのことが、ゆるがぬ土台となってくれるわけです。

学問の世界観や弁証法などという名前を出すと、「そんな大雑把なものが現代に通用するか。中世や近代ならともかく、情報化で複雑化した現代社会においては役に立たないから棄ててしまえ。書を棄ててフィールドに出よ」という先生もおられると聞きますが、ほんとうにそうでしょうか。

世の中がどうであるかはともかく、わたしたちは今回も、他ならぬ学問のおかげで、まともな卒論が書けることになっていったのでした。
ところで、学問に学ばない卒論とは、いったいなんなのでしょうね。

(了)

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