2011/09/25

「本を読む」とはどういうことか (5)

(4のつづき)


やや蛇足ながら、思想性はそうなのだろうけど、それだけでは心もとない、手びきが欲しい、と思われる学生さんもおられるでしょうから、僭越ながらわたしがどんなふうに一冊の本と向き合ってきたのか、ということにも少し触れておきたいと思います。

これは、わたしがずいぶん前に四苦八苦して三浦つとむ『芸術とはどういうものか』(至誠堂)を読んだ時のノートです。(オリジナルのPDF版


人さまに読んでもらうために書いたものではないので、本来なら門外不出なのですけれど、「ちゃんと本を読む」ためには、どれくらいの取り組み方をしなければならないかが少しわかってもらえるのではないかなと思います。

お見せしている2ページのノートは、本文の3〜4ページぶんのある箇所が、どうしても心底わかりきったと自信を持って言えなかったために、その行間にどのような文章を補えばよいかを考えていっています。

ブルーブラックで書かれているところが本文の引用で、本文をそのままに読んだだけではわたしにとってはわからないところが多すぎたので、再度読みなおして、さらに同じ著者の他の書籍にも当たった上で、作者が言わんとしているであろうことを自分で補い、オレンジ色のインクで加筆しながら読み解いているわけです。

サブに使っているノートに何回も書きなおしたものが、それなりの体裁にまで仕上げられるようになったので、メインのノートに貼り付けてありますが、ここまでまとめて書き起こせるまでにメモを4,5回は書き直しました。

もちろん、ノートのコレクションが目的ではないので、自分が研究を進めてわかったことは、横に付け足したり、付箋を貼って補足したりしています(付箋は外してあります)。
今読んでみると、もっと良いまとめ方ができたのになあと、苦心したころを懐かしく思いますが、それも前進した証拠だと思っていますし、いまでは別の苦難があるものです。

こうやって何十回も読んで、さらに数回まとめてもまだ理解したりないという事実に向き合うと、否応なしに無駄なプライドなどは吹っ飛びます。
頭をたれて謙虚に、一文字ずつ文字を拾って読み進めるというのは、道場に入門したあと、数年間床磨きをしながら、刀に触りたい、刀を振りたいと願って願いながら、練習に励む先輩たちの稽古姿を横目で眺めているときの感覚に似ています。
武道とは関わりのない方も、なんとなく想像できるのではないでしょうか。

この過程があってこそ、それなりに失礼のない形で先達と向きあって仕合うことができるわけですね。
もっともこの本とは、床磨きなどとは比較にならないくらいの年数向き合いました。同じような本も、ほかに両手の指では少し足りないくらいにはあります。

◆◆◆

さてブルーブラック(本文の引用)とオレンジ(わたしの補った文)の文量を比較すればわかりますが、重要な箇所になれば、直接的な表現のあいだの行間にも、同じだけの含意が隠されていることがわかります。

筆者にとっては当たり前の論理展開も、自分にとってはこれほどに補いながら読まねば理解出来ないというのは、残酷な事実です。
この本はとくに、表現そのものはとても易しいものでしたから、わからない箇所があるということは、とりもなおさず読み手の論理力が足りない、ということに直結しているわけです。
表現が難解である場合には、論理力が足りないことのほかに、用語が理解できていないという原因もありうるのですが。

このようにして「行間を読む」ときには、読者にとって読むべき行間が多かったり少なかったりしてもよいわけですが、それも自分にとっての必要性のレベルに応じて補ってゆかなければなりません。

近所の者知りおじさんやおばさんになりたいのであれば、読んだことにして済ませればよいかもしれません。
研究者で終わってもよいのなら、一読して本棚にしまっても参考文献には挙げられるかもしれません。
ですが、学者としてこの本の先にしか自分の未来がないと知るならば、死に物狂いで読み込まなくてはなりません。

繰り返しますが、一流を目指すのであれば、人に何と言われようと、自分がわからないと思えば、わかるまで読むという姿勢が絶対に必要です。

易しい表現に助けられて、著者に「わからせられてしまった」ことを、自分の実力で読みきったのだと勘違いしてしまってはいけません。
筆者が読者の立場に立って、彼女や彼がおそらく躓くであろうと判断したうえで、とくに助け舟を出してくれているところは、「この表現は崩し過ぎではないか、もっと深い意味があるのではないか」と考えてみるべきです。
その意味で、「読書する」というのは筆者と読者の表現にまつわる相互浸透のひとつのあり方であり、ひとつの闘いでもあります。

◆◆◆

「あの本に取り組みだしてからもう数ヶ月、数年経つのにまだわからない」という事実から目を逸らして、「わかったことにしてしまいたい」という誘惑に駆られる自分の弱さを、なんとしても日々覚悟を重ねる中で克服してください。
「わかった」とか「わからない」という表明そのものには、何の意味もないことを知ってください。

そうでなければ、本質的な前進はありえません。
道を歩むというのは自由気ままにできることではなく、それなりの前進がなされたときにはそれだけの責任と覚悟が必要であることを、目を逸らさずに自覚してこその一流です。

本当に本を読むために必要な心構えは、
人にとってはどうであろうと、自分にとってわからないのであれば、わからない。それだけです。


(了)

2011/09/24

「本を読む」とはどういうことか (4)

(3のつづき)


ここまでを捉えれば、自分の道にとって必要な本を定めたのであれば、次にはそれをどう深く読みといてゆくか、が問われることになります。

一冊の本を一読して読み解けないのであれば、その疑問点を問題意識として据えたうえで、同じ著者の他の本にも当たりながら、解決して自分のものにしてゆかねばなりません。
また、生活のあり方を現代風に捉えることがあやまりだということに気づけば、当時の社会のあり方に目を向けないわけにはゆきません。

現代という時代は、なまじいろいろな本が手当たり次第に手に入るものですから、これもいいあれもいいと、知識的な蒐集家になってしまいがちですが、これは典型的かつ致命的な誤りです。
自分が目指すところを知るために大まかな事情をふまえて、そこからこれだというひとつの道を定めたのであれば、原理や原則までをもあれやこれやとコロコロ変えて良いわけがありません。
あくまでも、目指す一本の道はしっかりと正面に捉えつつ、その本質的な理解のために必要なものだけは触れることにして、理解の一助にする、ということでなければなりません。

上で挙げた哲学者、出隆が、単なる博識に拘泥せず哲学的精神に帰るためには、と説いているところを見てください。

「これがためには、最後にとくに初学者としての諸君に勧めたい一つの途がある。――異説多しなどという声に躊躇逡巡することなく、ひとたび何らかの哲学的入門書を通読したのちは、他の多くの雑書に向かうを止して、何よりもまずある偉大なと思われる哲学者の原著(とくにその人の苦悶を語る独語的記録)を繙け。そして彼その人とともにPhilosophierenを学ぶがよい。」

簡単にいえば、たとえば哲学を専攻すると決めたときには、哲学全般についてひろく見聞を広げたあと、あれやこれやの雑兵にかかずらっておらずに、ただちに本陣本丸の大将首である古典中の古典を残した歴史上の偉人のところを目指すべきであり、その人の考え方をこそ、学ぶべきであるということです。
ここではさらに、ある偉大な先達の「考え」はたしかに大事だが、なおのこと大事なのはその人がどう考えてきたかという過程、つまり「考え方」(Philosophieren)なのだ、ということが強調されているわけです。

わたしが学問の道を志したときに、この人のこの本に出逢い、この数文を読んだことで、どれほどに勇気づけられ、どれほどに道を違わずにすんだと深く深く感謝しているかは、なかなかわかってもらえないと思います。

◆◆◆

結論を出すためにまとめるならば、多読というのは、道を目指すと決めたときに広く見聞を拡げる初心の段階と、ある書物を理解するためにどんなことでもいいから手がかりが欲しいという段階において、副次的な必要性として認められるにすぎない、ということです。

わたしが常々くどくどと言うように、学者やどんなジャンルでも一流の人物にとっては、たしかに知識も必要だけれども、もっと大事なのはその整序の仕方、考え方こそなのだ、ということとも一致していますね。

読書は、高い目標を掲げた自己が、なんとしても自分の力だけでは超えられない高みへと目標を定めた時に、先人の足跡を辿り、そこまでたどり着くためのひとつの手段です。

ほかの手段として、実践的な修練などの書籍以外のものもありますが、人というのは個人として生きながらも人類総体としてしか歴史を歩みとおすことはできないという本質的な規定を考えればこそ、この小さな経験だけに頼っているわけにはゆきません。
歴史を歩もうとすることと、一流たらんと歴史性をもって生きようとすることは直接的に同一のことであり、切り離せないことなのですから、なおのこと書籍の中の、先人の精神に触れねばならないわけです。

単に結果だけを目指せばよい読書ではなくて、自分の人生にとって必要な、カッコ書きの、「読書をする」ために必要なのは、一流の本と出逢い、それをなぞらえて自分の人生と重ね合わせることのできるレベルで読み進めることができるか、ということなのです。

だからわたしは、自分がこれは重要だと思う本を見つけたのなら、脇目もふらずそれだけを中心に据えてコツコツと熱心に、ぼろぼろになるまでいつも傍らにおいて読み進め、自分のものとして欲しいと、強く、強く願っているのです。


(5につづく)

「本を読む」とはどういうことか (3)

(2のつづき)


前回の終わりでは、「本は一読してわからなければならないか」という問題について、出隆の『哲学以前』を例に引いて考えてもらうことにしたのでした。

もう一度引用しておきましょう。

ひとつに、
それは、そのままの主客未剖の常体を否定し客観化して、われわれに客観界を与える諸原理として働くとともに、さらに与えられた客観界を種々に統一して対象界(種々の世界)を構成する原理である。

ふたつめに、
否定されることがわれわれ啓蒙的教師の任務完成である。

どうですか。
一読しただけでなんとなくでも像を結べて、さらにこれは読んでみたい!と強い意志がふつふつとこみ上げてくるところにまで到達できたでしょうか?
「バカを抜かすな、こんな一部の書き抜きだけで何がわかるか!」という人もおられるでしょうが、あらかじめの問題意識が整っている場合には、カント観念論の影響で読みにくい前文はともかく、後者の断言などは小さくない印象を残すものです。

◆◆◆

彼がこの本を書いたのは、『哲学以前』というタイトルからしてもわかるとおり、読者を自ら考えることへと導くことを意図していたからです。
そのような場合には、筆者は読者にとって啓蒙をしていることになるわけですが、この箇所で、彼はこう啓蒙しているのです。

「私の言っていることが理解できたのなら、その証拠に、さああなたの今読んでいるこの本を閉じるがいい。そうして、歴史上に名を残している古典中の古典に向きあたって、それを乗り越えんとするがいい。その姿勢こそが、私の意図したところのものである。」

自らが踏み台となって後進を導かんとするこの思いが伝わってくるでしょうか。

もしこの一文を読んだ時、その文脈が完全にわからなかったとしても、「ここにはなにかすごいことが書いてある!」という感覚があるものです。
わたしはこの本を買ってきて、食事の前に待ちきれなくなってペラペラとめくってみてこの一文が目に飛び込んできたときには、頬を引っぱたかれたような衝撃がありました。
しかしほとんどの方は、そんなことはないでしょう。それが、現代の読者のあり方です。

ところでこの本は、年号が昭和になるころ、当時の高校生がむさぼり読んだと言われる教養書です。
いかに当時の学生が、これからの時代の礎となるための志に燃えていたかがわかるでしょう。
いくら寿命が伸びているからといって、現代の大学生が同じ感想を持たなくてよいことにはならない、そう思えませんか。

◆◆◆

もし読者のみなさんがこういった意気盛んな若者たちが今の日本を創り上げてきたのだと知って、それに比べれば今の自分はなんと自堕落なのだ、そう反省したとしてお話ししましょう。

そのとき自分の選んだ道のうえで、ひとところの位置を占める人物になりたいと決意したのなら、その道を以前に歩いて創り上げてきた人物が、自分と同じ年齢のころ、どんな下積みをしてきたのかが気にならないわけはありません。

音楽家を志すなら、ベートーヴェンはいくつで音を失ったか?手記にはなんと書かれているか?
武道家を目指すなら、宮本武蔵はどんな修行過程を持ったのか?いつ名を上げどのような晩年を送ったのか?
画家の道を歩むのなら、ピカソは若い頃にどういう議論を闘わせていたのか?転機はいつ訪れたのか?
学者の生き方を貫きたいのなら、カントが初期になぜ宇宙論を展開したのか?それは後の哲学にどう関連したのか?

そういったことを自分の年齢と照らし合わせているのであれば、焦らないはずがないではありませんか。
真剣勝負をしている相手は、掛け値なしの大天才たちなのですよ。
大天才が失意のどん底にあって、「私もこの歳だ、決意を固めねばならない」と言っているのですよ。
仮にも一流を目指しているなら、恐ろしいほどの焦燥にかられて当然です。
ニュートンのような人物ともなれば、「ヨーロッパのニュートン様」と書けば、本人のところに手紙が届いたほどなのですから。

◆◆◆

誰にとってもそのはずですが、本道を定めたといいながら「いつか、いつかは」とばかりに真剣に取り組むことを先延ばしにしているような人のことを、とてもではありませんが信用する気にはならないものでしょう。

いまは長寿だからいつかは、と安心してしまうのかもしれません。
たしかに現代という時代を昔と比べれば、障害を持っても保護できるほど豊かですし、だらだら生きていても食うには困りませんし、鍛えねば歩けないような下駄も履く必要がありませんしそれに、一筆に集中しなくともやり直しの効く絵画ツールもある、というあらゆる優位がありますね。

しかしその優位を、手放しで礼賛していてもよいのでしょうか。
道具や環境による優位は、ある不足を乗り越えるためにそう整えられてきたものですが、それを整えてきたのはかつての人類なのであって、それを享受する当人ではないことは少し振り返って考えてみても良いことです。
便利な道具が近道を提供してくれるのなら、その過程にはいったいなにがあったのか?
なにを、「努力せずに乗り越えさせられてしまっているのか」?

たとえば現代の剣術で、宮本武蔵ほどの達人が現れない理由を考えてみるときに、相手を死に至らしめる武具を用いての斬り合いが行われないという目に見える事実のほかに、現代人が下駄も履かず、木登りもせず野犬にも噛まれず、喧嘩どころか転んで擦りむく前に親に守られ、一日中クーラーの効いた部屋で昼まで寝ていることができ、蚊に刺されたら薬はどこかと騒ぎ、20歳を迎えるまで半人前扱いされるという、生活そのもののありかたにもちゃんと目を向けねばなりません。

宮本武蔵の残した本の中には、彼にとっての当然の環境は特別に記されることはなかったのですから、現代に生きる我々が彼の修行・修業内容を捉え返すのであるなら、彼の著作だけに向き当たるのではなくて、当時の生活のあり方そのものをも究明した上で、彼の生き方をなぞらえてゆくのでなければ、本当の意味で切磋琢磨したことにはならないのです。


(4につづく)

2011/09/23

「本を読む」とはどういうことか (2)

※補足
この一連の記事は、(1)~(4)までの本文と、補論的な位置づけの(5)から成っており、これから21:00と6:00に公開され、9/25(日)6:00までにはすべてが公開されます。休みの日にも真剣勝負、な読者の方たちへの刺激になれば嬉しく思います。

(1のつづき)


もし読者のみなさんが、先生に本を薦められたり、立ち寄った本屋さんで本を買ってきたとしたら、それをどんなふうに読み進めてゆくでしょうか。

すべてを読みきらなかった、という場合には、その本が自分の必要としていたものとは違っていたといった本側の問題もさることながら、自分自身の中に読了するだけの根気が続かなかった、という読み手側の問題もありますね。

しかし極端なことを言えば、隣で我が子が魚の骨を喉につまらせて苦しんでいるときには、妻や夫が救急に電話をかけているあいだにも、家庭の医学辞典からなんとしても適切な理解を引き出そうとするでしょう。
そうすると、自分自身がそれを強く必要だと思いさえすれば、その対象とする本がどのようなものであれ、それなりの取り組み方をするものだと言うことができます。

しかし読書が不可欠の学者という仕事をしている場合にさえ、たとえ毎日本を読んでいたとしても、まだまだ読み解けない本というものはあります。

学生のみなさんは、大学の先生が研究室の本棚にしまってある本をすべて読んだと思っているようですが、そんなことはありません。
開いたこともないような本を、TVの取材で格好をつけるためだけに「飾ってある」だけの場合もあります。
ましてや、「この本なくして我が人生なし」とまで言えるほどまで読み込んだ本は、数えるほどしかないでしょう。

研究の審査のときにも、学問の構築には必読のはずで、さらに一般の方でも少しは名前を聞いたことはあるはずの、アリストテレスやデカルト、カント、ヘーゲル、エンゲルスといった偉大な学者の書籍を参考文献に挙げると、「お前はこれを本当に読んだのか?」「何が書いてあったか本当に理解しているのか?」と疑いの目を向けてくる方もおられます。

そうすると、一般の方でも学者でもなにを生業にするかはともかく、本を読んで自分のものにできるかどうかは、その本の読み手が「取り組んでいる本にどれだけの必要性を感じているか」による、ということです。

◆◆◆

苦しむ娘を横目に見つつなんらの対策も探さない人間は親失格ですし、
歴史上の偉大な学者の業績から真摯に学ぼうとしない人間は似非学者です。

こう捉えたときに、わたしが美術の先生に教わったことの答えが、一歩進んだ形で浮き彫りになったのでした。

本を読むということは、力不足を自覚する現在の自分を乗り越えるためのひとつの手段だが、それでも欠かすことのできない手段である、というのがそれです。

自分の道をひとところに定めたときには、その道をかつて歩んで創り上げてきた先人たちの文化遺産を正しく受け継いでゆかねばならないわけですから、小学校の読書感想文よろしく、まえがきとあとがきだけを読んでなんとか「可」をもらえば済む、というわけには参りません。

ひとつの道を決意した人間にあっては、誰かに評価してもらうための読書などがありうるはずもなく、自分の責任でもって、先人と向きあわなければなりません。
形の上ではひととおり読み終えてはいても、自分にとってわからない箇所があるなら、読了とは言えないことになります。

ここで必要とされるのは、「あの本は自分の血になり肉となった」というレベルであり、さらに進んでは「何も見ずともあの本と同じ内容の事柄を書ける」というレベルです。
その段階ではじめて、先人と対等の力を持ったと言えるのであって、時代を先にすすめるには少なくとも一太刀浴びせられるくらいの実力がなければいけないことになるでしょう。

◆◆◆

自分の定めた道にとって、直接的に乗り越えねばならない人がおり、作品があるならば、「血となり肉となった」という実感が、どれほどの自省の念を持っても、たしかにそうだと自信を持って言えるほどになっていなければいけないことがわかりますね。

それなのに、一般の読者はともかく、研究者を自認する人の中でさえ、「あの本はもう読んだ」という対外的な宣言をするためや、参考文献にたくさんの書籍をあげたいがためだけに読書という行為に囚われている人もいます。

前にも皮肉を言いましたけども、どこぞの小説家が言うには、「どんな本でも一読して理解できねば恥」とのことですが、謙虚で懸命な読者のみなさんは、軽はずみな妄言に惑わされないようにしてください。
自分の能力の高さに下駄を履かせてひけらかすときには、逆説的に自分がどのようなレベルに居るのかが明らかになってしまう、ということがわかるくらいには弁証法が使えるようになっていてほしいものです。

ショッピングモールに入っている本屋さんの店頭にうず高く積まれているような「こうすれば儲かる」とか、「恋人を作る方法」のような雑書の中の雑書の類であれば、たしかに一読すれば内容は理解できるわけですが、ああいったものは本の体裁はとっていても、その内容はといえば「一読にも値しない」と評すべきものです。

わたしは週に1回は本屋に足を運んで、売れ筋の本は必ず目を通しますが、「しっかりとした中身のある本が売れた試しはない」と断言してもかまわないほどに、書籍も読者のレベルも下がってきています。

年配の方であれば「なんという暴言を」などとはおっしゃらないとは思いますが、わたしの言っていることが極端すぎると思われた人は、出隆『哲学以前』を読んでみてください。

たとえば彼が、「範疇」(カテゴリー)をどう説明しているか見てみましょう。
それは、そのままの主客未剖の常体を否定し客観化して、われわれに客観界を与える諸原理として働くとともに、さらに与えられた客観界を種々に統一して対象界(種々の世界)を構成する原理である。

たとえば彼が、後進に向けた一文を見てみましょう。
否定されることがわれわれ啓蒙的教師の任務完成である。

これを「一読して」理解できるものでしょうか。


(2につづく)

2011/09/22

もっと大事なことがあるでしょ。

(※更新できないことの言い訳記事なので無視してくださってかまいません。)

たいへんな一日でした。


iPhoneがauから出るかもしれないというニュースのおかげで。




昨日の日が変わった頃に出始めたニュースらしいですが、
今日は朝からいろいろと聞かれました。

昔からのMacユーザーで、Apple関連の情報をこまめに集めている人間からすれば、
「なんだ、やっとか」というくらいの感想なのですが、
一般の人からするとずいぶん大きな出来事のようで。

おかげで関連銘柄の値動きも激しいようで、
なにやら投資の際の材料にされる方もおられるみたいなので一言いいたい。

知らないことで、金儲けしようとするんぢゃない。

◆◆◆

投資というものは、自分が定点観測していて、これは確実だと自信を持って言えるところにだけやればいいものだ。

これからは絶対にもっと評価されると思う銘柄を100買って、110になったらはじめの金額のぶんを手元に戻して、あとの10は証券のままおいておくようにすれば、だいたいの場合には損しない。それでいいのではないでしょうか。

リスクヘッジしてあれもこれもと中途半端にいろいろ立ちまわる工夫が必要なのは、大きな額を動かせる場合だけなのであって、小銭を転がしても手数料差っ引かれて証券屋を儲けさせるだけである。

そんなことばっかり考えて四六時中スマートフォンいじるのをやめて、
投資するはずだったお金でケーキ買ってさっさと家に帰るような日を作ってみてはいかがか。

スマートフォンが便利だ便利だというけれど、便利の代償になにを差し出しているのかを、考えてみたほうがいい。

2011/09/21

本日の革細工の下ごしらえ:自転車ツールバッグの型紙づくり

今年はよく台風が来るなあ。


波乱含みなのは気候だけでなくて、わたしの生活だったりもするけれども、毎年そんなようなものだ。

いまは足の爪やらを故障中なので、数日かけて工夫してみたけど、こりゃダメだ。
効率が悪くてどーしようもない。

心配かけまいと出て行ったのに逆に心配されるようでは意味がない。
最近はそのことをそこそこ素直に認められるようになった。

◆◆◆

ところが、じっとしているのはとても無理な性分なので、これ幸いとなにかないかと探してみたら、やっぱり自転車に行きあたった。

このところの目標は、革細工で立体加工できるようになって、木の彫刻とうまく組み合わせられるようにすることだから、少しでも技術を磨いておきたい。

硬い革も新調したことだし、今回のお題ではツールバッグを考えてみることにする。


自転車業界でアンティーク趣味の人間にとって定番のツールバッグといえば、ブルックスのツールバッグである。

ツールって言えば、パンクした時のための換えチューブやパンク修理キットのことだから、それが入ればよいだけのことなのだけども、このバッグ、お値段なんと、13,000円也。

ブルックス社のサドルは、値段よりもはるかに価値があると思うが、これはちょっとひどいぞ。

◆◆◆

庶民の敵はさておき、わたしはどっちにしても、もっと使い勝手の良いものが欲しいので、結局自作するしかない。

入れたいのは、おそらくこれくらい。


いつもどおりアナログでごめんね。
ベクター化していると、ここの記事を書いていられる制限時間を超過して、睡眠時間を食いつぶしてしまうのだ。

さてここからすると、縦は150mm、厚みは35mmほどあれば足りる。

横幅については、以前に作った自転車用バッグにぴったりにしたいので、250~270mmあたりだろうか。

◆◆◆

絵にしてみると、こんな感じ。

(a) カバン内カバン(インナーポケット)型。


つまむところを作ったら、カエルの顔みたいで可愛くなった。。。

◆◆◆

次に、

(b) 外付け型。


こっちは、カバンの中にも入れられるし、単体でもサドルに装備できる。

◆◆◆

需要としてはbのほうが多そうだけど、個人的には、モノを出し入れするたびに手の甲がファスナーにガリガリ当たる感触があんまり好きじゃないんだよねえ。

もっと、がばっと口が開くようにすればいいのかな?

ただそうすると、ファスナーの長さ次第でバッグの大きさも変わってくるなあ。
ついでに、作業工程がめんどくさいので納期が伸びるかもしれない。

それから革には防水機能がまるでないから、中身を守るためにはジップロックを使うことになるので、そのサイズにも規定されてくる。

…などなど、型紙を作る前にも、考えておくべきことは無数にある。
それぞれの要請は矛盾を来すが、それを統一するのは作り手の仕事だし、どれほど考えぬいて作ったものでも実際に使ってみればまた矛盾が出てくるのだから、次のモデルではそれを統一する責任が、やはり作り手に課せられているわけである。

道具を作る。こんなにアタマを使うことも、なかなかない。

道具を作るときには、それを使うときのことを想定してあれやこれやと想像を巡らせるから、それをやればやるほどに、あり得べき形態はほとんどひとところに集約されてくるものだと、いつも感じている。

一般流通にのっている商品も、そういうことをちゃんと考えて、それから安い値段で売ってくれれば、こんなにいろいろ考えて自作までする必要もないのにねえ。

自転車業界は、いつまでも若いままのようである。

2011/09/17

「本を読む」とはどういうことか (1)

「画家になるときも、本を読まなければいけませんか?」


かつてわたしが芸術で師事していた先生に、他の学生がこんな質問をしました。

学校の本棚を整理するときに不要になった本があるというので、ほしいと思うものがあるなら持って行きなさい、と言っていただいたときのことでした。

わたしはそれと同じ疑問をその前から持っていて、自分なりの答えを出してから聞いてみようとずっと大切にその問題意識を持ち続けていたのです。
そうでしたから、「まるで考えてみもしないあいだに不躾な質問だなあ」という気持ちと、「自分にはとてもできそうにない質問をよくぞ」という思いが相まって、筆を止めて先生の答えを待ったのでした。

そのときに先生が返されたのは、
「どう思う?」
という返事でした。

ちらと見やると、ニコッという笑顔をされている。

質問した当の学生は、質問を質問で返されて、「エーッ!?」という声を上げていましたが、わたしにとっては、その笑顔こそが、なにやら大きな手がかりになるのではないかという直感がありました。

◆◆◆

デッサンの手を止めて、じっと考えました。

もしまったく不要なのならば、「必要ないから脇目もふらずにデッサンあるのみ!」といったような答えが返ってきたはずですから、「必要なことは必要なのはたしかだろう。それでもその必要さにも、なにか条件があるのだな」、というところまで、自分なりに答えを追い詰めたのです。

すこしくだけた言い方をすれば、質問を質問で返すという答え方の形式には、こういうメッセージがあるように思われました。

「こういう場合には必要ないけれど、ああいう場合には必要になってくるよ」。

加えて、先生が笑顔でそれを発せられたというところから、

「そういう問いかけを持つようになったというのは、一つの前進です。
なぜ必要になるのかは、自分で取り組んでみて、自分のアタマで考えてみなさいね」。

という思いを込めておられたのではないかなと感じたわけです。

◆◆◆

他の学生たちは、「役に立つかどうかわかんないのなら要らないや」とばかりに辞退したので、わたしは内心「やった」という気持ちになって、そのときにある本をいただいたのでした。
カバーの外れてくすんだ色のその本は、古ぼけた見た目とは裏腹に、壁一面に並んだ本の中でも、いつも決まって目に飛び込んでくるだけの思い出がつまっています。

◆◆◆

さて実は、わたしははじめ今回のお題を、「画家には読書が必要か」にしようかなと思っていました。

でもこれを論じるには、画家という仕事の特殊性が強いために、それに引きずられて「読書をする」ということの一般性のレベルでは考えてゆきにくいということがわかりました。

なぜかといえば、画家といっても日本画と西洋画のあり方はそれなりに違っており、西洋のそれは、形式を理詰めで整えてから実践に取り組みますし、すでにある作品についてもそう理解しようとするのがひとつの理由です。

みなさんはピカソの描いた絵を見ても、幼稚園児が描いたお父さんの顔みたいだな、などと思うのではないでしょうか。

ピカソの絵として知られる一連の作風をキュビズムと呼び、画家として駆け出しの頃はもっとちゃんとした絵を描いていたことを知っている人も、後期の変わりようをみて、なにか嫌なことでもあったのだろうか、くらいにしか読み取れない人も少なくないのではないかと思います。

ああいった抽象画がわかりにくいのは、その「絵画理論」を含めて読みとかなければ、その合理性が自分のものとして理解出来ないために、彼や彼女たちの作品の理解も、ごくふつうの感性的な段階にとどまってしまうからです。

感性的なところからしかものごとを見れない場合には、当然それを「嫌い」だとか、「好き」だとかで選り好みするしかないわけです。

今回は、西洋画と日本画の違いを述べて、その比較の難しさを考えているだけなのでこれ以上の深入りは避けますが、簡単に述べるならば、日本画を理解するときには、西洋画とは違って、書き手が理性の力を意識的に発揮しておらず、明確に芸術理論として述べていない事が多いために、書き手が明記していないところを補って読み解くための認識論が必要なのです。

要して言えば、その違いを感性と理性に見ることから一歩進んで、感性をも理性的な分析の俎上に乗せて理解してゆかねばならないのですね。

ともかく、簡単に述べてもこれくらいのことがご説明しなければならないということになると、「読書をする」という主題にたどり着くのはいつの日か、ということになってしまいます。

◆◆◆

それに加えて、画家としての読書を考えるときには、読書で絵画技法を学んだ場合と、画家としての生涯を学んだ場合も大きな開きがあることなども考えてゆくと、きりがありませんからね。

そういうわけで、今回のお題はこんなふうにしましょうか。

「『本を読む』とはどういうことか」。


一冊の本を理解するとはどういうことか、と読み替えてもかまいません。
「本を読む」とカッコ書きしたのは、ただ目を通したというのではなくて、特別な意味を持たせたかったからです。

さていつものように、前書きでひとつの記事を潰してしまいましたが、次の記事では、わたしが一冊の本を読みきるまでにとったノートなども参考にしながら、考えてゆきましょう。


(2につづく)

2011/09/16

小豆島(しょうどしま)いってました。

携帯電話の電源を切って、

朝日の中を飛ぶトビ(鳶)。
ピーヒョロロロ、と鳴きながら飛んでいる猛禽類がいたらそれです。
ひとりで旅してきました。

◆◆◆

ほとんどの人はクルマで行くのでしょうけども、わたしはいつものとおり自転車です。

なにが良いって、何をするにしても気楽なところです。

思い立ったその日にほとんど準備なしに出発できるし、
綺麗な景色に出合ったらすぐに停めて写真を撮れ、
美味しそうなものを見つけたら停めて食べるのも自由、
気の良い店員さんに出会ったら停めておしゃべりもできれば、
こんなに急だったなんてと脂汗を垂らしながら坂道を上っている時も、
登りきった山の上で絶景を眼下にとらえたときにも、
野営して星空を見ながら眠るときも、いつも相方がそばにいる。

眼下の街並み。
下から見上げたときには、いつも「…これ、ほんとに登るの?」と思います。
自宅からの道のりをとおって、自分のペースで世界を広げてゆけるのはこれだけだと思います。

◆◆◆

ただしガソリンや駐車場を気にしないで済む代わりに、自転車のエンジンは、上にまたがっている人間ですから、やることをやるときにはただで済みません。

今回は自分にとってひとつの節目にしたかったこともあって、仕事の合間を縫って無理やり強行したので、寝不足に加えて先日故障した足を引きずっての旅になってしまい、2時間かけて坂道を登っている最中にはちょっと後悔しました。

もっとも、それはどれだけコンディションが整っていても多かれ少なかれ思うことでもあります。

それでも、山を登りきって、絶景を眺めて目に焼付け、

iPhoneで作ったパノラマ(1)
寒霞渓(かんかけい)からの景色。
風を身体いっぱいに受けて坂道を下り、

iPhoneで作ったパノラマ(2)
寒霞渓の東側、ブルーラインからの景色。登ったねえ、こりゃしんどかった!
温泉に使って、美味しいものを食べていると、

「あ〜、やっぱり、来てよかった!」

という思いでいっぱいになります。

iPhoneで作ったパノラマ(3)
翌日の早朝。自転車乗りは、日の出と共に出発します。
これを自転車の代わりに観光バスで乗り付けてやってきても、達成感なんていうものは、影も形もないでしょう。

旅というものを、お金を払ったぶんをなんとかして楽しもうという発想で向きあう場合には、サービスが悪かったり天候が悪かったりすることが、いちいち不満に思えてくるのではないでしょうか。

◆◆◆

それが自転車に乗って坂越えをしているときには、
汗をだらだらかいたあとにはジュースが楽しみになり、
小雨が降ってきたら涼しくなったと喜び、
大雨が降ってきたら温泉が待ち遠しい思いがどんどん膨らんで、
旅を終えれば苦労したぶんだけのいい思い出になるのですから、
こんなに安上がりで充実感を満たしてくれる趣味も、なかなかないのではないかと思います。

それに自転車でいったん通った道というものは、あとでクルマで通り過ぎたときにでも、情感豊かに思い浮かべることのできるものになっているものです。


小豆島は、ゆったりした時間の流れる、オリーブの木と小島に囲まれた景観が地中海を思わせるようなよいところでした。
もし自転車で実際に行ってみようという場合には、外周は適度な起伏があり楽しめますが、内陸ともなるとむかしの火山で、切り立った険しい山々が連なっていますから、それなりの準備をしておくのがよさそうです。

自分の時間を作ってちゃんと考え事もできたし、良い人たちにも巡り会えたので、
時間を作ってまた行ってきます。

帰ってきました。

…けれども、


ちょっと大きな仕事を頼まれたので、先に片付けねばならないようです。
なかなか予定通りにはいかないものですね。

楽しみにしてくださっている読者のみなさんにはやきもきさせますが、
いまかんばって進めているところなので、もうちょっとお待ちください。

2011/09/12

次回の更新は、

おそらく14日の夜になると思います。


ひさしぶりのひとり旅に出ておりますので。
綺麗な写真が撮れましたらここでも公開しますから、
閻魔帳ブログにもちょっとは彩りが出てくるかもしれません。

さて問題は、旅までに仕事がちゃんと終わるかどうか!、なのですけども。

2011/09/10

自律と他律:「だれかのためになにかできること」は、半年のあいだ維持し得たか

東北での地震が起きてから、明日でもう半年になりますね。


時間の流れというのは早いものです。

あの日のことを思い返してみると、得体のしれない義務感に駆られてか、直接のボランティア活動に参じるのではないにしても人として自分の責務をきっちりと果たしていきたい、といったことばを、直接・間接に耳にしてきました。

さて、みなさんが秘めた思いというのは各人それぞれとして、今日までの半年間を、実際にはどう過ごしてきたでしょうか?

もしあのとき「自分にできるだけのことをしよう」と誓ってから、実際にそれをやってきた、と自信を持って言えるでしょうか。

◆◆◆

わたしたち人間は、多かれ少なかれ、何かを行動する前に、ああしたい、こうなりたい、という志や感情を込めて像を描き出し、それを目指して行動してゆきますね。

現在の自分とは別のところに、あるべき自分を「理想像」として目指してゆくことにしたときは、そこにひとつの矛盾が生まれたということです。
これは矛盾のうち相容れることのできない<非敵対的矛盾>ですから、どちらかがどちらかを凌駕し、片方が消滅するまでその関係はつづきます。

目標にしていた期日が到来したときに、明確に目標が達成できていたり、なりたい自分に近づいてゆけているのがはっきりしたのだとしたら、もはや自分というのはかつて目標であったところのそのものであり、目標を立てた時の自分は過ぎ去った過去のものとして思い浮かべられるにすぎない存在になっていわけです。

「前に進んだ」実感というものは、辛い、忙しいなどと言い訳の種を探してうろつきまわっている人のところにではなくて、毎日が楽しかろうがつらかろうが、それをそれとして正面に据えて向き合うことしかやりようもなかった人が、ふと過去を振り返ったときに、がむしゃらに歩いてきたそこに、たしかな長い道程があったことを見いだせたときの感想です。

これはどんなに忙しそうに振舞っていたり、我が生涯は苦難の連続だと見せたいがために、たいして痛くもない足をさすったりして時間を潰したのではなくて、頭痛をこらえて机に向かい、上がらない腕を左腕で支えてキャンバスに向かい、びっこを引きながらでも毎日の修練を自分の内面と向き合いながら過ごしてきた者にしかわからないことです。

なぜかといえば、実感などというものは、他人が自分のことをどう見ていようとも、そんなものでは補えないほどの深さをたたえているからです。
それでも、そう過ごしてきた人は、自分の過去を誇ってばかりもいられません。
眼前には、また明日から越えてゆかねばならない山々が聳え立っているからです。

そういうわけで現在の自分がどうであるかは、当人がいちばんよくご存知のはずですから、今回お伝えしていることもよけいなおせっかいだとは思ってはいるのですが、日頃実感としてあることを、震災から半年の今日であれば少し触れても良いのではないかと思いますので、叶うなら読者のみなさんにも考えてほしいのです。

◆◆◆

理想と現実、ということを学生のみなさんに伝えるときに、引き合いに出させてもらう友人がいます。

数年前になりますが、その人が学生時代の半ばを過ぎた頃、わたしのところを訪ねて来たことがありました。
1年ぶりくらいかな、ひさしぶりだねどうしたの、と話を聞けば、学生時代にもっと、なにか明確な達成感を感じられるようなことをやっておくべきではないか、という気持ちがくすぶっている、とのことでした。
なるほど学生らしい悩みだと思って、自分が学生時代にしてきた、仕事や旅や人との出会いや、そこからどんなことを学んできたかということを思い出しながら話したのでした。

その中で、その人がいちばん興味を引いたのは、わたしが北海道を自転車で旅行した時の話のようでした。
フェリーに乗り合わせた人たちと雑魚寝の部屋で別け隔てなく話し合った時間、泊まる所がなくて困っていたところに手を差し伸べてくれた人のこと、ものづくりについて深い示唆を与えてくれた人、山頂でどうにも動けなくなってふて寝しながら見た満面の星空など、わたしにとってはあの経験がなければ自分の人生もありえない、というほどの大きな事柄でしたが、それをうまく受け止めてくれたのでしょう。

その日の内に当時学生であったその人は、「じゃあ、自分も行ってきます」との返事をくれたのでした。
まさか、旅用の自転車にも乗ったことのない人が、もう1ヶ月も間がない夏休みに向けて準備できるとは思っていませんでしたから、わたしは半信半疑のままにでもその気持ちは尊重しようと、「それなら、目標をちゃんと立てておくと励みになると思うよ」と後押ししました。

ところが数日したら、「自転車を注文しました!」というのです。
「ええっ!?」とびっくりすると同時に、その人の思いが真剣そのものであることを思い知らされたのでした。
2週間をかけて北海道を一周したあと会って、そのときに始めて知ったのですが、そのときその人は、自転車ツアーについての3つのルールを設けていたそうです。

それは、「一日に10人の人と話し、一日に100キロを走り、上り坂でも決して歩いて押さない」というものだったそうです。

それを聞いたときに、なるほどたしかに、自分がいちばんの目標にしていた「明確な達成感」を得るために考えたのだなということが伝わってきましたし、「自分をなんとしても変えたい!」という熱意がにじみ出ていて、本当に素晴らしいことだなと感じ入りました。
なにしろ、わたしがやってきたことを熱心に聞いて、それを土台にしながらなお自分の達成したい理想の形を盛り込んで、さらにはそれを実際に達成してきたのですから!
自分が期待を込めて背中を押したことを、さらに高めて実現してみせてくれる。
自分がなにかを人に伝えたときに、当人がそれを噛み砕いた上で自分のものにして活かしてくれるというのは、人間にとっていちばんの喜びではないでしょうか。

◆◆◆

理想と現実の関係で言えば、この人は、現実の自分を真正面に見据えた上で、「これではいけない」という一念でもって、なんとしても現在の自分の弱さに甘えることのないように毎日毎瞬心がけて、理想を我がものとして帰ってきたわけです。

立てた目標を達成しなかった時も、達成した時も、目標のための期限が来たときには、矛盾は何らかの形で解消しているわけです。

ただ一番の問題は、それが、立てた目標のところに自分がたどり着いたか、それとも立てたはずの目標をそのときの自分のところにまで引き下げてしまったか、ということです。

人が大きな目標を立てるときには、何らかの事件やきっかけというものがある場合が多いですよね。

上で挙げた人のように、個人的な事情もとても大きなきっかけになりますが、直接の関係がなくとも大きな震災や有事も、そのきっかけになりえます。

もしわたしたちが、現地の人たち一人ひとりの感情をまともに想像して受け止めることができてしまうのなら、それは正しく発狂するであろうほどの思いの強さなのですから、その、おそらく想像の埒外であろう事実と、それを自分の身の丈で足りるくらいに小さくして理解することしかできないちっぽけな自分とのあいだに大きな隔たりがあることを直覚するのならば、惨めさが身に染みるというのも人間らしい感覚でしょう。

天災に遭って困っている人を見ているしかないのがあまりに情けなく、直接には何も手助けができずとも、自分の責務を全うすることで間接的にでも大衆に貢献しよう、という意欲が湧くことも、人としてとても真っ当なことだと思います。

◆◆◆

そう断った上で、考えてみて欲しいことがあるのです。

たしかに、そういった思いが自分をより良い方向へと変えるきっかけになることは望ましいのですが、しかしだからといって、どこかに天災が起きなければなにもやる気が起きないだとかいうのでは困ります。

さらに言えば、いざ有事が起こったときには気持ちが高まったものの実際にはなにもしなかったし自分のありかたも何も変えなかったというのでは、悪く言えば、災害をダシに使ってスポーツの観戦よろしく一体感を感じて騒ぎたかったということでしかなかったことになるのではありませんか。

あえて大雑把に整理して言ってしまえば、ある大きなきっかけというのは、あくまでも自分が自分のものとして受け止めたことでしか、正しくそうなりえないものなのです。
有事によって正義感がいくら鼓舞されても、それが自分のものとなっておらず、他律のままであるとしたら、半年という期間の日々の繰り返しは、そんなものを忘却の彼方に押しやってもおかしくないほどの重圧です。

震災から半年のとしつきが、自分の気持ちをどれだけ変えてしまったかを思い返してみて、反省すべきところがあるのならそれと謙虚に向き合ってほしいと思うのです。

わたしたちは、近くにないもののことを自覚して日々確かめておかない限り、たとえそれがどんなに強く思っていたものでも、徐々に色あせてくるものです。
そのおかげで昔の苦い思い出に生涯ふりまわされずに日々を過ごすこともできるわけですが、それでも、いちど決意したはずの自分の道や譲れないと言ったはずの事柄、大切にすると誓った人への思いまでも、時間の流れが押し流してゆくままにしていてよいものでしょうか。

こう言うと、お前にそんなことを言う資格があるのかと問い詰められそうですが、それでもあえて言いたいのは、「誰かのために何かをできる人間になる」、「一流の道を目指す」、「ある人を愛す」などと「言った」という事実は、そんなに生易しいものではない。そういうことです。

なにかを思っているだけならまだしも、人に向けて言ったり、自分にたいして誓ったりするということは、外ヅラを整えるためにしているのではないのですよ。
声にだそうが出すまいが、ドラマの決め台詞などと絶対に、絶対に比べてはいけないほどの、重みがあるものです。

何に対しての重みか?
それは、自分の価値そのもの、自分にたいする信頼そのものです。

人が一回きりの、カッコつきの、「『自分の人生』を生きよう」という時には、自分が動くきっかけになることが空から降ってくるのを待ったり、人から毎日のように頭をなでられて背中を押されて、手のひらの熱がまだ残っている間にしか頑張れないというような他律に頼り切ることを、自分の歩みでもって断ち切らねばなりません。


震災をすぎること半年のこの日をこそ、ほんとうの意味での「きっかけ」にするというのなら、是非とも噛み締めてほしい、一事です。

革細工の進捗状況

今日は帰宅してから、


ずっと革細工の続きです。
新しく調達した革が硬いもので、加工がたいへんです。

ちゃんとした記事は、明日の朝ごろになると思うので、
楽しみにしてくれている読者のみなさんにはすみませんが、今日は早めに寝ておいてくださいね。

◆追記1◆


髭が生えてきました。

◆追記2◆


耳も生えました。

あとは、注文している金具類がいつ届くのかで完成時期が決まってきますので、別の記事に分けようと思います。
待ち遠しくてたまりません。

しかしこうやって焦らされている時のほうが、各パーツの仕上げがじっくりできる(というか、それをやっている以外にやれることがない)ので、失敗も少なくなるし細かなところにまで気配りがしやすくなります。

アイデアはいったんこれだ、と思ってもすぐに出してしまわずに、何回も眺めてほんとうにそれがふさわしいかどうかを吟味してみると、できあがったときの完成度がやはり違ってきますね。

今回は、ボツにしたアイデアも大量に出てきたので、それでなにか作れそうです。

2011/09/07

観念的な対象化の問題:家庭では仕事の悩みを言うべきか (3)

(2のつづき)


それでも「人の心などお見通しだよ」という人には、こんな問題があります。考えてみてください。

あるとき、あなたは友人の引越の手伝いをすることになりました。
しかしその古いアパートには、エレベーターがありません。

それでも引越し代を浮かせてここまで荷物を運んできたのだから、いまさら業者を呼ぶのももったいないと思い、あなたは友人と重いタンスをかついで階段を上がることにしたのでした。
階段を登り始めてようやく、というときに、上から一人のおばあさんが降りてきました。
おやっと思って立ち止まってみたものの、おばあさんは道を譲ってくれません。
タンスの重みが手に食い込み、こっちが必死なのは見ればわかるのだから、道を開けてくれ、という気持ちがふつふつとこみ上げてきます。
そのことばが喉から出そうになったとき、友人は「道を開けよう」という目配せをしてきました。

なんだか釈然としない気持ちを抱えたままに荷物を運び終え、あなたは友人に、「さっきのは、道を譲ってくれても良さそうなものなのにね。こっちが動くのが難しいことくらい、見てわからなかったのかな」と言いました。
古くからの友人だから、きっと同意してくれると思っていたあなたの思惑とは違い、返ってきた答えはこうでした。

「ぼくもはじめはそう思ったよ。でも、おばあさんがなぜどいてくれないのかと考えてみたら、ひとつのことが引っかかったんだ。
おばあさんが握りしめている手すりのことをね。あのおばあさんは、足が悪かったんだよ。」

◆◆◆

「こっちが大変なことくらい、見てわからないのかな」とは、誰でも心の中でつぶやいたことがあるのではないでしょうか。

そのときに、相手のあり方をよく見て、「ああそういうことか、大変なのは自分だけじゃなかったんだ」と深く反省してはじめて、人とのうまい関係を取り結ぶための第一歩を歩み始めたということになるわけです。

人の意識が直接に頭の中に響くということがありえない以上、わたしたちは誰しも、相手のふるまいやことばを見て聞いて、そこから「なぜこの人はこうしたのだろう?」と考えて、その表現が生まれたところの認識を、逆向きに辿ってみなければなりません。

赤の他人に対してもそういう目的意識が必要であることを考えると、生涯を共にするパートナー同士の関係を考えるときには、「この人はなぜこうしたのだろう?」、「ああ、そういうことか」の繰り返しを互いに意識してみてゆくことこそが、高めあう関係を作ってゆくわけです。

もともとは赤の他人であったはずの男女が夫婦となり、夫婦が互いに尊敬しあって高め合い、かけがえのない関係を気づいてゆくことの構造を見てとって、それを学問の世界では、<量質転化>的な<相互浸透>が起きたのだ、と理解します。

「こっちが大変なことくらい見てわからないのかな」と思うのは、なにも自分だけではありません。


(了)

2011/09/06

観念的な対象化の問題:家庭では仕事の悩みを言うべきか (2)

(1のつづき)


相談する際の表現に着目すると、同じような職場でのイジメ問題を抱えるときにも、感情が堰を切って溢れでるあまり泣きじゃくってパートナーや相談できる相手の胸に飛び込む人もいますし、「うまく話せるかどうかわからないけど、聞いてもらいたいことがあるんだ」と理性的なことわりを入れる人もいます。

かつてわたしが学生からの相談を受けるようになったとき、学生のあいだならまだしも、社会人として数年を経たときには、それなりの成長を遂げるものかと思っていましたが、結果を見ればその見方はどうやら楽観的すぎたこと明らかになりました。
というのは、学生時代に培われたものごとの受け止め方や精神的な抵抗力は、特別のことがない限り、社会に出てもそれほど大きな変わりはないことが経験上であるにしろわかったからです。
そういうわけで、この問題に取り組む必要が出てきたのです。

こういった、一言で言えば「精神力の問題」として片付けられがちな問題は、自分が抱えている問題を内面的にどう扱うかということに加えて、それを相談相手の立場に立ってどう伝えるか、という2つのことがらがありますから、つながりはあってもいちおう切り分けて考える必要があります。

そのありかたに目を向けると、前者は認識における問題であるのにたいして、後者は認識における問題を含みつつも表現における問題に重点があるのですが、本質的な共通点がないわけではありません。

◆◆◆

それが、今回お題として取り上げた「観念的な対象化」という問題です。

この言葉についてことわっておくと、「対象」ということばは、創作における一般的な過程をたどったときの、「対象→認識→表現」という図式にでてきたところの、「対象」と同じものと考えてもらってかまいません。
そこでは、物質的な対象が精神的な認識による反映として受け止められたあとに、今度は物質的な表現となって創作される、という、物質から精神へ、また精神から物質へ、全体としては精神を媒介とした物質のあり方の移り変わりが示されていたのでした。

「そうすると、精神的な存在であるはずの『観念』が、物質的な『対象』になるとは、なにかヘンだな?」と思われたことでしょう。

それでよいのです。
観念的な対象化というのは、アタマの中にあるはずの観念の一部が切り離されて、アタマの中にあるにも関わらず、自分のもつ自由意志とは独立した形になって固定化されることを指すためのことばだからです。

本来的には自分のものであるはずのところを、自分自身によって眺められるというこの矛盾のあり方は、「あれもこれも」と考えることのできない形而上学者にとっては解くことのできない永遠の謎として、絶対的に分裂した自己や、自分の頭の中に神でも入り込んだことのように神秘的に解釈したり、「アポリア」などと洒落た言葉で呼ばれたりもしますが、矛盾を扱う弁証法では、さほどの難点でもありません。

ともあれ、自分が置かれたあり方を、他人を眺めるように扱うこと、一般にいう「客観視」というものは、学問の世界では、その構造をとらえて「観念的な対象化」と呼ぶのです。

◆◆◆

ここまでご説明すると、先ほど述べたような、「自分が抱えている問題を内面的にどう扱うか」、「それを相談相手の立場に立ってどう伝えるか」という、認識と表現それぞれの問題について、理解する糸口が見えはじめてきたのではないかと思います。

みなさんも、人は、自分のことをちゃんと解決できる人のところに悩みを相談しに行くものであることを経験上知っているでしょう。
それが大きな手がかりです。

自分で考えてから答え合わせをしたい人は、以下を読む前に少し考えてみてください。

◆◆◆

実は両者の問題は、自分の抱えている問題について、自分の観念を「対象化」することでは共通しており、違うところといえば、前者は「自分ならばこの状況に対してどういうことが言えるか」と考えており、後者は「あの人ならばこの状況に対してどういうことを言うだろうか」と考えているにすぎないということです。
要すると、対象は違っても、「対象化すること」は共通しているのですね。

後者はさらに、それを実際に見ぶりや手ぶり、口頭での言語表現でどう伝えるかという表現における問題もありますが、表現の前には必ず認識の過程が踏まえられているのが人間というものですから、認識の段階ではこのような似通った構造が現れてくることになります。

ここまで人間の認識がもつ構造を踏まえられるところまで来ると、いわゆる「精神力の問題」、「ストレス耐性の問題」などという事柄を、個人の自然成長的なところに留めておくだけではなくて、「では次に、それをどのように生成させて発展させてゆけるのか」というところまで突っ込んで考えることのできる端緒についた、ということになります。

先ほど手がかりとして述べたとおり、人は悩みを持ったときには、自分のことをうまく整理できてどんなときにも冷静でいられる人間のところに、自然と集まってくるものでしょう。
それは、彼女や彼らが、自分のことも他人のことも、その立場に立ったところでぐっと堪える一方、その問題をどうすれば解消できるかというものごとの見方ができる「観念的な対象化」の実力があるからです。

それから、小さい頃から、ひとりの人物の大きな生きざまを描いた小説に触れてきた経験のある人の中にも、その実力を自然成長的に養ってきている人がいます。
こういう人たちは、いかな逆境にあっても落ち着いて対処し得、非常時こそ頼りにされることを、わたしは間近で見てきました。

◆◆◆

読者のみなさんがこれから、観念的な対象化の実力を伸ばそうと思えば、そういう人たちの相談にのる姿勢や人柄といったものをアタマのなかに思い浮かべて、「この問題に対して、あの人ならどう対処するだろうか」と考えてみることが、二重の意味で良い訓練になります。

ひとつめには、その人の姿勢や人柄そのものから学ぶということと、もうひとつには、他者であるはずの人物の精神のあり方を自分のアタマの中に持とうとする目的意識が働くこと、です。
整理して言えば、前者は具体的・直接的な内容についての学び、後者は観念的な対象化という形式の学びです。

「なんだそんなことか」と思うでしょうか。

学生のみなさんはまだ若いですから、意識さえ強く持てば、こういったことを技として身につかせてゆけるものですが、ある程度の年齢を重ねると、人の認識のあり方を自分のこととして考えてみるということは、非常な努力を強いるものになってきます。
具体的に言えば、二十代を過ぎてしまうと、方向転換はかなり難しいでしょう。

みなさんも、相手を見ずに自分のやり方だけを通そうとする大人を見て、「いい歳してあれではね」、「まるで子どもみたいだな」と思うでしょう。
そういったひとを反面教師として意識的に努力を重ねれば、今からでも十分に、ひとりの人間として尊敬に値する人格を磨いてゆくことができます。

人間の創り上げた社会の本質が、他者との関係を取り結ぶところにあることを思い返せば、学問ではもちろん、良いお母さんになりたい、尊敬される父親になりたい、ビジネスで成功したいというときには、認識論のうち、今回挙げた「観念的な対象化」の実力は、どうしても必要になってくるものです。


(3につづく)

観念的な対象化の問題:家庭では仕事の悩みを言うべきか (1)

「仕事を家庭にまで持ち込むべきではない」


と言われることがありますね。

日本は今でも、主夫よりも主婦のほうがまだまだずっと多いような印象がありますから、これは女性の発言権が増してきた成果だと捉えればよいでしょうか。
しかし職場が生産の場ならば、過程は再生産、つまりエネルギーを充填する場なのですから、これはパートナー同士の力関係がどちらが上かといったような、敵対的な関係で済ましてしまうよりも、家庭という単位でものごとを見て、ともに前進を進めるという協力的な関係を創り上げてゆくことを目指してゆきたいものです。

たしかに、ビジネスの流儀や本音と建前の使い分け、上司の小言ばかりを毎日聞かされていては、どれだけ辛抱強いパートナーでも、それなりに重荷に感じることもあるでしょう。
しかしだからといって、誰かに聞いてほしい悩みごとを、自宅に帰っても誰にも打ち明けることができずに自分だけで抱え込んでしまうのだとしたら、家庭の本来の意味合いが大幅に薄れてしまうことにもなってしまいます。

ところで、家でのふるまい方というものも、ひとつの表現のあり方です。

前回の記事でも、ある表現の作り手と受け手の相互浸透を挙げておいたように、たとえどれほど職場でつかれ果てて帰ってきたときにも、それを聞いてくれるのはほとんどの場合、他ならぬパートナーなのですから、相手が自分の表現を見聞きしたときにどのようなことを思うか、そしてまたそもそも聞いてもらえる状態にあるかどうかの見る目を養っておくべきであるということになりそうです。

これは、夫婦間での相互浸透を、相手からの一方的な努力に任せるのではなくて、つまり自然成長のままにまかせるのではなくて、互いの意識的な工夫によってより進めてゆくことが、円満な関係を作ってゆくためには必要になってくる、ということでもあります。

◆◆◆

これは書き言葉でまとめているので、ずいぶん理性的な方向に振れていますが、家庭の中で感情を交えた話し言葉でこういう構造を備えた話になったときに、相手の話している内容を知識的に読み取ってしまう人の場合は、「悩みごとは包み隠さず言うべきだ」と言ったかと思えば、「悩みごとを言う時にはそれを聞く相手のことを考えろ」などというところばかりを気にしてしまい、矛盾したことを言いやがって、という感情的な反発が大きくなってきて、「お前の言いたいことは一体何だ?」と拒否の姿勢を前面に押し出してしまうことがあります。

この傾向はどうしても、家庭とその周囲での限られた環境で生きている「家で待つ側」よりも、外に出て家計を支える側のほうに、強く出ることになってゆきます。

ビジネスでは、「要件はシンプルに」と言いますし、事実的な知識だけのやりとりを目的としたショートメールやTwitterでは文字数の制限が厳しいこともあってまともな議論などというものはやりにくいですし、そもそも調和のとれた意見などというもの自体が求められにくいのですから、会社組織のありかたに自分の人間性や価値観ごと委ねてしまうような場合には、その傾向はとどまるところを知らぬものとなってゆきます。

◆◆◆

もしこういうときに、「矛盾がある」ということに気づいたならば、正しい理解までにはもう一歩というところなので、非常に残念なところで物別れの種を作ってしまっているのです。
矛盾が生じていることにすら気づかないのなら、問題が問題として浮上しないままに、二人の関係に大きな傷跡を残すことになってしまうだけですからね。
過程が積み重なって結果として現れたときに「なぜ、どうして!?自分は悪くないはずなのに…」となるのがこのパターンですが、これは誰にとっても手痛い経験でしょう。

さてあなたが矛盾に気づいたとして考えを進めるとして…そうですね、たとえば、「悩みごと」に関する問題が生じたときのことを考えてみましょうか。


あなたは職場で、誰にも言えない悩みごとがあり、うかぬ顔で帰路につきました。
電車の中でゆられているときに、そのことをパートナーに言おうか、言うまいかと悩んでいます。

「あの人にも心配を掛けたくないし、自分が我慢して済むのならそうしようか。
でもひとり我慢が限界にきて、気持ちが完全に参ってしまうことにでもなれば、かえって家族を困らせることにもなりそうだ――」

いざ自宅の玄関に着いたときにも、その答えは出ませんでした。


こういうときに、精神上の問題の大きさに引きずられて、「言うか」、「言うまいか」と「あれかこれか」で考えるところに、矛盾が生じるのでした。
しかし問題のあり方を少し整理して、そもそもの問題は精神的なところにあるのであれば、その問題を「どのような形で」相談相手に伝えるのか、という「表現」を工夫できるという面もあることが、わかってくるわけです。


(2につづく)

2011/09/05

どうでもいい雑記:台風のあと

台風でしたね。



外の様子がどんなふうなのか気になったので、研究に行く前にちょっと寄り道をして、雨の中を自転車で走ってきました。

横ぶりの雨と風に打ち付けられて転びそうになったので、途中から押して歩きました。

◆◆◆

上の写真は、iPhoneのアプリケーション"Autostich"で、タテに7枚写した写真をつなぎあわせたものです。
同じ場所に立って撮ったものをつないでいるので、平行線がぐにゃりと曲がっていますけれども、最近はなんとも便利なものがあるものです。

コンピューターの中にも、人間の持つ「認識」の働きを模倣した機能が搭載されているのを見ると、ワクワクしてきます。
もっとも、実装された機能がもたらした作業結果と、人間の表現が同等のものに見えたとしても、本質的なところまでも再現できたと考えてはいけないのですが。

人工知能が自ら発展するところまで進んでゆくには、細かな人間の表現ではなくて、その土台となっている過程、つまり認識の構造を大まかにでも抑えておくことが不可欠です。


さて、この場所はといえば、行きつけの川の河川敷ですが、ふだん渡れるはずの足場が、水の流れにどっぷり浸かってしまっています。

このおかげで、寄り道がちょっとどころではなくなってしまいました。

◆◆◆


それにしても台風のあとの空気は、すっきりしていて気持ち良いですね。

わたしはこういう自然の大きな力を身近で見たり感じたりすると、自分が大きなところのなかの、ちっぽけな一粒の泡のようなものだということをしみじみと感じ入らされて、なんだか遥かな心持ちになります。

人はこういうところを異様に感じるようで、わたしのことをハメツ主義者だとか言ったりもします(もちろん半分は冗談ですよ、半分は)が、夏にはクーラーを、冬には暖房をガンガンに効かせているような屋内で毎日を過ごしているような人間に、自然のあり方の本質がうまく捕まえられるとは、とても思えません。

生物の代謝というものを人間を中心において考えたときには、摂取と排泄がありますけれども、どちらが欠けてもいけないのです。

外部から自分でないものを取り入れ、外部へと自分でなくなったものを出すという環境との相互作用によって、人間は生かし、生かされています。

これはいうなれば、環境と自分とのせめぎあいの中で、自らのありうる位置と境界を確保し続けるという不断の活動の中に、生きるということの本質があるということでしょう。

だからわたしにとっては、冬の寒い中でも、袖をまくってちゃんと寒さを感じていなければ、かえって落ち着きません。

夏は暑いもので、冬には厳しい寒さがあるものです。
ずっと屋内に居る人は、それをことばの上でしか、知ることができなくなっているのではないでしょうか。

◆◆◆

形而上学的に、「生とは何か」と考えてみても、現実を正しく理解することができないのは、完全な生などというものは、考えれば考えるほどに死そのものであることが知れてゆくからであって、考え方そのものが間違っているのならば、正しい結論にたどり着くことがどだい無理なのです。

横ぶりの雨に打たれたり、大風で傘を飛ばされたりしてみれば、自然とそんな考え方が間違いであることに、身をもって気付かされます。

2011/09/03

本日の更新は、

まだ帰宅していないので日が変わってからになりそうです。
大型の台風のわりに雨も風もそれほどひどくないですね、なんとか帰れそうです。

2011/09/02

このBlogにまつわるご質問への解答

連絡先を変えました。


といっても、メールアドレスだけですけれども。

この前、Blogの右端に載せている自己紹介についてつっこまれて、
こんな欄があったことを今更ながら確認しました。

そのついでに、メールアドレスをあたらしいものに変えておいたので、
これからこのBlogの内容について質問なんかがある場合には、
(at)の部分を@に書き換えてメールしてきてくださいな。

◆◆◆

わたしはどうも、どんな些細な言葉にもなにやら怪しげな意味を込めている人物だと思われているようで、「トップの画像にはどんな意味が?」とか、「敬体と常体を使い分けているのはなぜですか?」とかいうご質問をいただくことがありますが、あんまり大した意味はありません。

ただ、そういう細かなことばの使い方を熱心に見てもらえるのは嬉しいことですし、論理について突き詰めてゆけばゆくほどに、概念の扱い方はいくら注意してもし足りないほどの繊細さが要求されるので、「行間を読む」という着眼点は大事にしてください。
ただし、本質的でない言葉尻をつかまえて、表現者の意図しないところにまで感心しまくるという「蒟蒻問答」にならないように、どこまでか本質的な表現であるかも、同じように注意してみておいてくださいね。

◆◆◆

そう断った上で上の質問についてすこしお答えしておくことにすると、トップの画像は、文中のお題と関連していたり、例えで引いた動物の画像を、インターネットで拾ってきて載せています。

ただ、クジラの喩えをした記事にクジラのトップ絵を使うという直接的な表現ならば読者にもわかりやすいですが、ペンギンに似た友人のことを書いたときにトップ絵をペンギンにされたとしても、読者には伝わりません。

ある表現の作り手は、物質的な対象から得たところの精神的な認識をもとにして、物質的な表現として記すのでしたね。(「対象→認識→表現」)
その表現の受け手は、表現をみることをとおして、作り手の認識を自分の頭の中に描こうとします。
それが成されたときに、作り手の人格が頭の中に捉え返されることになり、当人に感動を生むというわけです。

通常の場合の表現ならば表現者は受け手のことを考えて、彼女や彼らにわかりやすいように、あまりにも常識からかけ離れた表現は用いません。
ここでは表現者が表現を見る受け手の認識のあり方を逆側に捉え返して、それを創作活動に活かすことによって、作り手と受け手のあいだに相互浸透が起こるということです。

しかしわたしの場合は、受け手の認識のあり方を考慮していることは変わりありませんが、自分はわかっていてもあなたがた読者のほとんどには直接わからないであろう表現をこっそり忍び込ませているのですから、これは<調和する矛盾>、<非敵対的矛盾>を意図的に創り上げているということなのですね。(弁証法が<矛盾>に着目せよ、と教える理由がわかるでしょうか。<矛盾>が存在するからといって、どちらかが消滅するまで闘争せねばならないという考え方は、誤りです。)

これは暗号文や、映画の中でマフィアのボスが、組織内部の人間にしかわからない隠語で部下に「例のブツは届いたか?」、「処置しておけ」と命令したりするのと同じです。
暗号を読み解ける者にとっては、原文から暗号文を媒介とした原文への復帰が行われていますから、ひとつの否定の否定の構造を持っています。

◆◆◆

なんだか長くなってしまいますね。

これだと、「あんまり大した意味はな」くも「ない」、ということになってしまうでしょうか。
しかし身についた技を説明するというのは、どんな場合にでもこういうことなのであしからず。
読者のみなさんにも、同じだけの技を身につけていってほしいと思います。

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さて次の質問ですが、敬体と常体の使い分けについては、最近はあたらしい読者が物怖じしないように配慮して、「ですます」調を多くしている、というのが表面上の理由です。

ただそれでも、適材適所ということに変わりはありません。

しかしあなたがもし、この質問を、以前にはよくわたしが書いていたような、
「書き出しは敬体、本論は常体、オチは敬体」
という表現を用いた文章を見て出したのなら、すごいことです。
(これはお世辞ではありませんから、もしぼんやりでも気づいていたのだとしたら、あとでこっそり教えてください。わたしは飛び上がって喜びます。)

この場合には、論文を評論が包みこむような構造をとっており、砕けた言い回しで導入したうえで、本論では一般論を具体論に適用したのちに、評論的に皮肉や自戒の念を込めて締める、という形を意図的に組み込んでいます。

三浦つとむ先生が『認識と言語の理論』の第二部で、大衆向けに書かれた弁証法的唯物論の入門書である『フォイエルバッハ論』(エンゲルス著)を例に引きながら説明していたと思いますので、気になる方は読んでみてください。

ここでの「評論」というのは、現代の日本人がやっているような、自然成長的な思想を世界のあり方に押し付けて解釈しまくるというものではなくて、大衆にも読みやすい表現をとった論文、といった位置づけのものなので、注意が必要です。

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それから最後に、わたしの自己紹介のところに、タバコや都会が嫌いだと書いてありますが、これには(今度はほんとに)深い意味はなくて、感性的に好きになれない、というだけのことです。

人混みに突っ込んでゆくと頭が痛くなるだとか、シンガポール人の友人たちと懇意にしていたときに、彼女や彼らがあからさまにタバコの煙を嫌がるもので、わたしも正直に嫌がってみてもいいかと思っただけだとか、そんなことにすぎません。

読者のみなさんには、概念や人の趣味なんかをほじくりまわるのはたいがいにして、その表現者が全体としてどのような世界観や論理性を持っているのかに目を向けてもらいたいと思います。

本に書かれた概念「だけ」とにらめっこしていても、それは体系としての概念規定の結果だけを自分のレベルに引き下げて辞書的に丸暗記しただけにすぎず、本質的な世界についての理解にはまるっきりつながってゆきませんからね。

「師を見るな、師の見ているものを見よ」、です。


さてここまでの文章は、どういう構成になっていたでしょうか?

2011/09/01

更新時間が変わるかもしれません


今日から9月ですね。


秋は窓を開けっ広げにして、山の彩りを眺めて気持ちのいい風を受けながら原稿を書けるので、とても好きな季節です。

あたらしいことをはじめようと思う場合には、こういった季節の節目をうまく使うと励みになりますから、決意新たに一歩ずつ前に進んでゆきたいものです。


さて、以前からの読者の方は、さっきの記事が朝の6時という変則的な時間に公開されたことに気づかれたかもしれません。

わたしはいつも、朝早めに起きて基礎的な修練と研究をしたあとに仕事をして、
夜にはまた別の基礎的な修練と指導をしたあとに就寝、
という生活パターンを送ってきたのですが、これが難しくなりそうです。

というのは、と理由を説明すると、「なんだそんなことか」と言われることかもしれませんが、最近の交通マナーがあまりに悪くなっているように思われるからです。

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これまでランニングをはじめとした基礎修練は帰宅後に行っていました。
そうしようとすると必然的に、22時前後に自転車を使ってランニングコースまで行って走ることになるわけですが、その移動がこのところ、やたらと危ないのです。

赤色テールランプを前につけて走っていたり、携帯電話でメールを打ちながらハンドルに肘をついての走行や、市街地をまったく速度を落とさずにコーナリングするような自転車とは、これはぶつかっても当然というべきです。

わたしは学者として、学問と後進のためなら生命は惜しくありませんから、友人に絶交されても医者に怒鳴られてもいざというときにはやるべきことをやれる覚悟は日々自らに問うていますが、そうであればあるほどに、本質的でないところで犬死にするわけには参りません。

わたしが自転車ツアーの師とした友人は、いちど事故にあって以来、必要以上にスピードはださないばかりか、注意を注意を重ねて認識しうる限りの安全を確保した後に走行していることが、その背中を見ていてとてもよく読み取れる人でした。

そのことをとおして、自転車の旅は、たしかな認識の、論理的な積み重ねであると身に染みて教わったのですが、そんな人でもやはり、すべての事故を免れることができるかというと、そんなことはないのです。

自転車での移動のあと、五体満足で帰ってきたことがただちに、その過程でのふるまい方が正しかったことを意味するわけではありません。
事故に遭わなくても危ない走行もありますし、いくら注意をしても事故に遭ってしまうこともあります。

ただ100%事故を防ぎきることはできないとしても、そこまで高まるように心がけての運転をしなければならないとともに、危ういところへは用がない限り近づかないようにしなくてはなりません。

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ではどうすればよいかと考えたときに、やはりこれは、自ら進んで身を引くほかなさそうだ、ということになりました。

そういうわけでこのところ、基礎的な修練の時間を前後させて、とくに移動の必要なランニングをどこに持ってくるかを試行錯誤しているのですけれども、朝の4:30すぎになら自転車で移動しても、交通量が極端に少ないために根本的なやりかたで危険を避けることができることがわかってきました。

朝早くに起きる、といっても、まさか日が変わってすぐの頃に起きるわけにもゆきませんから、このあたりが妥当なような気がしています。
いつもの時間にランニングをしている人たちの間で、無言の意思の疎通が行われていることを思い返せば、数年の蓄積がすこし名残り惜しくもありますが、やはり生命には代えられません。
(この記事とは直接関係のない話ですが、認識論が必要な学生さん、社会人のみなさん、「無言の意思の疎通」とはどういう内実を指しているかわかりますか?考えてみてください。ヒント:「以心伝心」などというものはあり得ない、という原則はこの場合にも揺らぎません。)

それほどに、今の交通のあり方はあまりに危なすぎます。

とはいえ、生活をどう変えるかというのは、ひとつの道を目指す人間にとっての土台そのものに手を入れるということであり、相当に大きなテーマです。

これまで積極的な意味があってわたしのところを尋ねる学生に、「まず生活を整えなさい」と言わずにすんだことはありません。
習慣というものは、それが自分でどれほど良くないものだとわかってはいても、それを変えて、さらには維持することには多大なエネルギーが必要なものなのです。

わたしも、彼女や彼らが習慣を変えることにとても苦心しているのを近くで見てきているので、これが我が身のことになるとなると、少なからぬ物怖じする気持ちがあり、それなりの時間をかけて創り上げてきた生活のあり方を捨てることへの逡巡があるものです。

ともあれ、やることに決めたからには失敗か成功かがはっきりとわかるまで、実験あるのみです。

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読者のみなさんにとっては、ここでの記事の更新時間が定まらずにやきもきさせてしまうかもしれませんが、そのような事情がありますゆえお含みおきくだされば嬉しく思います。