「仕事を家庭にまで持ち込むべきではない」
と言われることがありますね。
日本は今でも、主夫よりも主婦のほうがまだまだずっと多いような印象がありますから、これは女性の発言権が増してきた成果だと捉えればよいでしょうか。
しかし職場が生産の場ならば、過程は再生産、つまりエネルギーを充填する場なのですから、これはパートナー同士の力関係がどちらが上かといったような、敵対的な関係で済ましてしまうよりも、家庭という単位でものごとを見て、ともに前進を進めるという協力的な関係を創り上げてゆくことを目指してゆきたいものです。
たしかに、ビジネスの流儀や本音と建前の使い分け、上司の小言ばかりを毎日聞かされていては、どれだけ辛抱強いパートナーでも、それなりに重荷に感じることもあるでしょう。
しかしだからといって、誰かに聞いてほしい悩みごとを、自宅に帰っても誰にも打ち明けることができずに自分だけで抱え込んでしまうのだとしたら、家庭の本来の意味合いが大幅に薄れてしまうことにもなってしまいます。
ところで、家でのふるまい方というものも、ひとつの表現のあり方です。
前回の記事でも、ある表現の作り手と受け手の相互浸透を挙げておいたように、たとえどれほど職場でつかれ果てて帰ってきたときにも、それを聞いてくれるのはほとんどの場合、他ならぬパートナーなのですから、相手が自分の表現を見聞きしたときにどのようなことを思うか、そしてまたそもそも聞いてもらえる状態にあるかどうかの見る目を養っておくべきであるということになりそうです。
これは、夫婦間での相互浸透を、相手からの一方的な努力に任せるのではなくて、つまり自然成長のままにまかせるのではなくて、互いの意識的な工夫によってより進めてゆくことが、円満な関係を作ってゆくためには必要になってくる、ということでもあります。
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これは書き言葉でまとめているので、ずいぶん理性的な方向に振れていますが、家庭の中で感情を交えた話し言葉でこういう構造を備えた話になったときに、相手の話している内容を知識的に読み取ってしまう人の場合は、「悩みごとは包み隠さず言うべきだ」と言ったかと思えば、「悩みごとを言う時にはそれを聞く相手のことを考えろ」などというところばかりを気にしてしまい、矛盾したことを言いやがって、という感情的な反発が大きくなってきて、「お前の言いたいことは一体何だ?」と拒否の姿勢を前面に押し出してしまうことがあります。
この傾向はどうしても、家庭とその周囲での限られた環境で生きている「家で待つ側」よりも、外に出て家計を支える側のほうに、強く出ることになってゆきます。
ビジネスでは、「要件はシンプルに」と言いますし、事実的な知識だけのやりとりを目的としたショートメールやTwitterでは文字数の制限が厳しいこともあってまともな議論などというものはやりにくいですし、そもそも調和のとれた意見などというもの自体が求められにくいのですから、会社組織のありかたに自分の人間性や価値観ごと委ねてしまうような場合には、その傾向はとどまるところを知らぬものとなってゆきます。
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もしこういうときに、「矛盾がある」ということに気づいたならば、正しい理解までにはもう一歩というところなので、非常に残念なところで物別れの種を作ってしまっているのです。
矛盾が生じていることにすら気づかないのなら、問題が問題として浮上しないままに、二人の関係に大きな傷跡を残すことになってしまうだけですからね。
過程が積み重なって結果として現れたときに「なぜ、どうして!?自分は悪くないはずなのに…」となるのがこのパターンですが、これは誰にとっても手痛い経験でしょう。
さてあなたが矛盾に気づいたとして考えを進めるとして…そうですね、たとえば、「悩みごと」に関する問題が生じたときのことを考えてみましょうか。
あなたは職場で、誰にも言えない悩みごとがあり、うかぬ顔で帰路につきました。
電車の中でゆられているときに、そのことをパートナーに言おうか、言うまいかと悩んでいます。
「あの人にも心配を掛けたくないし、自分が我慢して済むのならそうしようか。
でもひとり我慢が限界にきて、気持ちが完全に参ってしまうことにでもなれば、かえって家族を困らせることにもなりそうだ――」
いざ自宅の玄関に着いたときにも、その答えは出ませんでした。
こういうときに、精神上の問題の大きさに引きずられて、「言うか」、「言うまいか」と「あれかこれか」で考えるところに、矛盾が生じるのでした。
しかし問題のあり方を少し整理して、そもそもの問題は精神的なところにあるのであれば、その問題を「どのような形で」相談相手に伝えるのか、という「表現」を工夫できるという面もあることが、わかってくるわけです。
(2につづく)
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