(1のつづき)
相談する際の表現に着目すると、同じような職場でのイジメ問題を抱えるときにも、感情が堰を切って溢れでるあまり泣きじゃくってパートナーや相談できる相手の胸に飛び込む人もいますし、「うまく話せるかどうかわからないけど、聞いてもらいたいことがあるんだ」と理性的なことわりを入れる人もいます。
かつてわたしが学生からの相談を受けるようになったとき、学生のあいだならまだしも、社会人として数年を経たときには、それなりの成長を遂げるものかと思っていましたが、結果を見ればその見方はどうやら楽観的すぎたこと明らかになりました。
というのは、学生時代に培われたものごとの受け止め方や精神的な抵抗力は、特別のことがない限り、社会に出てもそれほど大きな変わりはないことが経験上であるにしろわかったからです。
そういうわけで、この問題に取り組む必要が出てきたのです。
こういった、一言で言えば「精神力の問題」として片付けられがちな問題は、自分が抱えている問題を内面的にどう扱うかということに加えて、それを相談相手の立場に立ってどう伝えるか、という2つのことがらがありますから、つながりはあってもいちおう切り分けて考える必要があります。
そのありかたに目を向けると、前者は認識における問題であるのにたいして、後者は認識における問題を含みつつも表現における問題に重点があるのですが、本質的な共通点がないわけではありません。
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それが、今回お題として取り上げた「観念的な対象化」という問題です。
この言葉についてことわっておくと、「対象」ということばは、創作における一般的な過程をたどったときの、「対象→認識→表現」という図式にでてきたところの、「対象」と同じものと考えてもらってかまいません。
そこでは、物質的な対象が精神的な認識による反映として受け止められたあとに、今度は物質的な表現となって創作される、という、物質から精神へ、また精神から物質へ、全体としては精神を媒介とした物質のあり方の移り変わりが示されていたのでした。
「そうすると、精神的な存在であるはずの『観念』が、物質的な『対象』になるとは、なにかヘンだな?」と思われたことでしょう。
それでよいのです。
観念的な対象化というのは、アタマの中にあるはずの観念の一部が切り離されて、アタマの中にあるにも関わらず、自分のもつ自由意志とは独立した形になって固定化されることを指すためのことばだからです。
本来的には自分のものであるはずのところを、自分自身によって眺められるというこの矛盾のあり方は、「あれもこれも」と考えることのできない形而上学者にとっては解くことのできない永遠の謎として、絶対的に分裂した自己や、自分の頭の中に神でも入り込んだことのように神秘的に解釈したり、「アポリア」などと洒落た言葉で呼ばれたりもしますが、矛盾を扱う弁証法では、さほどの難点でもありません。
ともあれ、自分が置かれたあり方を、他人を眺めるように扱うこと、一般にいう「客観視」というものは、学問の世界では、その構造をとらえて「観念的な対象化」と呼ぶのです。
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ここまでご説明すると、先ほど述べたような、「自分が抱えている問題を内面的にどう扱うか」、「それを相談相手の立場に立ってどう伝えるか」という、認識と表現それぞれの問題について、理解する糸口が見えはじめてきたのではないかと思います。
みなさんも、人は、自分のことをちゃんと解決できる人のところに悩みを相談しに行くものであることを経験上知っているでしょう。
それが大きな手がかりです。
自分で考えてから答え合わせをしたい人は、以下を読む前に少し考えてみてください。
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実は両者の問題は、自分の抱えている問題について、自分の観念を「対象化」することでは共通しており、違うところといえば、前者は「自分ならばこの状況に対してどういうことが言えるか」と考えており、後者は「あの人ならばこの状況に対してどういうことを言うだろうか」と考えているにすぎないということです。
要すると、対象は違っても、「対象化すること」は共通しているのですね。
後者はさらに、それを実際に見ぶりや手ぶり、口頭での言語表現でどう伝えるかという表現における問題もありますが、表現の前には必ず認識の過程が踏まえられているのが人間というものですから、認識の段階ではこのような似通った構造が現れてくることになります。
ここまで人間の認識がもつ構造を踏まえられるところまで来ると、いわゆる「精神力の問題」、「ストレス耐性の問題」などという事柄を、個人の自然成長的なところに留めておくだけではなくて、「では次に、それをどのように生成させて発展させてゆけるのか」というところまで突っ込んで考えることのできる端緒についた、ということになります。
先ほど手がかりとして述べたとおり、人は悩みを持ったときには、自分のことをうまく整理できてどんなときにも冷静でいられる人間のところに、自然と集まってくるものでしょう。
それは、彼女や彼らが、自分のことも他人のことも、その立場に立ったところでぐっと堪える一方、その問題をどうすれば解消できるかというものごとの見方ができる「観念的な対象化」の実力があるからです。
それから、小さい頃から、ひとりの人物の大きな生きざまを描いた小説に触れてきた経験のある人の中にも、その実力を自然成長的に養ってきている人がいます。
こういう人たちは、いかな逆境にあっても落ち着いて対処し得、非常時こそ頼りにされることを、わたしは間近で見てきました。
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読者のみなさんがこれから、観念的な対象化の実力を伸ばそうと思えば、そういう人たちの相談にのる姿勢や人柄といったものをアタマのなかに思い浮かべて、「この問題に対して、あの人ならどう対処するだろうか」と考えてみることが、二重の意味で良い訓練になります。
ひとつめには、その人の姿勢や人柄そのものから学ぶということと、もうひとつには、他者であるはずの人物の精神のあり方を自分のアタマの中に持とうとする目的意識が働くこと、です。
整理して言えば、前者は具体的・直接的な内容についての学び、後者は観念的な対象化という形式の学びです。
「なんだそんなことか」と思うでしょうか。
学生のみなさんはまだ若いですから、意識さえ強く持てば、こういったことを技として身につかせてゆけるものですが、ある程度の年齢を重ねると、人の認識のあり方を自分のこととして考えてみるということは、非常な努力を強いるものになってきます。
具体的に言えば、二十代を過ぎてしまうと、方向転換はかなり難しいでしょう。
みなさんも、相手を見ずに自分のやり方だけを通そうとする大人を見て、「いい歳してあれではね」、「まるで子どもみたいだな」と思うでしょう。
そういったひとを反面教師として意識的に努力を重ねれば、今からでも十分に、ひとりの人間として尊敬に値する人格を磨いてゆくことができます。
人間の創り上げた社会の本質が、他者との関係を取り結ぶところにあることを思い返せば、学問ではもちろん、良いお母さんになりたい、尊敬される父親になりたい、ビジネスで成功したいというときには、認識論のうち、今回挙げた「観念的な対象化」の実力は、どうしても必要になってくるものです。
(3につづく)
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