2011/09/24

「本を読む」とはどういうことか (3)

(2のつづき)


前回の終わりでは、「本は一読してわからなければならないか」という問題について、出隆の『哲学以前』を例に引いて考えてもらうことにしたのでした。

もう一度引用しておきましょう。

ひとつに、
それは、そのままの主客未剖の常体を否定し客観化して、われわれに客観界を与える諸原理として働くとともに、さらに与えられた客観界を種々に統一して対象界(種々の世界)を構成する原理である。

ふたつめに、
否定されることがわれわれ啓蒙的教師の任務完成である。

どうですか。
一読しただけでなんとなくでも像を結べて、さらにこれは読んでみたい!と強い意志がふつふつとこみ上げてくるところにまで到達できたでしょうか?
「バカを抜かすな、こんな一部の書き抜きだけで何がわかるか!」という人もおられるでしょうが、あらかじめの問題意識が整っている場合には、カント観念論の影響で読みにくい前文はともかく、後者の断言などは小さくない印象を残すものです。

◆◆◆

彼がこの本を書いたのは、『哲学以前』というタイトルからしてもわかるとおり、読者を自ら考えることへと導くことを意図していたからです。
そのような場合には、筆者は読者にとって啓蒙をしていることになるわけですが、この箇所で、彼はこう啓蒙しているのです。

「私の言っていることが理解できたのなら、その証拠に、さああなたの今読んでいるこの本を閉じるがいい。そうして、歴史上に名を残している古典中の古典に向きあたって、それを乗り越えんとするがいい。その姿勢こそが、私の意図したところのものである。」

自らが踏み台となって後進を導かんとするこの思いが伝わってくるでしょうか。

もしこの一文を読んだ時、その文脈が完全にわからなかったとしても、「ここにはなにかすごいことが書いてある!」という感覚があるものです。
わたしはこの本を買ってきて、食事の前に待ちきれなくなってペラペラとめくってみてこの一文が目に飛び込んできたときには、頬を引っぱたかれたような衝撃がありました。
しかしほとんどの方は、そんなことはないでしょう。それが、現代の読者のあり方です。

ところでこの本は、年号が昭和になるころ、当時の高校生がむさぼり読んだと言われる教養書です。
いかに当時の学生が、これからの時代の礎となるための志に燃えていたかがわかるでしょう。
いくら寿命が伸びているからといって、現代の大学生が同じ感想を持たなくてよいことにはならない、そう思えませんか。

◆◆◆

もし読者のみなさんがこういった意気盛んな若者たちが今の日本を創り上げてきたのだと知って、それに比べれば今の自分はなんと自堕落なのだ、そう反省したとしてお話ししましょう。

そのとき自分の選んだ道のうえで、ひとところの位置を占める人物になりたいと決意したのなら、その道を以前に歩いて創り上げてきた人物が、自分と同じ年齢のころ、どんな下積みをしてきたのかが気にならないわけはありません。

音楽家を志すなら、ベートーヴェンはいくつで音を失ったか?手記にはなんと書かれているか?
武道家を目指すなら、宮本武蔵はどんな修行過程を持ったのか?いつ名を上げどのような晩年を送ったのか?
画家の道を歩むのなら、ピカソは若い頃にどういう議論を闘わせていたのか?転機はいつ訪れたのか?
学者の生き方を貫きたいのなら、カントが初期になぜ宇宙論を展開したのか?それは後の哲学にどう関連したのか?

そういったことを自分の年齢と照らし合わせているのであれば、焦らないはずがないではありませんか。
真剣勝負をしている相手は、掛け値なしの大天才たちなのですよ。
大天才が失意のどん底にあって、「私もこの歳だ、決意を固めねばならない」と言っているのですよ。
仮にも一流を目指しているなら、恐ろしいほどの焦燥にかられて当然です。
ニュートンのような人物ともなれば、「ヨーロッパのニュートン様」と書けば、本人のところに手紙が届いたほどなのですから。

◆◆◆

誰にとってもそのはずですが、本道を定めたといいながら「いつか、いつかは」とばかりに真剣に取り組むことを先延ばしにしているような人のことを、とてもではありませんが信用する気にはならないものでしょう。

いまは長寿だからいつかは、と安心してしまうのかもしれません。
たしかに現代という時代を昔と比べれば、障害を持っても保護できるほど豊かですし、だらだら生きていても食うには困りませんし、鍛えねば歩けないような下駄も履く必要がありませんしそれに、一筆に集中しなくともやり直しの効く絵画ツールもある、というあらゆる優位がありますね。

しかしその優位を、手放しで礼賛していてもよいのでしょうか。
道具や環境による優位は、ある不足を乗り越えるためにそう整えられてきたものですが、それを整えてきたのはかつての人類なのであって、それを享受する当人ではないことは少し振り返って考えてみても良いことです。
便利な道具が近道を提供してくれるのなら、その過程にはいったいなにがあったのか?
なにを、「努力せずに乗り越えさせられてしまっているのか」?

たとえば現代の剣術で、宮本武蔵ほどの達人が現れない理由を考えてみるときに、相手を死に至らしめる武具を用いての斬り合いが行われないという目に見える事実のほかに、現代人が下駄も履かず、木登りもせず野犬にも噛まれず、喧嘩どころか転んで擦りむく前に親に守られ、一日中クーラーの効いた部屋で昼まで寝ていることができ、蚊に刺されたら薬はどこかと騒ぎ、20歳を迎えるまで半人前扱いされるという、生活そのもののありかたにもちゃんと目を向けねばなりません。

宮本武蔵の残した本の中には、彼にとっての当然の環境は特別に記されることはなかったのですから、現代に生きる我々が彼の修行・修業内容を捉え返すのであるなら、彼の著作だけに向き当たるのではなくて、当時の生活のあり方そのものをも究明した上で、彼の生き方をなぞらえてゆくのでなければ、本当の意味で切磋琢磨したことにはならないのです。


(4につづく)

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