2011/09/02

このBlogにまつわるご質問への解答

連絡先を変えました。


といっても、メールアドレスだけですけれども。

この前、Blogの右端に載せている自己紹介についてつっこまれて、
こんな欄があったことを今更ながら確認しました。

そのついでに、メールアドレスをあたらしいものに変えておいたので、
これからこのBlogの内容について質問なんかがある場合には、
(at)の部分を@に書き換えてメールしてきてくださいな。

◆◆◆

わたしはどうも、どんな些細な言葉にもなにやら怪しげな意味を込めている人物だと思われているようで、「トップの画像にはどんな意味が?」とか、「敬体と常体を使い分けているのはなぜですか?」とかいうご質問をいただくことがありますが、あんまり大した意味はありません。

ただ、そういう細かなことばの使い方を熱心に見てもらえるのは嬉しいことですし、論理について突き詰めてゆけばゆくほどに、概念の扱い方はいくら注意してもし足りないほどの繊細さが要求されるので、「行間を読む」という着眼点は大事にしてください。
ただし、本質的でない言葉尻をつかまえて、表現者の意図しないところにまで感心しまくるという「蒟蒻問答」にならないように、どこまでか本質的な表現であるかも、同じように注意してみておいてくださいね。

◆◆◆

そう断った上で上の質問についてすこしお答えしておくことにすると、トップの画像は、文中のお題と関連していたり、例えで引いた動物の画像を、インターネットで拾ってきて載せています。

ただ、クジラの喩えをした記事にクジラのトップ絵を使うという直接的な表現ならば読者にもわかりやすいですが、ペンギンに似た友人のことを書いたときにトップ絵をペンギンにされたとしても、読者には伝わりません。

ある表現の作り手は、物質的な対象から得たところの精神的な認識をもとにして、物質的な表現として記すのでしたね。(「対象→認識→表現」)
その表現の受け手は、表現をみることをとおして、作り手の認識を自分の頭の中に描こうとします。
それが成されたときに、作り手の人格が頭の中に捉え返されることになり、当人に感動を生むというわけです。

通常の場合の表現ならば表現者は受け手のことを考えて、彼女や彼らにわかりやすいように、あまりにも常識からかけ離れた表現は用いません。
ここでは表現者が表現を見る受け手の認識のあり方を逆側に捉え返して、それを創作活動に活かすことによって、作り手と受け手のあいだに相互浸透が起こるということです。

しかしわたしの場合は、受け手の認識のあり方を考慮していることは変わりありませんが、自分はわかっていてもあなたがた読者のほとんどには直接わからないであろう表現をこっそり忍び込ませているのですから、これは<調和する矛盾>、<非敵対的矛盾>を意図的に創り上げているということなのですね。(弁証法が<矛盾>に着目せよ、と教える理由がわかるでしょうか。<矛盾>が存在するからといって、どちらかが消滅するまで闘争せねばならないという考え方は、誤りです。)

これは暗号文や、映画の中でマフィアのボスが、組織内部の人間にしかわからない隠語で部下に「例のブツは届いたか?」、「処置しておけ」と命令したりするのと同じです。
暗号を読み解ける者にとっては、原文から暗号文を媒介とした原文への復帰が行われていますから、ひとつの否定の否定の構造を持っています。

◆◆◆

なんだか長くなってしまいますね。

これだと、「あんまり大した意味はな」くも「ない」、ということになってしまうでしょうか。
しかし身についた技を説明するというのは、どんな場合にでもこういうことなのであしからず。
読者のみなさんにも、同じだけの技を身につけていってほしいと思います。

◆◆◆

さて次の質問ですが、敬体と常体の使い分けについては、最近はあたらしい読者が物怖じしないように配慮して、「ですます」調を多くしている、というのが表面上の理由です。

ただそれでも、適材適所ということに変わりはありません。

しかしあなたがもし、この質問を、以前にはよくわたしが書いていたような、
「書き出しは敬体、本論は常体、オチは敬体」
という表現を用いた文章を見て出したのなら、すごいことです。
(これはお世辞ではありませんから、もしぼんやりでも気づいていたのだとしたら、あとでこっそり教えてください。わたしは飛び上がって喜びます。)

この場合には、論文を評論が包みこむような構造をとっており、砕けた言い回しで導入したうえで、本論では一般論を具体論に適用したのちに、評論的に皮肉や自戒の念を込めて締める、という形を意図的に組み込んでいます。

三浦つとむ先生が『認識と言語の理論』の第二部で、大衆向けに書かれた弁証法的唯物論の入門書である『フォイエルバッハ論』(エンゲルス著)を例に引きながら説明していたと思いますので、気になる方は読んでみてください。

ここでの「評論」というのは、現代の日本人がやっているような、自然成長的な思想を世界のあり方に押し付けて解釈しまくるというものではなくて、大衆にも読みやすい表現をとった論文、といった位置づけのものなので、注意が必要です。

◆◆◆

それから最後に、わたしの自己紹介のところに、タバコや都会が嫌いだと書いてありますが、これには(今度はほんとに)深い意味はなくて、感性的に好きになれない、というだけのことです。

人混みに突っ込んでゆくと頭が痛くなるだとか、シンガポール人の友人たちと懇意にしていたときに、彼女や彼らがあからさまにタバコの煙を嫌がるもので、わたしも正直に嫌がってみてもいいかと思っただけだとか、そんなことにすぎません。

読者のみなさんには、概念や人の趣味なんかをほじくりまわるのはたいがいにして、その表現者が全体としてどのような世界観や論理性を持っているのかに目を向けてもらいたいと思います。

本に書かれた概念「だけ」とにらめっこしていても、それは体系としての概念規定の結果だけを自分のレベルに引き下げて辞書的に丸暗記しただけにすぎず、本質的な世界についての理解にはまるっきりつながってゆきませんからね。

「師を見るな、師の見ているものを見よ」、です。


さてここまでの文章は、どういう構成になっていたでしょうか?

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