2011/09/17

「本を読む」とはどういうことか (1)

「画家になるときも、本を読まなければいけませんか?」


かつてわたしが芸術で師事していた先生に、他の学生がこんな質問をしました。

学校の本棚を整理するときに不要になった本があるというので、ほしいと思うものがあるなら持って行きなさい、と言っていただいたときのことでした。

わたしはそれと同じ疑問をその前から持っていて、自分なりの答えを出してから聞いてみようとずっと大切にその問題意識を持ち続けていたのです。
そうでしたから、「まるで考えてみもしないあいだに不躾な質問だなあ」という気持ちと、「自分にはとてもできそうにない質問をよくぞ」という思いが相まって、筆を止めて先生の答えを待ったのでした。

そのときに先生が返されたのは、
「どう思う?」
という返事でした。

ちらと見やると、ニコッという笑顔をされている。

質問した当の学生は、質問を質問で返されて、「エーッ!?」という声を上げていましたが、わたしにとっては、その笑顔こそが、なにやら大きな手がかりになるのではないかという直感がありました。

◆◆◆

デッサンの手を止めて、じっと考えました。

もしまったく不要なのならば、「必要ないから脇目もふらずにデッサンあるのみ!」といったような答えが返ってきたはずですから、「必要なことは必要なのはたしかだろう。それでもその必要さにも、なにか条件があるのだな」、というところまで、自分なりに答えを追い詰めたのです。

すこしくだけた言い方をすれば、質問を質問で返すという答え方の形式には、こういうメッセージがあるように思われました。

「こういう場合には必要ないけれど、ああいう場合には必要になってくるよ」。

加えて、先生が笑顔でそれを発せられたというところから、

「そういう問いかけを持つようになったというのは、一つの前進です。
なぜ必要になるのかは、自分で取り組んでみて、自分のアタマで考えてみなさいね」。

という思いを込めておられたのではないかなと感じたわけです。

◆◆◆

他の学生たちは、「役に立つかどうかわかんないのなら要らないや」とばかりに辞退したので、わたしは内心「やった」という気持ちになって、そのときにある本をいただいたのでした。
カバーの外れてくすんだ色のその本は、古ぼけた見た目とは裏腹に、壁一面に並んだ本の中でも、いつも決まって目に飛び込んでくるだけの思い出がつまっています。

◆◆◆

さて実は、わたしははじめ今回のお題を、「画家には読書が必要か」にしようかなと思っていました。

でもこれを論じるには、画家という仕事の特殊性が強いために、それに引きずられて「読書をする」ということの一般性のレベルでは考えてゆきにくいということがわかりました。

なぜかといえば、画家といっても日本画と西洋画のあり方はそれなりに違っており、西洋のそれは、形式を理詰めで整えてから実践に取り組みますし、すでにある作品についてもそう理解しようとするのがひとつの理由です。

みなさんはピカソの描いた絵を見ても、幼稚園児が描いたお父さんの顔みたいだな、などと思うのではないでしょうか。

ピカソの絵として知られる一連の作風をキュビズムと呼び、画家として駆け出しの頃はもっとちゃんとした絵を描いていたことを知っている人も、後期の変わりようをみて、なにか嫌なことでもあったのだろうか、くらいにしか読み取れない人も少なくないのではないかと思います。

ああいった抽象画がわかりにくいのは、その「絵画理論」を含めて読みとかなければ、その合理性が自分のものとして理解出来ないために、彼や彼女たちの作品の理解も、ごくふつうの感性的な段階にとどまってしまうからです。

感性的なところからしかものごとを見れない場合には、当然それを「嫌い」だとか、「好き」だとかで選り好みするしかないわけです。

今回は、西洋画と日本画の違いを述べて、その比較の難しさを考えているだけなのでこれ以上の深入りは避けますが、簡単に述べるならば、日本画を理解するときには、西洋画とは違って、書き手が理性の力を意識的に発揮しておらず、明確に芸術理論として述べていない事が多いために、書き手が明記していないところを補って読み解くための認識論が必要なのです。

要して言えば、その違いを感性と理性に見ることから一歩進んで、感性をも理性的な分析の俎上に乗せて理解してゆかねばならないのですね。

ともかく、簡単に述べてもこれくらいのことがご説明しなければならないということになると、「読書をする」という主題にたどり着くのはいつの日か、ということになってしまいます。

◆◆◆

それに加えて、画家としての読書を考えるときには、読書で絵画技法を学んだ場合と、画家としての生涯を学んだ場合も大きな開きがあることなども考えてゆくと、きりがありませんからね。

そういうわけで、今回のお題はこんなふうにしましょうか。

「『本を読む』とはどういうことか」。


一冊の本を理解するとはどういうことか、と読み替えてもかまいません。
「本を読む」とカッコ書きしたのは、ただ目を通したというのではなくて、特別な意味を持たせたかったからです。

さていつものように、前書きでひとつの記事を潰してしまいましたが、次の記事では、わたしが一冊の本を読みきるまでにとったノートなども参考にしながら、考えてゆきましょう。


(2につづく)

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