2011/09/23

「本を読む」とはどういうことか (2)

※補足
この一連の記事は、(1)~(4)までの本文と、補論的な位置づけの(5)から成っており、これから21:00と6:00に公開され、9/25(日)6:00までにはすべてが公開されます。休みの日にも真剣勝負、な読者の方たちへの刺激になれば嬉しく思います。

(1のつづき)


もし読者のみなさんが、先生に本を薦められたり、立ち寄った本屋さんで本を買ってきたとしたら、それをどんなふうに読み進めてゆくでしょうか。

すべてを読みきらなかった、という場合には、その本が自分の必要としていたものとは違っていたといった本側の問題もさることながら、自分自身の中に読了するだけの根気が続かなかった、という読み手側の問題もありますね。

しかし極端なことを言えば、隣で我が子が魚の骨を喉につまらせて苦しんでいるときには、妻や夫が救急に電話をかけているあいだにも、家庭の医学辞典からなんとしても適切な理解を引き出そうとするでしょう。
そうすると、自分自身がそれを強く必要だと思いさえすれば、その対象とする本がどのようなものであれ、それなりの取り組み方をするものだと言うことができます。

しかし読書が不可欠の学者という仕事をしている場合にさえ、たとえ毎日本を読んでいたとしても、まだまだ読み解けない本というものはあります。

学生のみなさんは、大学の先生が研究室の本棚にしまってある本をすべて読んだと思っているようですが、そんなことはありません。
開いたこともないような本を、TVの取材で格好をつけるためだけに「飾ってある」だけの場合もあります。
ましてや、「この本なくして我が人生なし」とまで言えるほどまで読み込んだ本は、数えるほどしかないでしょう。

研究の審査のときにも、学問の構築には必読のはずで、さらに一般の方でも少しは名前を聞いたことはあるはずの、アリストテレスやデカルト、カント、ヘーゲル、エンゲルスといった偉大な学者の書籍を参考文献に挙げると、「お前はこれを本当に読んだのか?」「何が書いてあったか本当に理解しているのか?」と疑いの目を向けてくる方もおられます。

そうすると、一般の方でも学者でもなにを生業にするかはともかく、本を読んで自分のものにできるかどうかは、その本の読み手が「取り組んでいる本にどれだけの必要性を感じているか」による、ということです。

◆◆◆

苦しむ娘を横目に見つつなんらの対策も探さない人間は親失格ですし、
歴史上の偉大な学者の業績から真摯に学ぼうとしない人間は似非学者です。

こう捉えたときに、わたしが美術の先生に教わったことの答えが、一歩進んだ形で浮き彫りになったのでした。

本を読むということは、力不足を自覚する現在の自分を乗り越えるためのひとつの手段だが、それでも欠かすことのできない手段である、というのがそれです。

自分の道をひとところに定めたときには、その道をかつて歩んで創り上げてきた先人たちの文化遺産を正しく受け継いでゆかねばならないわけですから、小学校の読書感想文よろしく、まえがきとあとがきだけを読んでなんとか「可」をもらえば済む、というわけには参りません。

ひとつの道を決意した人間にあっては、誰かに評価してもらうための読書などがありうるはずもなく、自分の責任でもって、先人と向きあわなければなりません。
形の上ではひととおり読み終えてはいても、自分にとってわからない箇所があるなら、読了とは言えないことになります。

ここで必要とされるのは、「あの本は自分の血になり肉となった」というレベルであり、さらに進んでは「何も見ずともあの本と同じ内容の事柄を書ける」というレベルです。
その段階ではじめて、先人と対等の力を持ったと言えるのであって、時代を先にすすめるには少なくとも一太刀浴びせられるくらいの実力がなければいけないことになるでしょう。

◆◆◆

自分の定めた道にとって、直接的に乗り越えねばならない人がおり、作品があるならば、「血となり肉となった」という実感が、どれほどの自省の念を持っても、たしかにそうだと自信を持って言えるほどになっていなければいけないことがわかりますね。

それなのに、一般の読者はともかく、研究者を自認する人の中でさえ、「あの本はもう読んだ」という対外的な宣言をするためや、参考文献にたくさんの書籍をあげたいがためだけに読書という行為に囚われている人もいます。

前にも皮肉を言いましたけども、どこぞの小説家が言うには、「どんな本でも一読して理解できねば恥」とのことですが、謙虚で懸命な読者のみなさんは、軽はずみな妄言に惑わされないようにしてください。
自分の能力の高さに下駄を履かせてひけらかすときには、逆説的に自分がどのようなレベルに居るのかが明らかになってしまう、ということがわかるくらいには弁証法が使えるようになっていてほしいものです。

ショッピングモールに入っている本屋さんの店頭にうず高く積まれているような「こうすれば儲かる」とか、「恋人を作る方法」のような雑書の中の雑書の類であれば、たしかに一読すれば内容は理解できるわけですが、ああいったものは本の体裁はとっていても、その内容はといえば「一読にも値しない」と評すべきものです。

わたしは週に1回は本屋に足を運んで、売れ筋の本は必ず目を通しますが、「しっかりとした中身のある本が売れた試しはない」と断言してもかまわないほどに、書籍も読者のレベルも下がってきています。

年配の方であれば「なんという暴言を」などとはおっしゃらないとは思いますが、わたしの言っていることが極端すぎると思われた人は、出隆『哲学以前』を読んでみてください。

たとえば彼が、「範疇」(カテゴリー)をどう説明しているか見てみましょう。
それは、そのままの主客未剖の常体を否定し客観化して、われわれに客観界を与える諸原理として働くとともに、さらに与えられた客観界を種々に統一して対象界(種々の世界)を構成する原理である。

たとえば彼が、後進に向けた一文を見てみましょう。
否定されることがわれわれ啓蒙的教師の任務完成である。

これを「一読して」理解できるものでしょうか。


(2につづく)

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