2011/09/07

観念的な対象化の問題:家庭では仕事の悩みを言うべきか (3)

(2のつづき)


それでも「人の心などお見通しだよ」という人には、こんな問題があります。考えてみてください。

あるとき、あなたは友人の引越の手伝いをすることになりました。
しかしその古いアパートには、エレベーターがありません。

それでも引越し代を浮かせてここまで荷物を運んできたのだから、いまさら業者を呼ぶのももったいないと思い、あなたは友人と重いタンスをかついで階段を上がることにしたのでした。
階段を登り始めてようやく、というときに、上から一人のおばあさんが降りてきました。
おやっと思って立ち止まってみたものの、おばあさんは道を譲ってくれません。
タンスの重みが手に食い込み、こっちが必死なのは見ればわかるのだから、道を開けてくれ、という気持ちがふつふつとこみ上げてきます。
そのことばが喉から出そうになったとき、友人は「道を開けよう」という目配せをしてきました。

なんだか釈然としない気持ちを抱えたままに荷物を運び終え、あなたは友人に、「さっきのは、道を譲ってくれても良さそうなものなのにね。こっちが動くのが難しいことくらい、見てわからなかったのかな」と言いました。
古くからの友人だから、きっと同意してくれると思っていたあなたの思惑とは違い、返ってきた答えはこうでした。

「ぼくもはじめはそう思ったよ。でも、おばあさんがなぜどいてくれないのかと考えてみたら、ひとつのことが引っかかったんだ。
おばあさんが握りしめている手すりのことをね。あのおばあさんは、足が悪かったんだよ。」

◆◆◆

「こっちが大変なことくらい、見てわからないのかな」とは、誰でも心の中でつぶやいたことがあるのではないでしょうか。

そのときに、相手のあり方をよく見て、「ああそういうことか、大変なのは自分だけじゃなかったんだ」と深く反省してはじめて、人とのうまい関係を取り結ぶための第一歩を歩み始めたということになるわけです。

人の意識が直接に頭の中に響くということがありえない以上、わたしたちは誰しも、相手のふるまいやことばを見て聞いて、そこから「なぜこの人はこうしたのだろう?」と考えて、その表現が生まれたところの認識を、逆向きに辿ってみなければなりません。

赤の他人に対してもそういう目的意識が必要であることを考えると、生涯を共にするパートナー同士の関係を考えるときには、「この人はなぜこうしたのだろう?」、「ああ、そういうことか」の繰り返しを互いに意識してみてゆくことこそが、高めあう関係を作ってゆくわけです。

もともとは赤の他人であったはずの男女が夫婦となり、夫婦が互いに尊敬しあって高め合い、かけがえのない関係を気づいてゆくことの構造を見てとって、それを学問の世界では、<量質転化>的な<相互浸透>が起きたのだ、と理解します。

「こっちが大変なことくらい見てわからないのかな」と思うのは、なにも自分だけではありません。


(了)

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