2011/09/24

「本を読む」とはどういうことか (4)

(3のつづき)


ここまでを捉えれば、自分の道にとって必要な本を定めたのであれば、次にはそれをどう深く読みといてゆくか、が問われることになります。

一冊の本を一読して読み解けないのであれば、その疑問点を問題意識として据えたうえで、同じ著者の他の本にも当たりながら、解決して自分のものにしてゆかねばなりません。
また、生活のあり方を現代風に捉えることがあやまりだということに気づけば、当時の社会のあり方に目を向けないわけにはゆきません。

現代という時代は、なまじいろいろな本が手当たり次第に手に入るものですから、これもいいあれもいいと、知識的な蒐集家になってしまいがちですが、これは典型的かつ致命的な誤りです。
自分が目指すところを知るために大まかな事情をふまえて、そこからこれだというひとつの道を定めたのであれば、原理や原則までをもあれやこれやとコロコロ変えて良いわけがありません。
あくまでも、目指す一本の道はしっかりと正面に捉えつつ、その本質的な理解のために必要なものだけは触れることにして、理解の一助にする、ということでなければなりません。

上で挙げた哲学者、出隆が、単なる博識に拘泥せず哲学的精神に帰るためには、と説いているところを見てください。

「これがためには、最後にとくに初学者としての諸君に勧めたい一つの途がある。――異説多しなどという声に躊躇逡巡することなく、ひとたび何らかの哲学的入門書を通読したのちは、他の多くの雑書に向かうを止して、何よりもまずある偉大なと思われる哲学者の原著(とくにその人の苦悶を語る独語的記録)を繙け。そして彼その人とともにPhilosophierenを学ぶがよい。」

簡単にいえば、たとえば哲学を専攻すると決めたときには、哲学全般についてひろく見聞を広げたあと、あれやこれやの雑兵にかかずらっておらずに、ただちに本陣本丸の大将首である古典中の古典を残した歴史上の偉人のところを目指すべきであり、その人の考え方をこそ、学ぶべきであるということです。
ここではさらに、ある偉大な先達の「考え」はたしかに大事だが、なおのこと大事なのはその人がどう考えてきたかという過程、つまり「考え方」(Philosophieren)なのだ、ということが強調されているわけです。

わたしが学問の道を志したときに、この人のこの本に出逢い、この数文を読んだことで、どれほどに勇気づけられ、どれほどに道を違わずにすんだと深く深く感謝しているかは、なかなかわかってもらえないと思います。

◆◆◆

結論を出すためにまとめるならば、多読というのは、道を目指すと決めたときに広く見聞を拡げる初心の段階と、ある書物を理解するためにどんなことでもいいから手がかりが欲しいという段階において、副次的な必要性として認められるにすぎない、ということです。

わたしが常々くどくどと言うように、学者やどんなジャンルでも一流の人物にとっては、たしかに知識も必要だけれども、もっと大事なのはその整序の仕方、考え方こそなのだ、ということとも一致していますね。

読書は、高い目標を掲げた自己が、なんとしても自分の力だけでは超えられない高みへと目標を定めた時に、先人の足跡を辿り、そこまでたどり着くためのひとつの手段です。

ほかの手段として、実践的な修練などの書籍以外のものもありますが、人というのは個人として生きながらも人類総体としてしか歴史を歩みとおすことはできないという本質的な規定を考えればこそ、この小さな経験だけに頼っているわけにはゆきません。
歴史を歩もうとすることと、一流たらんと歴史性をもって生きようとすることは直接的に同一のことであり、切り離せないことなのですから、なおのこと書籍の中の、先人の精神に触れねばならないわけです。

単に結果だけを目指せばよい読書ではなくて、自分の人生にとって必要な、カッコ書きの、「読書をする」ために必要なのは、一流の本と出逢い、それをなぞらえて自分の人生と重ね合わせることのできるレベルで読み進めることができるか、ということなのです。

だからわたしは、自分がこれは重要だと思う本を見つけたのなら、脇目もふらずそれだけを中心に据えてコツコツと熱心に、ぼろぼろになるまでいつも傍らにおいて読み進め、自分のものとして欲しいと、強く、強く願っているのです。


(5につづく)

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