2011/09/25

「本を読む」とはどういうことか (5)

(4のつづき)


やや蛇足ながら、思想性はそうなのだろうけど、それだけでは心もとない、手びきが欲しい、と思われる学生さんもおられるでしょうから、僭越ながらわたしがどんなふうに一冊の本と向き合ってきたのか、ということにも少し触れておきたいと思います。

これは、わたしがずいぶん前に四苦八苦して三浦つとむ『芸術とはどういうものか』(至誠堂)を読んだ時のノートです。(オリジナルのPDF版


人さまに読んでもらうために書いたものではないので、本来なら門外不出なのですけれど、「ちゃんと本を読む」ためには、どれくらいの取り組み方をしなければならないかが少しわかってもらえるのではないかなと思います。

お見せしている2ページのノートは、本文の3〜4ページぶんのある箇所が、どうしても心底わかりきったと自信を持って言えなかったために、その行間にどのような文章を補えばよいかを考えていっています。

ブルーブラックで書かれているところが本文の引用で、本文をそのままに読んだだけではわたしにとってはわからないところが多すぎたので、再度読みなおして、さらに同じ著者の他の書籍にも当たった上で、作者が言わんとしているであろうことを自分で補い、オレンジ色のインクで加筆しながら読み解いているわけです。

サブに使っているノートに何回も書きなおしたものが、それなりの体裁にまで仕上げられるようになったので、メインのノートに貼り付けてありますが、ここまでまとめて書き起こせるまでにメモを4,5回は書き直しました。

もちろん、ノートのコレクションが目的ではないので、自分が研究を進めてわかったことは、横に付け足したり、付箋を貼って補足したりしています(付箋は外してあります)。
今読んでみると、もっと良いまとめ方ができたのになあと、苦心したころを懐かしく思いますが、それも前進した証拠だと思っていますし、いまでは別の苦難があるものです。

こうやって何十回も読んで、さらに数回まとめてもまだ理解したりないという事実に向き合うと、否応なしに無駄なプライドなどは吹っ飛びます。
頭をたれて謙虚に、一文字ずつ文字を拾って読み進めるというのは、道場に入門したあと、数年間床磨きをしながら、刀に触りたい、刀を振りたいと願って願いながら、練習に励む先輩たちの稽古姿を横目で眺めているときの感覚に似ています。
武道とは関わりのない方も、なんとなく想像できるのではないでしょうか。

この過程があってこそ、それなりに失礼のない形で先達と向きあって仕合うことができるわけですね。
もっともこの本とは、床磨きなどとは比較にならないくらいの年数向き合いました。同じような本も、ほかに両手の指では少し足りないくらいにはあります。

◆◆◆

さてブルーブラック(本文の引用)とオレンジ(わたしの補った文)の文量を比較すればわかりますが、重要な箇所になれば、直接的な表現のあいだの行間にも、同じだけの含意が隠されていることがわかります。

筆者にとっては当たり前の論理展開も、自分にとってはこれほどに補いながら読まねば理解出来ないというのは、残酷な事実です。
この本はとくに、表現そのものはとても易しいものでしたから、わからない箇所があるということは、とりもなおさず読み手の論理力が足りない、ということに直結しているわけです。
表現が難解である場合には、論理力が足りないことのほかに、用語が理解できていないという原因もありうるのですが。

このようにして「行間を読む」ときには、読者にとって読むべき行間が多かったり少なかったりしてもよいわけですが、それも自分にとっての必要性のレベルに応じて補ってゆかなければなりません。

近所の者知りおじさんやおばさんになりたいのであれば、読んだことにして済ませればよいかもしれません。
研究者で終わってもよいのなら、一読して本棚にしまっても参考文献には挙げられるかもしれません。
ですが、学者としてこの本の先にしか自分の未来がないと知るならば、死に物狂いで読み込まなくてはなりません。

繰り返しますが、一流を目指すのであれば、人に何と言われようと、自分がわからないと思えば、わかるまで読むという姿勢が絶対に必要です。

易しい表現に助けられて、著者に「わからせられてしまった」ことを、自分の実力で読みきったのだと勘違いしてしまってはいけません。
筆者が読者の立場に立って、彼女や彼がおそらく躓くであろうと判断したうえで、とくに助け舟を出してくれているところは、「この表現は崩し過ぎではないか、もっと深い意味があるのではないか」と考えてみるべきです。
その意味で、「読書する」というのは筆者と読者の表現にまつわる相互浸透のひとつのあり方であり、ひとつの闘いでもあります。

◆◆◆

「あの本に取り組みだしてからもう数ヶ月、数年経つのにまだわからない」という事実から目を逸らして、「わかったことにしてしまいたい」という誘惑に駆られる自分の弱さを、なんとしても日々覚悟を重ねる中で克服してください。
「わかった」とか「わからない」という表明そのものには、何の意味もないことを知ってください。

そうでなければ、本質的な前進はありえません。
道を歩むというのは自由気ままにできることではなく、それなりの前進がなされたときにはそれだけの責任と覚悟が必要であることを、目を逸らさずに自覚してこその一流です。

本当に本を読むために必要な心構えは、
人にとってはどうであろうと、自分にとってわからないのであれば、わからない。それだけです。


(了)

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