2012/01/11

文学考察: 納豆合戦ー菊池寛


◆文学作品◆
菊池寛 納豆合戦



◆ノブくんの評論◆
文学考察: 納豆合戦ー菊池寛
著者が十一歳のある時、彼の悪友である吉公は納豆屋の盲目のお婆さんから、2銭の納豆を1銭だと言い張って騙し買ってしまいます。その後、彼はその納豆を学校へ持って行き、それを鉄砲玉にして納豆合戦を行いました。そしてこの遊びの面白さの味をしめた著者たちは、その日以来、お婆さんをこうして騙し続けていきます。
ところがある日、吉公がいつものようにお婆さんを騙そうとしている最中、その現場をお巡りさんに見つかってしまいます。そして吉公が見つかった事で、自分たちの身の危険を感じた著者たちは、いっぺんにわっと泣き出してしまいました。すると、そんな私たちの姿を可哀想に思ったお婆さんは、お巡りさんをとめて著者たちを助けてあげました。こうしてお婆さんに助けられた著者は、「穴の中へでも、這入りたいような恥しさと、悪いことをしたという後悔」とを感じながら、この事件以来お婆さんの納豆を買うようになっていきました。
 
この作品では、〈自身の立場に関係なく、他人の立場になって考える事のできるある老婆の姿〉が描かれています。 
この作品の中での大きな変化は、著者を含めた子供たちの心にあります。しして、その変化には納豆を騙し買われていたお婆さんの存在が大きく関わっています。では、物語の中での彼らの立場を整理しながら、具体的に彼らはお婆さんのどういうところを見て大きく変化していったのかを見ていきましょう。
まず、著者たちが納豆合戦する為にお婆さんから納豆を買っていた時、彼らの中で彼女は騙す対象であり、「「一銭のだい!」と吉公は叱るように言いました。」という一文からも理解できるように、彼らの世界では非常に弱い立場にありました。そして、お婆さんはお婆さんで、自分が盲目であることから子供たちを叱ることもできず、ただ騙されるしかありませんでした。
しかし、物語の途中、お巡りさんという第三者が介入することにより、この立場の均衡は大きく崩れてしまいます。彼はお婆さんを護るべく子供たちをこらしめようとしているのですから、当然子供たちの世界では自分たちよりも立場が強い存在という事になります。そしてこのお巡りさんに守られているお婆さん自身も、一時的にではあるでしょうが、子供たちよりも強い立場に立ったことになります。ですが、このお婆さんは子供たちの様に自分たちよりも弱い立場の者をいじめたり、或いはお巡りさんのようにこらしめたりする心を一切持っていません。彼女は自分が騙されていたにも拘らず、子供たちを可哀想だからと助けようとしているではありませんか。そして、このお婆さんの態度は、著者たちの内面に大きな影響を与えることとなります。彼はお婆さんの自身の立場が変わっても、また自分が騙されていたと分かっても、自分たちを哀れんで助けてくれたその行動を見て、立場の弱いお婆さんを騙していたにも拘らず、彼女に助けられた事への恥ずかしさ、またその事への後悔を感じずにはいられまくなっていきます。だからこそ、彼はそれらを反省し、お婆さんのために納豆を買うようになっていったのです。


◆わたしのコメント◆

この作品のあらすじについては、評論にあるとおりです。
「私」とその悪友である「吉公(きちこう)」が、盲目の納豆屋の「お婆さん」から納豆を騙して不当に安くで買ったことが「お巡査(まわり)さん」に知られて罰せられそうになるものの、お婆さんがそれを助けてくれる、というものです。

論者は、この作品を透かしてその構造をたぐり寄せるときには、そこでの力関係に着目すべきだ、としています。
その指摘は正当ですが、その着眼点の正しさに比べると論証部がやや整理されきれていないようなので、どう表現すべきだったのかを考えてゆきましょう。

作品の前半部では、私と吉公が、お婆さんが盲目であることをいいことに納豆代をちょろまかす、という場面が描かれていますから、私と吉公にとって、お婆さんは思うままにいたずらをすることのできる格下の対象であるということになります。
ところが後半部になると、お代が合わないことに気づいたお婆さんがお巡査さんを呼んだために、その力関係は崩れ、今度は逆に、お巡査さんが私と吉公たちを叱る立場として上下関係が結ばれます。

文中では、この私と吉公にとっての力関係の反転が、このように表現されていますね。
「「おい、お前は、いくらの納豆を買ったのだ。」とお巡査さんが、 怖しい声で聞きました。いくら餓鬼大将の吉公だといって、お巡査さんに逢っちゃ堪りません。蒼くなって、ブルブル顫えながら、「一銭のです、一銭のです。」と、泣き声で言いました。 」

◆◆◆

この力関係の反転が何をもたらしたかというと、私と吉公に、「強い立場をいいことに弱い立場の者をいじめることが、いじめられる者にとってどのようなものであるか」という経験を、その身をもって与えることになったわけです。

評論全体の口ぶりからすると、論者はこの箇所は「観念的二重化」である、と認識したようですが、わたしにいつも、「学問用語は評論中で使っても読者の便益にならない」と言われていることを思い出して、別の表現にしようと考えたようです。

表現としては直接現れていなくとも、その認識は表現をとおして読み取ることができますから、少なくとも認識の段階では正当であったはずだと指摘できますが、翻ってそのことが、論者自身の、自分の言葉で過不足無く言い切れているかというと、やはり少しばかり言葉足らずのようです。

先ほど触れたように、物語の前半で強い立場であった私と吉公が、物語の後半では弱い立場に置かれることになり、彼らは弱い立場にある者がどのような気持ちになるのか、と想像できるようになっていったのでしたね。
ここで彼らは、お巡査さんに絞られて恐ろしい思いをした経験をとおして、かつてのお婆さんは、自分のハンデを逆手に取られてわけもわからないうちに納豆代をくすねられていたのか、そしてその犯人は、ほかでもない自分たちだったのか、と、かつてのお婆さんと現在の自分たちを二重化するかたちで、お婆さんの気持ちを自分たちのもののように思い知ることになったのでした。

これはまるで、立場の弱い自分を、第三者が悪意のこもった目でにらめつけているような光景ですが、お婆さんに観念的二重化をしている私と吉公にとっては、悪意の第三者は他でもない自分たちなのです。
そしてまた盲目のお婆さんにとっては、その悪意は直接見ることができないのですから、一体この先なにが自分の身に振りかかるのか、という恐ろしさがあるはずのものなのです。

ここまでが、お巡査さんに絞られて私と吉公が反省したことの内実です。
過程における構造を手繰り寄せようとする姿勢は十分にうかがえる論者にあっては、このように「観念的二重化」の過程を、それぞれの登場人物の気持ちになったかのように、丁寧に描き出してほしかったところです。

◆◆◆

こうして、私と吉公がお婆さんに観念的二重化をするきっかけを見出すとともに感情が高まって泣き出す段になると、今度は逆にお婆さんが、泣き出した私と吉公の内面に二重化することになり、彼女をして目に一杯の涙を湛えながら「「もう、旦那さん、勘忍して下さい。ホンのこの坊ちゃん達のいたずらだ。悪気でしたのじゃありません。いい加減に、勘忍してあげてお呉んなさい。」」という言葉となって口をついて出さしめることになったのです。

このように整理してみると、物語の後半部では、第一に私と吉公のお婆さんへの観念的二重化が起こり、次にはその泣き顔を見て彼らの内面を自分のことのように感じ取ったお婆さんの彼らへの観念的二重化、そしてさいごには、非のある自分たちでさえもおおらかな気持ちで自分たちの立場になって弁護してくれたお婆さんへの私と吉公の観念的二重化、というふうに、幾層にも重なりあう観念的二重化が描かれていることがわかってきます。

さいごの、私と吉公の観念的二重化では、それまでの経緯、つまりお婆さんをいじめた自分たち、そしてそれでも自分たちを許してくれたお婆さんという二重性をもったものであったために、「お婆さんの眼の見えない顔を見ていると穴の中へでも、這入りたいような恥しさと、悪いことをしたという後悔とで、心の中(うち)が一杯になりました。」という恥ずかしさと後悔が入り混じった、深い気持ちとなって現れることになっているのです。

そのことを受けて、物語のさいごでは、私の口からこう語られていますね。
「このことがあってから、私達がぷっつりと、この悪戯を止めたのは、申す迄もありません。その上、餓鬼大将の吉公さえ、前よりはよほどおとなしくなったように見えました。私は、納豆売のお婆さんに、恩返しのため何かしてやらねばならないと思いました。」

彼らの行動だけを見ると、「悪戯を止めることになった」という現象でしかありませんが、その構造を見ると、「私と吉公」と「お婆さん」の間の、三重の観念的二重化が重なりあったことで、ついにはそのような振る舞いの変化となって現れることになっていったのだ、ということがわかります。

物語というものが、結果などにはほとんど力点がおかれていないことがよくわかりますね。
では物語の本質はどこにあるのか、といえば、答えを言わずともわかるでしょう。

◆◆◆

今回の評論を全体的に見て、単純な物語だからと、いい加減に済ましてしまう気持ちが微塵も感じられないところは、論者の作品に対する姿勢が確かなものになりつつあることとともに、その認識の在り方が深みを持ったものになってきていることを示しているのでは、と期待しているところです。

認識にどれだけの深みがあるかということは、人間にとって言えば「人格」と呼ばれるものに直結するほどに重要なことがらです。
人格が優れている、精神が強い、ということがなんなのかと考えてみれば、人のあり方を我が身に繰り返すかのごとく受け止めたうえで、その弱さを知悉していることでもあるのですから、質的な強さに至るまでには人の弱さというものもきちんとふまえられていなければならないことがわかるはずです。(相互浸透の「量質転化」化)

ここを極意的に要すれば、弱さがわかってこその強さである、と言えますね。(対立物の相互浸透)
そのことと同時に(相互浸透のかたちでわかることには)、人の気持ちがわからないような、いわば心臓に毛の生えたような強さなどというものが、いかに偽物の強さであるかも踏まえておいてほしいものです。

またこれだけの短編でも、きちんとその構造を踏まえて把握しておくという姿勢を堅持するならば、世にあるいじめが無くならないのはどのような原因があるからなのかという問題を解く手がかりにもできてゆきますし、その解決に向けた取り組みがどのようなものであるべきかもわかってくるはずです。
そしてまた他でもない文学の道を志す論者にとっては、自分の作品について、「作品中の登場人物の心理描写が薄い」と指摘されるのはなぜなのか、と自分の力で考えを進めてゆけるのではないかと思います。

この作品は、ことわざで例えるなら「我が身をつねって人の痛さを知れ」ということであり、子供たちは、実際に弱い立場に立たされたうえで、強い立場ではどう振る舞うべきなのかを、お婆さんが自分たちを庇う姿を見ることを通して知ったのですから、その相互浸透の過程を含めて一般化するのなら、この作品は、<子供たちに他人の気持ちになって考えることを教えたひとりの老婆>を描いていたのだ、などとするのが良さそうです。

論者の引き出した一般性でもまったくの間違いではありませんが、お婆さんの主体的な性質は、なにも物語が始まらなくとも自ずから持っていたものなのであって、一般性があくまでも「作品の全体」の本質を抜き出したものでなければならない以上、またこの物語の力点が論者の捉えていたとおり「観念的二重化」にある以上、その論理性を含めて一般化するべきだった、と言えるのです。


【正誤】
・しして、その変化には納豆を騙し買われていたお婆さんの存在が
・またその事への後悔を感じずにはいられまくなっていきます。

1 件のコメント:

  1. >ここを極意的に要すれば、弱さがわかってこその強さである、と言えますね。(対立物の相互浸透)

     ジーンときました。

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