2012/01/15

文学考察: 喫煙癖ー佐々木俊郎

コメント後半に、


基礎修練の持つ意味合いとそれに向かう姿勢について少し述べたので、興味ある方は拾い読みしてください。

◆文学作品◆
佐左木俊郎 喫煙癖

◆ノブくんの評論◆
文学考察: 喫煙癖ー佐々木俊郎

月寒行きの場所の上に、みすぼらしい身なりの爺さんと婆さんが向い合って座っていました。やがて2人は、爺さんが吸っていた煙草の煙が婆さんの顔にかかったことをきっかけに会話をはじめます。そして会話は自然と、爺さんが札幌に住んでいた頃の話題になっていきました。彼はそこで十五六の時から、鉄道の方の、機関庫で働いており、煙草を買いはじめたのもこの頃からだというのです。そして、それを買いはじめたきっかけは、そこの停車場に出来た売で働いていた娘の顔を見るためだったというのです。そして、あれから35、6年経った今でも、爺さんは煙草を吸う旅に当時の娘を思い出すといいます。
一方これを聞いていた婆さんですが、実はその娘というのはなんと自分だと爺さんに名乗り、指にはめた真鍮の指輪を彼に見せました。それは当時彼が機関車のパイプを切ってこしらえたもので、彼女もまたこれを見る度、当時の爺さんを思い出していたというのです。こうして奇跡の再会を果たした二人は、現在お茶屋をしている婆さんが爺さんに自分の店でお茶を入れる約束をしながら、月寒に向かっていくのでした。
 
この作品では、〈時間と体験は物理的には繋がりを持ちながらも、認識の上では独立している〉ということが描かれています。 
まず、この作品における感動とは、言うまでもなく、2人の男女が35、6年の時を経た今でもお互いを思い続け、奇跡の再会を果たした、というところにあります。というのも、私達には一見、長年誰かを思い続け、更には再会を果たすことが困難な事に思えるからこそ、こうした二人の再会が心を温めてくれるのです。しかし、そもそも何故2人は長年、互いを思い続ける事が出来たのでしょうか。30年以上も時が経ってしまえば、お互いの事なんか忘れて、再び出会っても気づかなくてもおかしくはないはずです。ですが、この2人がそうならなかったのは、それぞれが当時の体験を呼び起こせるものを持っていた、という点にあります。それが煙草と指輪なのです。事実物語の中でも、爺さんの方は、煙草を吸う度に自分に煙草を売ってくれた婆さん(当時の娘の姿)を思い出し、一方婆さんの方は、指輪を眺める度、自分にそれを渡してくれた爺さん(当時の青年だったであろう姿)を思い出していたとそれぞれが語っています。
確かに彼らが出会い同じ時を過ごしたのは、30数年前のほんの一瞬の出来事だったことでしょう。しかし、彼らがその体験を昨日の事の様に覚えておけたのは、毎日お互いの事を思い浮かべる術、或いは装置を持っていたからにほかなりません。ですから、時間としては30数年経ち、恐らく顔にも皺ができ、髪も白く染まってきた姿で再会しても、2人はちゃんとお互いの事が理解でき、当時の事を昨日の事のように会話する事が出来たのです。

◆わたしのコメント◆

札幌を出発した馬車に偶然乗り合わせた二人の老人が、「爺さん」が呑みつづけている煙草を手がかりにしながら話を続けてゆくうちに、相席した「婆さん」が、実は幼い頃に恋心を抱いていた娘であったことがわかる、という物語です。

物語の冒頭をみると、煙草の話題が出たのは、爺さんの吸う煙草の煙が婆さんの顔にかかってしまったことで爺さんがそれを詫びたということをきっかけにしています。

この時から両者は、それぞれの脳裏に、それぞれの「煙草」にまつわる思い出を、「そういえば、」というかたちで過去の体験に遡りながら呼び覚ましてゆきます。

爺さんは、生業にしている火夫(かふ。かまたきの職人。コメント者註)の仕事のあいだでも煙草を手放せないのだと婆さんに説明しながら、そういえば、一五六歳の時から煙草を吸い始めたから、三五六年のあいだの愛煙家ということになるなあと記憶を辿ってゆきますね。
それでは、と婆さんから、お仕事から察すると札幌の町に馴染みが深いのでしょうかと尋ねられると、爺さんは、そういえばもともとは、停留所の売店で売り子をしていた「可愛い娘」を一目見たいあまりになけなしの身銭を切って煙草を吸い始めたのだ、という思い出に行きあたるのでした。

◆◆◆

この二人の会話の流れを見ると、当初は「煙草」という漠然とした像をそれぞれのアタマの中に思い描きながら、「煙草といえば…ということがあったな」という、いわば連想ゲームのようにして手探りに、それぞれの記憶の中から思い思いの思い出を引き出していっていることがわかります。

物語のはじめの段階では、それぞれの脳裏には別々の「煙草」像が浮かんでいるのですが、概念としては同じでも、その内実はそれぞれ違ったものであるのですから、少なくとも当初は、二人が共有している「煙草」像が、いわば形式だけを与えられた状態であることになります。

そこから話が進み、互いの「煙草」像がどのようなものであるかを陳述していったことによって、そこに「三五六年前」、「札幌」などの概念が加わることになり、しだいしだいに二人の思い描いている光景はひとつの像として絞りこまれてゆくことになります。

これは直接に、「煙草」像がその形式だけではなく、その内実をも増していったということに他なりませんが、ここまでくると「煙草」の像は、ある光景に含まれているひとつの要素になってゆきますから、内容を掬いとって形式が壊されるという意味で、ひとつの光景の中に「煙草」像が止揚されたのだと考えてよいでしょう。

最終的にはこの光景がしだいしだいに明確なものとして浮かび上がりはじめ、「停車場の売店」、「売店の娘」という思い出が付加される頃になると、二人が思い描いている光景が、同一のものであることがはっきりします。
二人の思い描く像が一致した瞬間を見てみましょう。
「それはそれは……実を申しますと、あの頃その売店に座っていたのは、私でござんすよ。」
「ははあ! それさね。」
爺さんは驚きの眼をみはって、婆さんの顔を、じっと視直した。
そうして物語のさいごには、婆さんが娘の頃、ある青年からもらった「真鍮の指輪」を肌身離さず持っていたことによって、物理的な証拠が二人の関係を保証することになるのです。

◆◆◆

二人のアタマの中に浮かぶ像を、順を追って整理してゆく時には、その像のあり方を漫画的に想像してもよいでしょう。
二人のアタマから出たふたつのフキダシが、しだいしだいに重なりあいはじめ、そのころには同じ経験を持っていたのだろうかという思いがくすぶり「まさか?」という感情となり、最終的に像が一致する頃になると「そうだったのか!」という感嘆となって現れることがわかりますね。

当初は独立していた観念的な「煙草」像が、それぞれの物質的な表現を互いに見て聞いてするうちに、それを含んだひとつの像として絞りこまれ、結ばれると直接に一致してゆく、という過程における構造がわかるでしょうか。
それとともに二人の感情が高まってゆくさまがわかるでしょうか。

今回の評論について言えば、もしそのことを指摘したいあまりに、一般性を〈時間と体験は物理的には繋がりを持ちながらも、認識の上では独立している〉としたのかもしれませんが、これでは表現があまりにも硬すぎるかつ一般的すぎますし、一般読者の感想を代弁するなら率直に言ってわけのわからない言い回しである、というのがふさわしいところですから、より原典に即した表現にしなければなりません。

(もしかすると、ゼノンのパラドックスのように「時間は無限であるが有限にも分割しうる」という矛盾のことを言いたいのかなとも思いましたが、この物語で運動における矛盾を扱う必要も無いですし、どこかで聞いたフレーズをわからないまま引用してしまったのだろうと判断しました。もしそうであるなら、いつものとおり、「自分のわからない言葉は使ってはいけない」と言っておきましょう。誤解であるならその内実を聞かせてほしいと思います。)

◆◆◆

また論者は、ふたつの舞台装置「煙草」と「指輪」を取り上げて、その双方が体験を呼び起こすための鍵になっていたのだとしていますが、上で見てきたように「指輪」は、物語さいごの物理的な証拠として、物語をだれにでもわかるような形で着地させるための、いわば「ダメ出し」の形で扱われており、それが登場しなくとも二人の観念的な像は、彼女・彼らが青年のときの停車場の売店として結ばれているのですから、その違いをより鮮明に認識し、明確に指摘して欲しかったところです。

また一般性を考えるときには、この物語が教訓らしきものを含んでおらず、物語そのものに捻りもないことから、<「煙草」が繋いでいた二人の思い出>、<「煙草」が呼び覚ます二人の思い出>などと、素直に要してしまってもよいでしょう。
前者は物語を終わりから見たときの表現であり、後者は物語の過程の一時点を取り上げたときの表現になっています。

総合的に評価すると、今回の評論は、あらすじは悪くないものの、一般性が漠然としすぎており、おそらくは論者の中でも明確に意識できない表現を使ったことに引きずられて、論証部が締まりのないものになってしまっています。

これは、原典を、キーワードをしっかりひとつずつ探しながら読むことをしていないためです。
上で括弧書きしておいたものが主だったキーワードになっていますので、まずは原典をプリントして自分の力で赤線を引くことをしたうえで、コメントを読みなおして答え合わせをしなければなりません。

一般的な文章能力のレベルが上がってきていることは論者自身がいちばんよく実感しているところではあると思いますが、その段になった時に、はじめて、基礎的な修練の姿勢における「粗」が目立ち始めるということを、まっとうに恐ろしいことだと思えなければなりませんし、それがまっとうに思えるだけの認識の力をつけねばなりません。

せっかく真剣を持って良いと言われるまでになったのに、気が抜けて素振りをさぼっているのなら、また素振りの内実に目を向けずに素振りの「数」だけを目安に修練に当たるのなら、その過程は直ちに「質量」転化として現れることになり、真剣が木刀とは異なるために「かえって」、自ら足の小指か太ももを切り裂く運命にあることを、厳粛に受け止めてほしいと願ってやみません。

その段階にはその段階に上がるための過程があり、そしてその段階を維持するための過程があり、それらは質的に保証されていなければならないことから、やはり段階に至る過程そのものがどのような質を維持しているかの重要性は、いささかも減ることはないのです。極意論的に言うなら、量質転化における「量」は、質的に保証されていなければならない、ということです。

なぜにわたしが基礎的な鍛錬を何年経っても止めて良いと絶対に言わず、どんなことよりも重視しているのかという理由を、ここにある表現のあいだの行間をきっちり読むことを通してその認識そのものを受け止めてくれるなら、わざわざ小言を言った甲斐があるというものです。

ここで気を抜いてしまうと、すべてが水泡に帰する恐ろしさを持った勘所ですから、自分の責任でもって修練に当たることを、重ね重ねお願いしておきます。

◆◆◆

さいごに、表現の形式とその解釈の余地について述べておくことにします。

この物語は、二人の登場人物の描き出す像が、その物理的な表現を手がかりにすることによって重なりあってゆくさまを描いていましたね。

今回の物語では「表現」が、それぞれが発する音声に限られていましたが、「表現」というものを広く見ることにすると、文芸作品もその中に含まれます。
ひとつの作品の鑑賞の過程を考えると、ひとりの人間が、ある表現を見たり聴いたりして体験したときに、そこからどういった情景を思い浮かべるかは人によって異なります。

たとえば別れ話を扱った同じ歌を聞いたときにも、ある人は家のしきたりで離縁しなければならなかった昔の恋人を思い出して涙を流すかもしれませんし、またある人は、昔はともかく現在は、想い人と結ばれることも難しくなくなったことを思い、幸せな時代に子どもを育てることのできる境遇に感謝の念を抱くかもしれません。

作者がどんな生まれや育ちを持っており、そこから得られた素材をどのように活用してひとつの表現を創り上げたかはともかく、それをいったん表現にしたときには、細かな情景が捨象されたものとして現れてくるほかありません。

つまりひとつの表現が作り手の手を離れたときには、その表現は、彼女や彼の持っていた認識から相対的に独立した形になっていますから、読み取り手がその表現を見て、作者の思いもしなかった光景を思い浮かべる場合もありえます。

表現論においては、ひとつの表現が、それを通して読み取りうる作り手の認識と客観的な関係を結んでいることをもって、正しい理解であるとし、明らかな踏み外しがある場合には誤解しているのだとしますが、正しい理解とされるものにはある程度の幅があります。
そして、作品の形式いかんによって、正しい理解とされる幅は広がったり狭まったりします。

一般的に言えば、文学作品はひとつの情景をありありと描き出すことに長けていますが、それに対して詩や短歌などは、その表現を簡潔な形に磨き上げることと直接に多分な解釈の余地を残すことによって、その形式を持つことの特徴になっています。
また科学的な論文では、解釈の余地をできるだけ狭めて、特定の像を読者に過たず伝える工夫がなされているものですし、それに対して役所で行き交っているような文章には、わざとぼかした表現を使って、後日問題が起きたときにはいかようにでも解釈して弁護できる余地を残しておくための工夫が見られます。

ひとつの表現にどれだけの解釈の余地があるのかは、多くがその形式に委ねられているわけですが、ひとつの作品がどんな形式やどんなジャンルの作品であるにしろ、そこに普遍的な内容が含まれているところに、名作の名作たる所以があるのです。


【正誤】
・「月寒」は地名の中でも難読語であるため、「月寒(かむさっぷ)」と振り仮名を振るのが適切。
・著者名「佐々木俊郎」→佐左木俊郎
・お互いの事なんか忘れて、→お互いの事など忘れて、(「なんか」は口語なので、文語体にすべき)

2 件のコメント:

  1. >その段階にはその段階に上がるための過程があり、…、ということです。

     ありがとうございます。

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  2. 35年もの長い年月の隔たりを感じさせないすがすがしさがあります。

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