2011/02/13

感受性というものの周辺 03:認識の底に横たわる論理

よい連休でした。



毎日人と会ってはいたけれど、自分のこともしっかりできた。
ダ・ヴィンチおじさんに横について散歩に付き合ってもらおうと、
伝記をDVDや全集で見たり、手記を岩波文庫で読んで、だいたいの像はできてきた。
集中していてすっかり眠るのを忘れていたので、頭の中がいっぱいである。

さて彼はといえば、
現代では世紀を超えた陰謀の片棒を担がされたり、
神のごとき大天才のような扱いをされがちだけど、
こんな狂騒をみれば、きっと本人は心安らかではないだろうなあと思う。


自然を師とし、自分の目で見た確かなものだけを頼りに、世界を知ろうとした。

わたしにとっては、ただ好奇心がとっても旺盛な、気の良いおじさんだ。
あのあと人類が、彼が知りたかったことの、
どんなところまでを明らかにしたかを知ったら、
それはそれで、心安らかではいられなかったろうな。


人目をはばからず悔しがるのが目に浮かぶ。そんな人である。

狂人扱いするのも、神扱いするのも、実のところ、
同じ「不理解」という姿勢の、極端なあらわれでしかない。

彼のいいつけを守って、わたしは彼を師と仰がないことにした。

◆◆◆

というわけで、年末のどさくさに紛れて、
続きを公開していなかった記事を貼っておこう。
書きためた記事はたくさんあるのだけど、
読んでもらえるように仕上げをするのがいちばん大変なのだ。


いまはちょうど<一般性>について話しているところだったから、
日の目をみることになった。

ここではそのことばが、単に「あらすじ」という意味を越えて、
どういう大きな概念と関わり合ってゆくのかがわかってもらえると嬉しい。
これを書いたということは、
あとはみなさんが「認識」について探求できる段になったということでもある。


1と2は未読でも意味がわかるとは思うけど、いちおうこの続き。

Buckets*Garage: 感受性というものの周辺 01:その困難
Buckets*Garage: 感受性というものの周辺 02:考え事がぐるぐるまわるのはなぜか

◆◆◆

前回のエントリーでは、
個人における、認識の発展の構造を簡単に取り上げた。
それはイメージしやすいようにいえば、螺旋階段の形をとっているのだった。

これを人類全体の進歩の観点から見ていっても、同じことが言える。


たとえば近現代の文学史には、
島崎藤村らの「自然主義」と、
夏目漱石らの「反自然主義」のせめぎあいがある。

たとえば経営学史には、
テイラーを始祖とする「機械的人間観」と、
メイヨー、レスリスバーガーの「人道的人間観」の変遷がある。

たとえば哲学史には、
ソクラテスとプラトンを発端とする「観念論(唯名論)」と、
アリストテレスに代表される「唯物論」のたたかいがある。


上で挙げた例では、そういった変遷の前後に、
それぞれ自然主義文学のゾラ、近代組織論のバーナード、観念論哲学の完成者カントとヘーゲルなどがどこに位置づけられるかと考えて見れば、歴史の流れが螺旋状に連なっていることがわかる。
(いつぞやのガンガムのデザインの例でイメージしてもらってもいいですよ)

そのほかの流れの場合にでも、ご自分の専門分野の歴史を見てもらえば、
人間の社会の栄枯盛衰を大きく見たときにはジャンルに関わらず、
これらの発展が、「否定の否定」として浮上してくることもわかるはずである。

◆◆◆

さてここまでご説明すると、
「そうは言っても、あなたがさっき説明した、個人の中の認識の発展と、
人類全体の発展を同一視するというのは果たして正当なことなのか?」
という質問がとんでくるかもしれない。

これ以上ないくらい良い質問だ。


この質問は、スケールの問題に焦点を当てている。
人類全体の大きな流れと、個人が「わかった!」となるときのごく小さな流れを、
同じやり方で理解してしまってもいいのか、ということだ。
いぶかしく思われても当然である。

結論からいえば、「一般的には」ということわりを入れれば、それで良いのである。

◆◆◆

わたしたちがある言明を聞いたとき、それを「たしかにそうだな」と納得できるということは、何によって保証されているだろうか。

たとえば、「りんごは赤い」という言明はどうだろう。
通常ならば、「たしかにそうだ」という判断をするはずである。

ここをニーチェよろしく、
「りんごは赤い…いや、そうではない。
りんごは丸い…いや、そうではない。
りんごはツルツルしている…いや、そうではない…」
などと言ったり、
「赤くないりんごもあるではないか」
などと反論する方もおられるかもしれないが、
そういう方たちもやはり、「りんごが赤い」という言明が成り立つと思っているからこそ、反論ができるわけである。

ここで言われているのは、「それをそうだと呼べうるのはなぜか」という理解に含まれる構造の部分なのだ。

(ここまでは書き出しなので、難しければ、読み飛ばしてもらっても結構です。)

◆◆◆

わたしたちがある言明について納得しうるというのは、
実のところ、それが成立してきた過程に照らして判断しているからだ。

一言でいえば、
わたしたちは「歴史性」に基づいて物ごとの正しさを判断している、ということだ。
「論理」というのは、そのことに付けられた名前に過ぎない。


ここにおいて、「一般性」ということばが出てくる。
これはイメージしやすいために単純化していうが、
たとえばここに、ある文学作品がある。

その文学のレベルを上げると、数行で物語を表した「あらすじ」になる。
さらにレベルを上げると、物語を一言で言い表した「一般性」ということになるだろう。

そしてさらに、それを文学全体にまで広げてみる。
そうすると、「文学全体についての一般性」が得られる。


ここまできて導かれたところの、「文学全体の一般性」でもって、
わたしたちは各々の文学作品を判断している!、のである。


それは、わたしたちが人類の歴史の一般性でもって、
各々の学問、芸術、文化の良し悪しを判断していることと、論理的に同一である。

ここにおいて、全体の歴史的一般性(<歴史性>)が、
それを形成する個々の判断能力のなかに潜んでいることが分かるだろうか。

◆◆◆

このことはまともに受け止めるほど、
異様なスケール感をもって我が身に迫ってくるはずだから、
思慮深い人ならば、どうしても
「まさか…そんなことがありうるのだろうか!?」
との思いがあって当然であろう。

わたしも実のところ、「これが本当にほんとうだろうか」という
自省の念で以て、いままでこの方法論で、学史一般について研究してきたのである。
今のところの答えは、「本当にほんとうである」とお答えしておきたい。


たとえば、一般の読者にわかりやすい例でいうなら、
人間の発生段階のことを考えてもらいたい。
人間のからだは受精卵から胚、胎児という形に生成されてゆくが、
胚の段階はウニとさほどかわらず、その後尻尾のある魚類、両生類をなぞらえるような形態のあとに、人間らしい形になってゆく。

一言でいえば、
「個体の発生は、系統的な発生を、それを短縮した形で繰り返している」(ヘッケル)
のである。


これは、生物の体の成り立ち方についての学問について言えることだが、
それを一般化して、他の分野についても言えるものと思ってもらえるとよい。

◆◆◆

こうして、歴史的一般性という考え方を押さえておくと、たくさんのことが推論の段階で明らかになる。
もちろん、これは一般性であるから、その先の特殊性については専門的な修練が必要になってくるが、グランドデザインとしては揺らぎないものができてくる。

たとえば、「文学」を専攻するのなら、
まずは「文学史」を修練した後に、
あるものが文学という形をとるようになり、
それが現時点までの発展を遂げてきたという、
生成と発展の過程を追ってみて、
その歴史的一般性が、
自らの「文学」という像をより深化させるかたちで修得しなければならない。

この考え方は、そういう、
どうしても避けては通れない、
避けてはホンモノになれるはずのない方法論を、
論理的帰結として、現前に浮かび上がらせてくれる。

もっとも、
その経過がなければ、「ほんとうに良い文学」がどれかすら、わかりようもないのだ。

これは、どの分野でも、まったく同じである。

◆◆◆

付言しておけば、
ここで強調したいのは、個々別々の歴史的な知識が重要なのではない、ということだ。

アレキサンダー大王にナポレオン、織田信長の出生や業績をどれだけ知っていてもダメなのだ。
むしろ、そんなものがありすぎると、論理性の修得には邪魔にしかならない。
(これはいつもくどくど注意していることだけれど)

あくまでも、論理性の修得に必須なのは、
壮大な人類の流れのうちの、自らが専攻する分野の歴史の流れ、である。
(ただ注意してほしいのは、たとえば生物学についての歴史という場合には、
生物の歴史と、生物学史という、相対的に独立した二つの側面があるということである。)

ここを勘違いすると、「必然的に」脇道にそれてゆくので、重々注意を重ねてほしい。
歴史的人物ともなると、週刊誌のゴシップ記事的な知識を大量に収集する方がおられて、
その博覧強記ぶりはたしかに驚くべきものなのだが、
あれは専門家ではなく、単なるオタクなのだ。


高度な弁証法という論理性が、かなりの正確さで先を見通す力となっていることは、
哲学者ヘーゲルが、科学など萌芽にすら達していない200年前の段階から、
すでに「この先出てくるであろう、研究の必然性のある」分科された学問、
つまり科学を予言していることを見れば、一目瞭然というものである。(『エンチュクロペディー』)

◆◆◆

蛇足であることを重々承知で、
念には念を押していっておくけれど、
「弁証法は最高の法則だ」などといって、「否定の否定は西欧と東洋の変遷を指しているから、アメリカの次は日本の時代だ!」などとと占い師ばりに主張している方がおられる。

この時の落胆を、察してもらえるだろうか?
この人たちは、自分がメシを食うためなら、先達をコケにし、後進をダマして、人類に唾を吐きかけるような真似をしてもよいと思っているのだろうか…
学問という以前に、人間としての尊厳を、どこかに置き忘れてしまったのだろうか。

こういう方は次に、「弁証法なるもの」を捨てて、まったく違ったことを言い始めるはずだ。
なぜなら、こんな占いまがいの「弁証法なるもの」なんていうものは、なんの役にも立たないからである。
この予言は、十中八九当たる。
少なくとも、そういう人たちの占いよりも、はるかに高い確率であることは間違いない。

みなさんは人間扱いされたいなら、くれぐれも真似をしないでいただきたい。

◆◆◆

お聞き苦しいことを、申し訳ない。

さて、わたしは上で、
人類全体の大きな流れと、個人が「わかった!」となるときのごく小さな流れを、
同じやり方で理解してしまってもいいのかと聞かれたら、
これが答えになると言っておいた。

「一般的には」ということわりを入れれば、それで良い。


この意味していることがわかるだろうか。

これは言ってしまえば、
大きな歴史の流れから導かれた法則である「弁証法」と、
個人の精神の構造を扱う「認識論」は、
同一のものなのか、
という問いにも繋がっている。

この問いに答えるなら、「一般的には」、同一であると言ってよい。

◆◆◆

「一般的には」と括弧書きしたことの裏を読めただろうか。
<対立物の相互浸透>を働かせて、読み返してほしい。


そう言ったことの答えはこうだ。
「一般的には同じ」と断るからには、
「特殊的には違う」と言っているわけである。


さて、ではどういう意味において同一であると言って良いかといえば、
これが答えということになる。


人間の精神の土台となっている身体の、物質的な性格に規定されて、
その精神の構造の中に、弁証法が顔を出す。

しかし身体は精神ではなく、逆から言えば
精神とは身体の非常に高度な働きを指す。
そういう意味で、「弁証法」と、「認識論」は、意味を異にするのである。


ここが、「認識論」というものの、出発点、ということになる。
ここから、認識論の研究をすすめることを、お願いしておきます。

1 件のコメント:

  1. >一言でいえば、
    わたしたちは「歴史性」に基づいて物ごとの正しさを判断している、ということだ。
    「論理」というのは、そのことに付けられた名前に過ぎない。

    『なるほど~』、そうですね !
    指摘されないと気付けない事が…
    あまりに多すぎて困ってしまっています。

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