2011/02/17

どうでもよくない雑記

なんでも、アニメなんかの文化を規制するかしないかとかでモメているらしい。


話を振られたけれども、騒々しい話題はとっても苦手なので、
わたしとしては、こういう話題は
之にて御免
という意味も兼ねて、思うところを書いておく。

この前の記事「文学考察: 火事とポチー有島武郎」の、
「人間は、人間として育てられて始めて人間足り得る」
という命題についての補足にもなっているので、興味ある方はどうぞ。

◆◆◆

さてこの論争についてひと通り調べてみると、メディアなんかは面白がって、
「都議会と出版社とファンのどっちが勝つか」とか、
「言論の自由は保証されるか」などといって煽り立てているようである。

テレビをはじめメディアというのは、どうしてこうも喧しいのか。
わたしは幼い頃からテレビが生理的に受け付けず、
両親が番組を見始めると個室の扉をバタンと閉めて、
ひとり静かに図鑑を眺めたりしていたのだけど、
いまだにテレビのやかましさには免疫がない。

そもそも人間が動物と袂を分かつのが、
「目的をもって行動をするかどうか」であるという点に照らしていえば、
目的もなくだらだらテレビを見るというのはまさにサル並み、である。
(だから、目的を持って見るテレビは好きです)

悪口はさておき、やっぱり解せないのは、
今も昔も、わたしには彼らのやっていることが、
どうしても「小学生の喧嘩にしか見えない」からである。

いまでははっきりとどこがいけないのか説明できるが、
あんなふうに、あれかこれかの二元論や、問題を一般化しすぎては、
でる答えも出なくなるに決まっている。

◆◆◆

真理というのは、ある条件があってはじめて成立するのが、弁証法の教えるところである。
ガラス片は、指輪の素材としてあつらえられてはじめて偽物になるのだし、
包丁は、悪意のある人間の手にわたってはじめて凶器になるのである。

その条件を無視して、ガラス玉を規制しろ、包丁を無くせというのは、
子どもから見ても「それはおかしいだろう」と思われて当然である。

問題は、それが感性的な認識からのぼって、理性的な認識として受け止められ、
周囲にも真っ当に伝える能力があるかどうか、というところである。
(もっと勉強したい読者へのメモ:感性的な認識がある一面の真理を捉えているのは、人間が個々ではなく全体として歴史を生きているという前提からして当然である。それが端的な形で顕れているものに、「ことわざ」や「格言」というものがある。感性的な認識を論理的に捉え直して理性へとのぼる過程を要すると、<否定の否定>ということになる。)

子どもであるなら、「おかしいと思うけど、うまく説明できないなあ」
というところでくすぶっていてもやむなしというところかもしれないが、
わたしたちはもう大人なのだから、ある程度の論理の力というものは、
まともな意味での常識として身につけておかねばなるまい。

◆◆◆

さてもともとの問題は、
「年頃の子供に残酷な、また性的な描写を見せるべきかどうか」
というところであったはずだ。

なんでも、都知事は、かつてどこぞのエッセイで、ご自身の教育論(?)を展開し、
「我が家では、子どもの見えるところにも、裸婦画を置いている。
なぜなら、大人の価値観で、子どもの発育を制限するのはあってはならないことであり、
彼らの自由に任せて、感受性を発達させていくべきだというのが私の考えだからだ」
といった趣旨のことを言っていたらしい。
(「らしい」と言ったが、伝聞ではなくエッセイのスキャンが実際に出回っている)


ファン側が、彼のこの発言を取り上げて、
「昔はまともなことを言っていたのに」と指摘したら、
彼は彼で、「あれは間違っていた」とのことらしい。

どっちもどっちである。

◆◆◆

個人攻撃はまったく本意ではないし、
タマゴ派にもニワトリ派にもどちらに組するのも苦手だから、
以下に焦点を絞って、その「考え方」について考えよう。

はたして、
「子どもの自主性に任せて好き勝手なことをさせていれば、
まっとうな大人に育つのだろうか」
ということである。


結論からいえば、「そんなわけがない」、である。

えてしてまっとうに育った人間ほど、
「自分がどう育てられたか」というところに目を向けないから、
その過程をまったく無視しがちである。

そうするといきおい、すでに完成された自分の立場からして、
「私にできるのだから、同じ人間であるお前にできぬはずがない」とばかりに、
初心に、また年端も行かぬ子どもにたいして、同じ振る舞いを強制してしまうのである。

◆◆◆

この問題を、身近なところに例をおいて、考えてみてもらいたい。
(それぞれベクトルの異なるようにみえる例示をしたのにも意味がある)

入門10年目の剣士に秘伝書を授けて、まともに身につくかどうか。
優秀な打者が、優秀な監督になり得たか。
幼稚園児が決めた「恋人」と、結婚させるべきかどうか。
生まれたての赤ん坊に、生野菜を与えるべきかどうか。


ここまで言えば、
「子どもに裸婦画を見せて、まともに捉えられるかどうか。」
ましてや、
「裸婦画によって感受性が養われるかどうか。」
というのもなんとなく、どういう問題かがわかってくるのではなかろうか。


「ナンセンス極まれり!」というのが実感であろう。
その実感は、間違っていない。

◆◆◆

結論や、立場が間違っているかどうかなどという物事の見方では、
絶対にまっとうな答えなど、でるはずもないのである。
これは、内容というよりも、いわば問いかけの形式そのものが間違っているからダメなのだ。

形式が間違っていても、見かけ上では正しい答えが導きだされているように見えることもあるが、そんなものは、宝くじが当たったから人格的に優れていることが証明された、などと言っているのと同じである。


物事には、必ず過程があるのだし、過程を含めて考えなくては、まるで意味がない。

過程を踏まずに教育するということは、単に「背伸びする」ということを越えて、
「間違った土台を創り上げてしまう」ということを、理解しておきたいものである。

ある発展途上国の路上で、大人が何をしており、それが次の世代にどういった影響を与えているか、などを、こどもの認識の面から考えれば、それなりの答えは出そうなものであるが…とても酷すぎて、具体的な指摘をする気にはなれない。

◆◆◆

ここまでが、わたしが有島武郎『火事とポチ』の記事で、
「人間は人間として育てられてはじめて人間たりうる」
といったことの中身の、簡単な紹介である。


土台というものは、ゼロのところから積み重ねられてゆくのだから、
人間の教育というものは、
生理的な観点からすれば、母体の維持が重要視されねばならないのだし、
認識論的な観点からすれば、「おぎゃあ」と産声をあげた瞬間が、
赤ん坊にとってはもっとも、これ以上なく最も重要なのだ、とわかってくるはずである。


またここから、以前に
「人間は20代を越えてからは、まともな土台を作れなくなる」
と言っていたことの理由も読み解いてもらえただろうか。


要すると、「教育ほど、勉強が必要なものはない」。
そしてそれは、大きな組織で後進を指導する立場にあるほどに、輪をかけて重要になってくるのである。

その努力なくして、
「現在の私が立派だから私の考え方も立派であり、それに従えば子どもも立派になる」
のが根本の教育論(?)など、笑止、というものである。
その考え方を「昔はまともなことを言っていた」と評するのも、同じことだ。

繰り返すが、過程を踏まえるのが「教育」と呼ばれているものなのであって、
大人の立場で勝手な意見をわめき散らすのは、子ども不在の「無教育・反教育」である。


過程について目を向ければ、どんな立場に立っていても、
それなりの意義ある議論はできるのである。
両者ともに、そういった観点を持たれることを願って止まない。

◆◆◆

老婆心ながら蛇足を重ねて恥をさらしておくと、
こういったことを繰り返し説明しまくっているというのは、
手を変え品を変え説明しているところを大きく捕まえて、
「原則をしっかり踏まえていれば、どんなに新しい問題を解くときにでも、
そこに一旦降りて、それを問題意識として持った上で登り直してみれば、大まかな推測は立つのだ」
ということを、実感として持っておいてほしいからである。

「そもそも、〜とはどういうものなのか」と原則を考える必要があるのは、ここである。
時代が複雑になったから、「人間とはなにか」がわからなくなった、
などと嘆息まじりに開陳するのが趣味の人間は、絶対に指導者になってはいけない。

そうであるから、原則の正しさは、吟味に吟味を重ねて、
実際の物事につきあわせたのちに導かれねばならないことにもなる。


上で述べた人間というものの大命題というのは、
わたしの単なる思いつきではなくて、
またどこかの教育論者の持論を横滑りさせたわけでもなくて、
歴史的に人類が獲得してきた一般性を、
自分の目で歴史を、また学生たち、育児を通して確かめ捉え直してきつつあり、
この先もそうする努力だけは怠らぬと誓っているものである。

道半ばの身なれど、大人の視点から見た勝手な解釈などではないことを付言しておきたい。


子どもをすこやかに育てていいお母さんになりたい女の子、
子どもに尊敬される人間になりたい男の子はじめ青年諸君は、
教育についてだけはきちんと勉強してくださるよう、お願いしておきます。

これに比べれば他の勉強はどうでもよい、
と言えるほどに、人間にとって大事なことなのですから。

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