2011/02/25

認識における像の厚み(4):「学ぶ」とはどういうことか

◆つづき◆



わたしは無宗教だが、中身はそういった、いわば宗教的な人間であった。
中身が宗教的だったから、宗教という衣が必要なかったとも言えるかもしれない。
ともかくそうして確実な原理を探しに探して、途中には寄り道も相当してきたと思う。

たとえば、評論家である「小林秀雄」、考える人である「池田晶子」両氏の著作はすべて読んで、
彼らのなかに、どうしてこうも強い一本の筋が通っているように見えるのだろうか、と考えてきた。

一行ずつ彼らの考え方を追って、まずある言明をノートに書き写して、
そのあと、「次の行を自分の力で書けるかどうか」を必死で考えて、本文に向かい直して答え合わせをした。
繰り返していると、答えをまる覚えしてしまうことになり、これはいわばカンニングなのだから、
そういう知識的な習得をしてしまった場合には、別のところから読みなおした。

当時の私は「論理」なるものの像を明確に掴んではいなかったけれども、
こうしなければ、彼らと同じレベルにはとても上って物事を見れない、と思っていたからである。

◆◆◆

彼らはその主張が相当程度に一貫しているだけに、
そうする努力をしながら数冊の本を読みきってしまえば、のこる数十冊というものは、
テーマを一見すれば「ああきっと、この人はこう言うだろうな」との予想が立てられることになるわけである。
そうして、彼らの像が頭の中にできると、現実の世界で困難にぶち当たったときに、
「あの人がここにいたら、きっとこんなふうに考えて、こう行動するはずだ」とわかるようになってくる。
読書後の散歩などは、頭の中の彼らの像と、議論しながらの楽しいものであった。

ここまでの、第三者の表現をたんねんに調べることを通して、
その認識の過程、つまりその論理性を手繰り寄せてくることこそが、
認識の厚みを増すための、重要な修練である。
唯物論的弁証法で呼ぶところの、<観念的二重化>がそれである。


しかしこうして深く学んでくると、いつしか、解けない問題が出てくるのである。
そうしてこの考え方では世の中のことを正確に説明しきることはできないのではないか、
という疑問が、少しずつ膨らんできて、いつしか明確な問題意識となってくるのである。

これはもしかして、このやり方ではいけないのかもしれない…

そうすると、自分の解きたい問題についての答えが、そしてまたヒントすらが、
彼らの著作のどこにも見当たらない!という、厳然たる事実を突きつけられることになる。

ではどうするか。
いままでのやり方にしがみつくか、それとも新しい原理を探し求めるか。

わたしたちが先達から文化遺産を受け継ぎ、未来のためにやるべきことは、ここから始まるのである。

◆◆◆

いまでならその理由がはっきりわかるが、
彼らのものの見方を森羅万象に適応しようとしたときに無理がある理由は、
彼らの立場が、「観念論であり、しかも、形而上学的の域を出ないこと」、このことにつきる。

現実的に言い換えれば、「誰かを精神的に納得させてあげることしかできず、しかも、解けない問題があまりにも多い」、ということになる。たとえて言えば、好きなことがどうやって決まるのかが説明できない、と直接に、嫌いなことが未来永劫嫌いなままであるとしか言いようがない、などである。

こう言えるようになったのは、彼らをはじめソクラテス・プラトン、カント、ヘーゲルらの著作を通して、
その論理をつかみとり、観念論的形而上学を自分の一身に繰り返すようにみたあとで、
アリストテレス、マルクス・エンゲルス、三浦つとむら、唯物論的弁証法を命を捧げて探求してきた大先達の著作をも、
そうしてあるていどの期間をかけて読んできたからである。

そのなかで、弁証法が形而上学よりもあらゆる意味で上にある論理なのであることはたしかであることはわかった。
しかしそれでは、唯物論と観念論はどういう闘いの歴史をもってきたのか、
という問題が残るから、その問題意識をもとにして、哲学・科学の歴史の探求を始めることになっていったのである。

その経験から引き出してきた答えは、わたしのこれから生涯をかけてやりたいことにぴったりあうのは、
唯物論的弁証法、これしかない。ということだったのである。

◆◆◆

そうであるから、問題は、どれだけ沢山の本を読んだかどうかではなくて、
「どれだけ深く学んだかどうか」というだけの話である。
一言で言えば単純でありふれたこの真理に、人はどうして気づかないのであろうか。
どうして、こういった姿勢が身につかないのであろうか。
わたしは、まったく不思議で仕方がない。

もっともわたし個人の場合で言えば、これだけの期間をかけて、
学問史を探求できたのには、ひとえに、
「物事を本質的に考えるという姿勢自体が、誰からもまるで相手にされてこなかった」
という大きな理由があるのであるが。

あの失意の日々を、無下にしなかったことは、返す返すも奇跡的だと言うほかない。
ここについては、自分だけの力とは思えぬ、不思議なめぐり合わせや縁が、
あわや折れんとする自分の心を支えてきてくれたものだった。感謝の言葉もない。

◆◆◆

さて、止せばいいのに身の上話も交えてしまったので、思わぬ長い話になってしまったが、
読者の理解の一助になれば、わたしの恥も忍ばれるというものである。

わたしが「ガックリする」というのは、あらゆる本や、あらゆる人間の生き様を目の当たりにするに、
こういったような、「深く学ぶ」という姿勢がまったく見えないことである。

打ち込みをしろと言ったのに、言われたとき、見られているときにだけして満足する、
類まれな才能があったのに、儲け話に乗って駄作を書き散らかす、
自身の無知を逆手にとって、若手の研究を前例がないだのとこき下ろす、
先達の偉業をとばし読みして、「マルクスは死んだ」などとのたまう、
自他共に認める天才であったのに、万能の天才だとばかりに点々と職を変える、
嫌われるのも厭わず忠告したら、なんだかんだと理由をつけて今はやらないがあしたやるあしたやるの一点張り、
胃の痛くなる思いで強く叱ったのに、なおも同じ不誠実を見せる…
などがそれである。


結果を出さないからダメだというのは、物心ついてから、絶対に言ってはいけない言葉として胸のうちにある。
まともなことをして正当な結果が出るというのは、常識的には考えも及ばないほどに、苦難の道をその過程に含むものである。
同じく、あの学生は才能がないからダメだなどというのは、「教育」者語るに落ちたというところで、文字通り論外である。


ダメなのは現時点の結果や才能ではなく、姿勢なのだ。

第三者の指摘や、自らの気づきのなかに、正しいものが含まれていると気づきながら、
なおのことそれらに目を背け、あまつさえそれに難癖をつけて真正面から受け止めない、その曲がりきった根性である。

そういうものを見たときの感想を要して、「ガックリする」。

◆◆◆

彼らはみな、素材に問題があったわけではない。
みな、ひとりの人間として立って歩けて、冗談が言えて、美味しいご飯が食べられる、いたって健康な人たちである。

そこからはじめて、人間としての誇りにかけて、
自分が生きた意味を人類の歴史に刻もう、
報われない教育を受けてきた後進のために自分だけは正しい教育しよう、
命をかけて、万人の礎となろう。

分水嶺があるとするなら、まさにここだけの話なのである。

いつ何刻そのことに気づくかということは、運もある程度左右するから自分で選べないとしても、
気づいたときには我が身を振り返って反省して、
ではいまから始めよう、
そう、思えるかどうかだけである。

誰でもできることなのだ。思い立ちさえすれば。

そこを、才能がなかっただの、世の中が悪いだの、自分の才能を認めない奴らが悪いだのと、
ありったけの言い訳を考えて、現在の自分をうまく説明するのである。
同じ努力ならば、向きを変えるだけで、全く違った世界が見えてくるというものなのに。


黒いカラスしか見たことがないから、白いカラスがいないという可能性を捨てきれないのは、
単なる未練がましさの表れであろうか、報われない楽観主義であろうか。

どちらにせよわたしは、
才能はともかく今日からは、
と奮い立つ後進のためにしか、生きようとは思えないのです。

1 件のコメント:

  1. 人類っていうわりには、私自身
    知識を詰め込まれたサルだなぁ
    と感じていましたが、
    もうちょっと、前45°を向いて
    歩んでみます。
    ありがとうございます。

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