2011/02/05

文学考察: おぎんー芥川龍之介

文学考察: おぎんー芥川龍之介


◆ノブくんの評論

 浦上の山里村に、おぎんと云う童女が住んでいました。彼女の両親は彼女を残したままこの世を去り、残されたおぎんはおん教を信仰しているじょあん孫七の夫婦の養女となります。三人は心からおん教の教えを信じ、村人に悟られないようひっそりと断食や祈祷を行い、幸せに暮らしていました。
ところが、ある年のクリスマスの夜、何人かの村人が孫七の家を訪れ、おん教のことがばれて彼らは捕らえられてしまいます。彼らはその後、その儘代官の屋敷に連れて行かれ、おん教を捨てされるべく、様々な責苦に遭わされました。しかし、彼らは一向に自分たちの信仰を捨てようとはしません。そこで代官は、一月彼らを土の牢に入れた後、焼き殺す事にしました。果たして彼らはこの儘焼き殺されてしまうのでしょうか。
この作品では、〈生きているとはどういう状態なのか〉ということが描かれています。
まず彼らは火あぶりにかけられた当日、全ての準備ができた後、ある役人の一人から「天主のおん教を捨てるか捨てぬか、しばらく猶予を与えるから、もう一度よく考えて見ろ、もしおん教を捨てると云えば、直にも縄目は赦してやる」と告げられます。そして、その言葉を聞いたおぎんの口から思わぬことが告げられます。なんとあれ程おん教を捨てることを拒んでいた彼女が、自分からそれを捨てると言い出したのです。これを聞いた二人は必死に彼女の説得に努めます。ですが、彼女の「お父様! いんへるのへ参りましょう。お母様も、わたしも、あちらのお父様やお母様も、――みんな悪魔にさらわれましょう。」という台詞を聞いたおすみ(孫七の妻)はおろか、あれ程意固地になっていた孫七も信仰を捨てる決意を固めたのです。
では、ここで最大の疑問は、やはりおぎんは何故信仰を捨てることになったのかということでしょう。そもそも彼らの論理性というものは、信仰であるものが善、そうでないものは悪というところに成り立っています。そして彼らにとって、信仰の為に命を捨てることは善であり、いかなる状況においても信仰を捨てることは悪であったはずです。ここまで読むと多くの読者は、尚更おぎんの決断に疑問を感じているはずです。ここで注目すべきは、「この眼の奥に閃いているのは、無邪気な童女の心ばかりではない。「流人となれるえわの子供」、あらゆる人間の心である。」というおぎんの表情について述べられている箇所です。つまり、察するに彼女は孫七達に信仰を捨てさせてまでも、生きて欲しいと考えているのです。
私たちは現在の世界に何故生きているのでしょうか。論理的に突き詰めても、その答えはでないでしょう。ですが、少なくとも生きていて良かったという感想を持っているからこそ、こうして生活していることは確かなことのはずです。しかし、そうであるにも拘らず、おぎんや孫七は信仰の為にその素朴な感想を捨て去り、死のうとしています。彼女はここに信仰というものの欠陥を見ているのです。私たちが生きていて良かったという感想を持っている限り、自ら死を選ぶことは難しいことなのです。

◆わたしのコメント

 物語をまるで理解出来ていないようです。このようなレベルのものを発表してはいけません。以下のコメントを参考に、慎重に、慎重を重ねて再読と、再度の評論をお願いしておきます。

 実の親が故人となり、敬虔なクリスチャンの両親のもとにもらわれた「おぎん」は、その宗教を理由に罰せられ、信仰を捨てるか、命を捨てるかという選択を迫られることになりました。カトリックと思しき彼らの厳格な規律によれば、命惜しさに信仰を捨てるということは、おん主に唾するが如き大罪であり、そのような誤った選択をする者は、悪魔の側に与したことになり、死後「いんへるの(inferno、煉獄)」へ堕ちることと同義なのです。しかし火刑が断行されようとするその時、「おぎん」は、こう言うのです。「わたしはおん教を捨てる事に致しました」、と。

 さて彼女が何をきっかけにそのような心替えをしたか、ということがこの物語の焦点となっています。彼女の命乞いの姿を見た育ての親たちは、その選択をなじり、悪魔に憑かれたのだと訝ります。それに「おぎん」が答えたところを見てみましょう。

「わたしはおん教を捨てました。その訣はふと向うに見える、天蓋のような松の梢に、気のついたせいでございます。あの墓原の松のかげに、眠っていらっしゃる御両親は、天主のおん教も御存知なし、きっと今頃はいんへるのに、お堕ちになっていらっしゃいましょう。それを今わたし一人、はらいその門にはいったのでは、どうしても申し訣がありません。わたしはやはり地獄の底へ、御両親の跡を追って参りましょう。どうかお父様やお母様は、ぜすす様やまりや様の御側へお出でなすって下さいまし。その代りおん教を捨てた上は、わたしも生きては居られません。………」

 どういうことが書かれてあるか、わかりますか。彼女は何も、論者の言うような「生きていることが素晴らしいと実感した」から、死を選ばなかったわけではありません。それどころか彼女が育ての親を追って死ぬ気でいることは、「おん教を捨てた上は、わたしも生きては居られません。」という発言からも明らかではないですか。彼女は、育ての親にも、生みの親にも、命を捧げても報いたいという、ある強い感情を持っていたからこそ、こういう選択を選んだのではないですか。

 彼女のこの発言と、その後に続く文をよく読んで、この物語が一体どういうものなのかをしっかりと把握してください。作品を流し読みして曲解した上に、わけのわからない空想に浸り、あまつさえそれを反省せずに表現してしまうことは、絶対に看過できません。文学作品を読み違えたからといって、誰も傷つきもしないし誰も死なないとたかをくくっているのかもしれませんが、たとえば医療の現場でこれほどの踏み外しを行えば、どういう結果が待っているのかということくらい、想像できるはずです。こういった大きな過ちが、重大な結果を引き起こさないことは、文芸作品というものの在り方に助けられているに過ぎないことを肝に銘じてほしいものです。

 この失敗から逃げては成長できませんので、しばらくはこの作品についての評論が書けるまで、何回でもやりなおすべきです。わからない箇所や、不安な箇所があれば、逐次聞いてください。次回もこの作品にたいする評論とし、経過をみましょう。

1 件のコメント:

  1.  「ノブくんの評論」は悪くないと思います。少なくとも、上から目線で偉そうに批判する御仁の文章にはない、一生懸命さが感じられますーー面と向かっては決していえないことを書いてしまうという点で、電子媒体には怖さがありますね。多分、件の御仁も今は「書きすぎた」と思っていることでしょう。

     さて、文学作品の解釈には、書かれていることをベースに、書かれてはいないこと、つまり「行間」を読み解く巧みが必要かもしれません。ある読者がある瞬間において下した結論は、ある意味でとても大切です。しかし同じ人が同じ作品を年齢を重ねてから読めば、また違った結論を誘導するであろうことは想像に難くありませんね。作品をどこまで味わうことができるかは、読者の年齢や経験で決まることですから、解釈に正解・不正解はないと思います。
     この作品の場合、「行間」をどこに求めるかも色々あります。比較的単純なところでは、おぎんが教えを捨てることを宣言して、縄を解かれ、その理由を述べるまでに空間的、身体的状況が大きく変化すること、そして、その間にかなり長い時間の経過(5分くらいでしょうか?)があったことを勘案して、おぎんの気持ちの変化を読み解く必要があるでしょうーーもちろん、縄を解かれた後に発した言葉(理由)が、後付けのデマカセであるということではありません(それも一つのとらえ方かもしれませんが)。ただ、縄に縛られた状況と縄を解かれた状況で、同じ精神状態でいられるはずもないわけです。記述がないからこそ、この精神的な変化を考慮することで、書かれているもの以上の解釈ができることでしょう。
     この小説はおぎんが「何故信仰を捨てたのか?」に焦点を当てて議論されることが多いですが、それでは小説の前段に書かれている内容は意味のないことなのでしょうか?おぎんは自分が実の子でないことを知りながら、育ての親に養われてきましたが、これに関わる精神状態の描写がありません。これも「書かれていないから無視」してよいことではないと思います。この点を考慮に入れると、「何故信仰を捨てたか?」についても、おぎんの発した言葉以上の考察ができるかもしれませんね。
     他にも考慮すべきヒントを挙げておきましょうかーーおぎんがいわゆる「よそ者」である点、実の親と一緒に暮らした期間(養父母と一緒に暮らした期間)、実の親が亡くなったときのおぎんの年齢、ラストシーンでのおぎんの年齢などです。特に年齢のファクターは重要で、おぎんが大人の判断ができたどうか、精神的な意味で大人になっていたかどうかについては解釈が分かれるかもしれません。

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