2011/02/14

文学考察: 勝負事ー菊池寛

文学考察: 勝負事ー菊池寛



◆ノブくんの評論
 著者はある一人の友人から、勝負事についてこんな話を聞きました。「私」の家では勝負事に関してどんな些細なことでも戒めてられていました。そして、ある時「私」は何故自分の家が勝負事に厳しいのか知ることになります。それは、「私」が学校の修学旅行を目前に控えていた頃の話です。当時、「私」は修学旅行を楽しみにしており、どうしても同級生と共のそれに行きたい様子。ところが、「私」の両親いわく、「私」の家は貧乏で「私」を修学旅行に行かせてあげられるような余裕はありません。更にその貧乏になった原因は彼の祖父の勝負事にあるというのです。一体どういうことでしょうか。
この作品の面白さは、〈勝負事と祖父に対する印象の変化〉にあります。
そもそもこの祖父という人物は、元来「私」の家へ他から養子に来た人なのですが、三十前後までは真面目一方であった人が、ふとしたことから、賭博の味をおぼえると、すっかりそれに溺れてしまって、家の物を何もかも売ってしまったそうです。ですが、そんな祖父ものある転機が訪れます。それは彼の祖母の死に他なりません。彼女は祖父に対して、「わしは、お前さんの道楽で長い間、苦しまされたのだから、後に残る宗太郎やおみねだけには、この苦労はさせたくない。わしの臨終の望みじゃほどに、きっぱり思い切って下され』と、説得し、賭博を止めさせたのでした。以来、祖父は賭博らしい賭博は一切やっていません。
しかし、彼の晩年で例外がひとつだけあります。それは、子供の頃の「私」と藁の中から、一本の藁を抜いてその長さを競って遊んだ時のことです。この光景が、それまで悪いものとして扱われていた、勝負事と祖父の印象を一転させ、良いものへと印象を変えさせてくれます。そこにこの作品の面白さがあるのです。

◆わたしのコメント

 着眼点は悪くありません。ですが、それはいわば感性的な認識の段階に留まっており、整理しきれていないようです。またそのことが災いして、論理的な認識へと上ることが出来ていません。
 では、どこで足踏みをしてしまったのでしょうか。それを見てゆきましょう。論者は、主人公である「私」の家が貧乏になったきっかけである、「祖父」の勝負事癖こそが、この物語のキーワードであると気づいたのですね。そこまでは良いのです。

 さらに整理すれば、それは、二重の意味を持っていたのでした。
 ひとつに、前述した、「実家を困窮に陥らせた」という、勝負事の負の側面。
 ふたつめには、物語の終盤で、「祖母」の遺言に従って勝負事から足を洗った「祖父」が、「たった一回の例外として『私』と行ったという勝負事」です。

 そうすると、この物語における「勝負事」ということばには、二つの側面が分かちがたく結びついているということになります。
 このことを、何というのでしたか。


(結論を読む前に考えてください。わからなければ、教科書を読むこと。)


 それは、ある物事には異なる側面の、切り離せない性質が共存している、ということです。一言でいえば、<相対的に独立>している、ということなのでした。(<対立物の相互浸透>、という答えでも、内容がわかっているなら正解をあげられます)

 ここまでのことが導き出せていれば、自身の創作活動の時に、その論理を使って、同じ論理性を持った小説を書くことができるはずです。
 わたしたちはこれまで、「創作活動のために、文学作品からその論理性を取り出す」という問題意識を持って、300本ほどの小説に向い合ってきました。それらはすべて、三浦つとむの教科書に書かれている以上の論理は使われていなかったのですから、もし読み取れていない論理があるとすれば、教科書からまだ学べていないことがある、と考えねばなりません。問題意識を忘れず、精進を重ねてください。


【誤】…一見してわかるものは、以後訂正を省略します。誤字脱字は思想性の欠如であり、読者にとっての不誠実と受け止めてください。
・「私」の家では勝負事に関してどんな些細なことでも戒めてられていました。
・わしの臨終の望みじゃほどに、きっぱり思い切って下され』と、説得し、賭博を止めさせたのでした。
・ですが、そんな祖父ものある転機が訪れます。

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