2011/02/03

文学考察: 元日ー夏目漱石

文学考察: 元日ー夏目漱石


◆ノブくんの評論
 この作品で、著者はタイトル通り、元日について論じています。そして、そこには元日に対する、彼のある〈違和感〉が描かれています。それはめでたくもない元日に、世間の習慣に合わせてめでたいように振舞わなければならない、ということです。また彼はめでたく振舞う事によって、かえってめでたくなくなるのではないか、とも考えています。その例として、著者は昨年の自身の随筆の中で、元旦について何も浮かばなかったので、一昨年の元旦の自分の恥を告白しなければならなかったことを明かしています。
さて、確かに彼の言うとおり、確かに自分の気持ちを周りに合わせようとしてかえって失敗してしまった、ということは私たちの生活の中にも潜んでいます。例えば、あなたは異性の友人の結婚式に呼ばれ、仲人を頼まれたとします。当然、あなたはその友人のため、必死でスピーチを練ってくることでしょう。そして、当然他の友人達と同様、めでたいように振る舞います。ですが、その友人があなたがかつて淡い恋心を抱いていた相手だったとしたら、果たして心の底から祝福できるでしょうか。勿論、式の最中にそんな素振りを見せることは出来ませんので、表面は楽しく振舞うでしょう。しかし、その内心は穏やかなものではない筈です。ましてや本心から喜んでいないにも拘らず、他の友人に合わせて彼女を祝福しなければならない立場にいるのです。素直に自分の感情を表現できないということは、通常のそれとは比べ物にならないほど辛いはずです。少し、レベルは違う話ではありますが、このように私にとって、自分の気持ちを無理やり合わせようとして、かえって失敗するということは稀ではない話なのです。

◆わたしのコメント

 一般性も例示も正しくありませんが、作中にある「かえって」という論理構造に眼を向けたことは評価できます。

 この作品は、夏目漱石の元日にたいする雑感を述べたもので、雑感というからには、その主張というものもあまり明確ではないように思われます。そういう理由がありますから、はじめにその主張を整理しておきましょう。

1. 元日というものは、かつてはそれが御目出たいものだとされていたようであるが、現在では、その実景が乏しくなってしまった。そうであれば、その祝い方というものも、元日の実景にあわせて変化してゆけばよかったのであろうが、こと私の感ずる限り、祝い方だけが独り歩きしているようである。
2. こと新聞社というものは、その性質によって、元日の記事を準備するのは前年の年末なのだから、いきおい実景を伴わずに元日らしく振舞わねばならないことになる。ところが、そんなめでたいはずのことばをこぞって重ねてみても、その無理がかえって、元日をめでたくないものにしてしまってさえいるようだ。
3. もし世間が、元日という日も、他のごく平凡な日常と同じく過ぎてゆく日なのだと扱ってくれれば、私ももっと、力を抜いて記事を書けるのではないかと思う。なにも元日を祝うなというのではないが、現在の実景に合わせた祝い方というものが、あるのではないだろうか。

 論者が着目していたのは、2.に表れている、めでたいもののめでたくないものへの転化、つまり対立物の両極が反対物へ転化するという「対立物の相互浸透」だけです。
 しかし、夏目の述べていることのなかには、1.「元日というものが、歴史的な過程を持ってきたことの結果、現在では、その扱われ方と内容の矛盾として現象している」ということが含まれています。そうであれば、論者の挙げた結婚式の例は、的確な例示とは言えません。論者が、「少し、レベルは違う話ではありますが」と遠慮がちに断らねばならなかったのは、このことが理由となっています。

 かつては正月らしい振る舞い方、裏白や鏡餅、角松などの作法に意味が伴っていたものの、歴史的な過程でその意味が抜け落ち、作法だけが残ったわけです。これらの論理構造を一言で要すれば、「手段の目的化」などとでも言えば良いでしょう。そうすると、そういう問題意識を持って、論理構造を同じくするものごとが、身近なところのどこかにあっただろうか、と考えてみれば良いことになりますね。


【正誤】
・確かに彼の言うとおり、確かに自分の気持ちを周りに合わせようとして
 …「確かに」の重複

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