ノブくんへの前回のコメントの補足です。
一般性を引き出す上での、<形式>についての理解がまだ足りていないことがわかりましたので、
もっと基本的なところから論じ直しておきます。
ただ残念ながら、<形式>について彼が「どのようにわかっていないか」がまだ完全には特定できていません。
これが判明しないまま無理に進めても、また定着せずに終わってしまうので、ここまで戻ることにしました。
話としては、本人には以前、口頭でお伝えした「レベル」の話の次に来るはずのものです。
※ほかの読者のみなさんにご説明しますと、こんな話です。
「Q. 次のもののうち、概念のレベルが違うものを選びなさい。
猿、犬、チワワ」
答えは当然「チワワ」のはずですが、これが当然でないから大問題なのです。
この程度の問題であれば、ほとんどの方々は馬鹿にする気か!?、と思われるでしょうが、
現在の義務教育では、「論理」を直接教えられる科目は、陰も形もありません。
物事を論理的に捉えられるかどうかは、個人個人の自然成長に任せっきりですので、
この延長線上にある「より高い論理」の話になると、手も足も出なくなるのが通常です。
証拠を挙げれば、「人間の性質を決めるのは生まれか育ちか」という問題について、
科学・社会科学の専門家の間で喧々諤々の議論が交わされながらも、
いまだにどうすれば解けるか、という方法すら見つからない有様が、それを物語っています。
(三浦つとむが、「専門家と呼ばれる人の中にも、物の見方が常識的な範囲に留まっている」場合がある、
と指摘しているのはこのことです。)
あの問題が問題のように見えるのは、大きくいえば論理性が不足しているためであり、
すこし小さくいえば学問の土台となる世界観についての理解が不足、というかまるでないためです。
また、一流大学に入るために知識的な勉強をつめ込まれた学生のなかにこそ、
この欠陥が横たわっていることを指摘しておきます。
もちろん、そう言われて素直に認める人はとても少ないのですが。
そのぶん、自分の馬鹿さ加減を身にしみて承知している人たちのほうが理解が進みやすいのですから、あきらめないでください。
さて、では進めます。
<形式>ということばの像を明確にする、という問題意識を持って読み進んでください。
◆◆◆
まず評論に限らず、作品を理解するときのことをおさらいしておきましょう。
文章一般の理解は、だいたいこのような手順になっています。
1. 本文を読む
2. キーワードを取り出す(慣れないうちは、本文をプリントした上で、直筆の赤線を引いてください。デジタルではダメです)
3. 導いたキーワードが正しいか、キーワード同士にどのような関わり合いがあるかを考えながら、1.に戻り、本文を読み直す
4. 1.~3.を何回も繰り返してゆく中で、自分の中に作品の像が固まってゆくと共に一般性としてまとまってゆく
一般性といえば、ことばは難しいですが、ある作品を人に説明するときに、
「この作品は<●●>ということを描いているんだ」というばあいの、
<●●>に入るような、作品を一言で述べたもの、と理解してください。
◆◆◆
さて前回のエントリーで、
その一般性を抜き出すときには、<形式>が大事です、と述べてきました。
『大辞泉』をひくと、「形式」の説明としていくつか載っています。ざっと読み流してください。
けい‐しき【形式】
1 物事が存在するときに表に現れている形。外形。↔実質。
2 物事を行うときの一定のやり方。事務上の手続き、儀礼的な交際などについていう。「―にのっとる」「―を踏む」
3 形だけで実質の伴わないこと。おざなり。「―だけのあいさつ」「―にとらわれる」
4 芸術作品で主題・思想を表すために、作品を構成する諸要素を配置・配合する一定の手法。
5 哲学で、事物や事象の成立・発現のしかたやその構造、またそれらの関係などを抽象したもの。↔内容。
このうち、わたしがいつも言っている<形式>に最も近い定義がどれなのかわかりますか?
それは、以下のものになります。
「芸術作品で主題・思想を表すために、作品を構成する諸要素を配置・配合する一定の手法。」
ここでは、定義をまる覚えしてもまったく意味がありませんので、
簡単にいえば外面をさすのかとだけ分かれば、それでかまいません。
◆◆◆
ここで<形式>について考えるにあたって、
ことばというものが、世界をこと分けるものだという性質を考えれば、
なにかとなにかをわけたからこそ、それを「形式」と呼ぶことになっています。
そうすると、それとなにか対になる概念があるはずですね。
それがなんなのかわかりますか。
結論からいえば、それは<内容>ということになります。
(多くの概念というものは、対のものと照らし合わせて考えてみることで、
より理解が深まることを覚えておいてください。<対立物の相互浸透>)
ここでは単純に、
<形式>というのを外側、
<内容>というのを内側、
を指しているのだとまずはイメージしてください。
言い換えるなら、
<形式>は容器、
<内容>はそれに注がれる飲み物です。
◆◆◆
ここでは<像>をまともに作ることが目的ですから、
思い切って単純化した上で例示することにしましょう。
たとえば、あなたが来客に飲み物をもてなすときのことを想像してください。
(かなり単純化しているので、ここでの例示は厳密な論理の追求には使えません)
そのときには、まず大きなボトルや酒樽に入った飲み物をどんな容器に注ぐか、
ということが問われるはずです。
大は小を兼ねるとばかりに、コーラをバケツに入れて出したり、
熱いコーヒーを哺乳瓶に入れて出せば、
客は憤慨するばかりか、当人の正気を疑われるはめになるでしょう。
ノブくんがまず誤りがちなのは、このレベルです。
(ただわたしが叱るのは、もちろん客と同じように感情的に怒っているのではなくて、
彼の独善的な姿勢やつめの甘さなどという思想性のなさに対してですが)
◆◆◆
ではどうすればいいかというと、
コーラはロックグラス、熱いコーヒーはやや口の狭めなカップを選ぶのが適切でしょう。
なぜ私たちが常識的にこういった判断をするかというと、
それが経験上「ぴったりあっているから」にほかなりません。
ここでは、容器と飲み物の整合性が問われているわけです。
評論に限らず文章表現においても、そういった<形式>と<内容>とのあいだの整合性は、
とても厳密に問われています。
もっと相手に対する理解が深まってくると、
「あの人は気の抜けた炭酸をいちばん嫌うから、コーラはもっと細いグラスのほうがいいかな」、
「あの人は猫舌だから、コーヒーカップよりも口広のスープカップくらいがいいかな」
などとわかりますから、それぞれ、より整合性を深めてゆくことができます。
◆◆◆
さてここまで断れば、内容にふさわしい容器を選ぶということが、
客(読者)にそれを届けるに当たっていかに大事か、ということがわかりますか。
中身は同じとばかりに、テーブルにどんと酒樽を置いても呆れられるのであって、
あくまでも<形式>と<内容>の兼ね合いが大事なのです。
そのことをわかっていただければこの例はここまでにします。
◆◆◆
次に、評論のばあいについて見てゆくことにしましょう。
ノブくん引き出してくる一般性について、直近の例を見てください。
<必然とはどういうことか>『あばばばば』
<生きているとはどういう状態なのか>『おぎん』
<恥とは>『おぎん』
わたしが、いつも彼の引き出してくる<一般性>を、
「一般的すぎる!」と叱るのは、彼のそれらがこういう形でしかないからです。
一般的すぎる形式 |
上で挙げたすべての例が、このような形になっていますね。
こんな単純な形では、作品を的確に表してるわけがありません。
あなたは、『走れメロス』も、『人間失格』も、「友人とは」で一緒くたに括るつもりですか。
だから、本文を読むまでもなく、「これはきっと間違っているだろうな」と判別がつくのです。
◆◆◆
では、わたしが芥川『おぎん』で模範解答として挙げた一般性を見てみましょう。
<命を賭して両親たちの恩に報いた少女の姿>
ここでは、一般性の形が、このようになっていることがわかりますか。
一般的なところから降りた、物語に即した形式 |
ここには、修飾語となる●●と、
それがかかる主部である●●、
それをつなぐ「~という〜」の部分があります。
(つなぐ部分は、「~的な〜」「~の〜」など表現を変えても働きとしては同じです)
ここでは、主部である●●に、●●という説明を付け加えることで、
より物語に即した一般性を導きだそうとしているのです。
この場合には、前の●●は「命を賭して両親たちの恩に報いた」であり、
後の●●は「少女の姿」です。
現在のノブくん流にいえば、後の●●しか作品から引き出してこないわけですから、
「少女の姿」や、「恩とは」などになるのでしょうか。
これではやはり、一般的すぎて、作品を理解したことにはならないことがほとんどのはずです。
場合によっては、より多くの修飾語がつくことになりますが、基本的な形が単純に拡張された形でしかありませんから、基本としてはこれでよいでしょう。
◆◆◆
それに対して、ノブくんの間違い方はこうです。
「一般性は、問いかけの形をとることが多い」とアドバイスすれば
「××とはどういうものか」という形にこだわりすぎるし、
「一般性が一般的すぎる」とアドバイスすれば
「××」の中に入る言葉を変えてくるのですから、
率直に言って、これは呆れ果てるほどの徒労にしかならないのです。
一言でいえば、「このやり方では、いくらやってもダメ!」なのです。
<形式>がダメなのだというのは、そんな些細な内容のことを指摘しているのではありません。
「××とはどういうものか」も「××とは」も、「×××とは」もすべて、
内容や細かな表現を変えただけであり、
「●●」という形式から一歩も出られていないのです。
<形式>というものの姿は、直接は見えないために、
像として把握できかねているのかもしれませんが、
まずは基本に戻り、作品から正しい一般性を引き出す、という努力を重ねてください。
それも、自分の力で出来うる限り、正確なものを目指してください。
それが、読者にたいする最大のおもてなしであり、
作者にたいする最大の誠意というものです。
簡単にいえば、「この作品をひとことで言うとどうなるか」と考えているだけなのですが、
これを踏み外してしまうと、その上にどんな積み重ね(評論)があったとしても、
すべて徒労に終わってしまうほどの重要事なのです。
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