2011/02/23

認識における像の厚み(2):弁証法の学び方

◆つづき◆



これはわたしの体験であるが、高校生の時にこんなことがあった。

あるとき、隣の席の友人に頼まれたことがある。
曰く、昨日はサッカーの試合を見ていて勉強ができなかったので、答えを見せてほしい。
カンニングの依頼である。
わたしはそれはお前のせいだろう、という思いもあったが、
まあ同輩であるし、結局は自分のためにならないのだからわたしの責任ではあるまい、という判断をしたのである。

ところが、教師とは学生が思っているよりもはるかに、物事を見る目があるものであり、
わたしの謀は自ずと知れることになった。

わたしは当時、実のところそれほど勉強はしなかったものの、
なにしろ人生の先達が授業を通して伝えてくださる後進への思いだけは、
一言一句聞き逃すまいという一心だけはあり、それは楽しく授業に臨んでいたものである。

そうであるから、先生からの評価もそれなりのものがあったと言ってよいだろう。
成績はといえば学年で4位ほどであったらしい(あとから聞いた話だが)。
ところが、そんな学生が、である。


このときは、普段手を出さない先生が、無言でわたしの頭を何十発も殴ったものである。
わたしは驚きのあまり、なにがなんだかわからないまま頭を垂れて殴られているうちに、
先生が無言であったことが余計にそうさせたのか、
どういうわけか掌からその先生の思いが伝わってくるような気がしてきて、
「ああ、なんという失礼なことを、なんというくだらないことで信頼を裏切ってしまったのだろう…」
という深い後悔の念がどんどん胸の中で膨らんで、惨めで馬鹿らしいのに泣くに泣けぬという、なんともいえぬ思いをした。

周囲は、その光景が、普段のわたしと先生の振る舞いからはまったく想像もできないものであったために、
一体全体どうしたのだ、と呆気にとられて掛ける言葉もない、といった様子であったと思う。

数年経ったあと、先生の思いと自分の馬鹿さ加減をよく理解でき、これからの人生に生かすべく決意したときに、
最大限の感謝の意を手紙でしたためたものであるが、今から思えば、わたしがあのとき、
「成績がとれているんだから人に見せたって構わないだろう、あれほど殴られて恥を受けた恨みを忘れまい」
などと思うような意味でのバカに育っていなかったことを、周囲に感謝したい思いでいっぱいである。

当時のことは、まさに「昨日のことのように」ありありと、目頭が熱くなって思い浮かべられるから、
自分の頭の片隅に、「ズルイことをして近道したほうがいいのではないか」、
「手を抜いたほうが理解されやすいし金になるではないか」、
「後進をほったらかしても自分が上に上がれるならいいではないか」、
などと、倫理的に劣る雑念が少しでも頭を掠めた時に、それを振り切ってくれる大きな思い出となっている。

◆◆◆

わたしの思い出話はこれくらいにして、
「無言で殴られた」という出来事ひとつとっても受け止め方は天と地ほどの差があるわけだから、
大体の場合には「認識の仕方が厚い」ということのほうが、
当人の本質的な発展が望めるであろう、というところまではおわかりいただけたと思う。
しかし、これがいざ認識を厚く作るにはどうすればよいか、という段になると、
まるでお手上げという場合が多いのではないだろうか。

なにしろここは、当人がわからないことをわかれ、と言っているようなものだからである。

これにはまずもって、
「お前にはまだ、わかっていないことがあるのだ。お前はそのことすら、気づいてはいないのだ」
ということを、身にしみて納得してもらうしかなく、
ここには、受け取り手の限界より少し上のことを指し示すための、ある種のしごきが必要となってくる。
そのことを通して、「お前はがんばったと言うが、まだまだそんなものでは足りないのだ」と、身体を通して教えるわけである。

ところがここにはまだ、ひとつの陥穽が大口を開けて待ち構えているのである。
それは、「自分にはわからないことがある」ということを、「知識的に」受け取ってしまう場合である。
もし受け取り手が生真面目な場合は、それが災いして、ただがむしゃらにあらゆる本を読みあさり、
あらゆる経験をすれば成長が望めるものと思い込んでしまうわけである。
しかし、これでは、本質的な成長につながらず、頭打ちになってしまうのだ。

であるから、「自分にはわからないことがある」ということを、
「お前には知識そのものというよりも、まずもって物を見る目がないのだ」
とわからせてやらなければならない。

◆◆◆

わたしのところでは、唯物論的な弁証法でもって、認識の像を厚くする指導をしているので、
初心においては、弁証法の三法則である、<相互浸透>、<量質転化>、<否定の否定>という法則を、
現実の身の回りの出来事に当てはめて考えることを通して、認識の像の作り方を整え、また深いものにすることを要求される。
わたしがいつも「論理、論理」とくどくど述べているのは、この「唯物論的弁証法」のことである。

ところが、ここでは、指導される側にこそ、大いなる困難が待ち受けている。
というのは、この修練が非情な忍耐を要求するからである。

とくに、受験勉強で知識ばかりを詰め込んできた人間にとっては、
考え方そのものを変えろなどというのは、いままでの人生は無駄なので全部捨てろと言われているようなものなのだから、
すこしがんばっても効果が現れないことを知ると、
「論理だかなんだかしらんが、知識的に解決できる問題を、なぜにそんなものが必要なのだ、
証拠に見ろ、今のままでも答えを出せてこんなに点数も取れるのだから、結果がすべてを証明しているではないか」
とばかりに、過程を踏み落としがちになってしまうのである。

しかしこれでは、古いものをすべて「記憶」できたとしても、
いざ自分が時代の最先端にたどり着いたかと思ったときに、すでに崩壊をはじめてしまうのである。
なぜなら、彼の功績というのは、先達の口を借りているにすぎなかったものだったのだから、
肝心の参考にする先達の背中が見当たらなくなった場所においては、なんらの力も発揮できない頭になっているのである。
古典の粗探しをして誤字脱字を指摘することが、文化の発展であると信じて止まない方はそれでいのかもしれないが、
自ら古典となるべく文化をつくりあげてゆこうとするときには、こんな姿勢ではいけないことになる。
こう言ってはなんだが、後進がこんな体たらくでは、参考にされた先達もやすらかに眠れまいと思うのだが。

ともあれ、三法則に従って日常生活を見るということの、砂を噛むような味気なさ!
これは、修練を途中で断念する理由には事欠かない精神的なきつさがある。

なにしろ、「ウチのおやじとおふくろの口癖が似ているのは、<相互浸透>というものか」や、
「筋肉トレーニングを一日サボったら衰えが実感できるのは<量質転化>なのか」や、
「ダムで作られた電力が我が家にも届けられるのは、<否定の否定>というものか」
などという気づきは、誰かに話して褒めてもらえるだけの成果が、それ単体としては出ないのだから。

褒められなければやらない、褒めてくれる人間が近くにいないとやる気にならない、
そういった種類の人間は、ここで早々と弁証法を投げ捨てることになる。

◆◆◆

弁証法的な発展段階をとおって認識の土台を作り、それと同時に精神面を高めてゆかねばならないところを、
肝心の精神面の不足という前提条件が災いとなって、それを伸ばしてゆくツールをも捨てることになるわけである。
つまらないたとえだが、体力トレーニングのために健康器具を買ったのに、使い方が難しくて諦めた、といったところだろうか。

しかしどうしても、これ以上は簡単に身につかないのである。
なぜかといえば、弁証法とは人類が歴史的に創り上げてきた最高の論理に与えられた名なのだから、
それが論理であり、つまり眼に見えないものであるがゆえに、
弁証法を弁証法そのものをとおして学ぶことはできず、
実体を媒介としてしか学ぶことができないのである。
絵画論を本で読んでも、肝心の絵を見る目も絵を描く能力も養われないのと同じである。

つまり、弁証法の三法則をモゴモゴと念仏のように唱えていたとしても、
まるで使えないどころか、一般人にすらキチガイ扱いされるという、
言われてみれば当たり前の事実を突きつけられることになる。

このことは、弁証法的に物事を考えられるようになった人間なら、当たり前の事実なのであるが、
それがまだ身についていない人間に、その気づきを要求することは無理である。

◆◆◆

ここを例えるなら、弁証法を教わったということを、
なんでも斬れる妖刀を師範から授かった、
などと形而上学的に同一視してしまう人間は、どうしてもダメになってゆくのである。

なぜなら、弁証法というものは実のところ、刀の設計図でしかないからである。
その設計図に基づいて、鉄を練り、槌で形を整え、自ら汲んできた水で刀らしく仕上げたあと、
とんでもない駄作に仕上がったことを恥じて、鉄を溶かしなおす、
という過程を何回も何回も繰り返しながら、ようやく刀らしい見た目になってきたなと、
その像を確かならしめてゆかねばならないことだからである。

それと並行して、自分で作った刀で実際に斬ってみて、
刀はそれなりだが自分に技がない、技が刀に追いついていない、
という相互浸透と量質転化の過程をくり返しくり返し持ってこそ、
まともな刀と使い手として育ってゆくわけである。

ここを、最強の刀をもらったから最高の剣士である、と短絡させては、
「こんなものはとても斬れぬ」ということで、刀を捨てることになる。
楽譜をコピーしたから練習しなくても音楽家になれるというバカはいないはずだが、
論理の修練の必要性については、残念ながらバカのほうが多いようである。

いちおうことわっておけば、ここが難しいと言うのは、
なにも「難しいからできなくてもよい」といっているのでは決してない。
ここまで言っても基礎を疎かにする者は、
どちらにせよそれなりの結果しか待っていないので、わたしの感知するところではない。

(つづく)

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