2011/05/22

ひとがつながっているとはどういうことか、の一側面と革細工

身につけるものは嫌いだけど、

スイス製の手巻時計。

愛用の懐中時計がある。

フォーマルな場に出るときでも腕時計はつけたくないから、これを持っていく。
使い始めてからもうけっこうになるので、細かな傷だらけ。

いまさらカバーなんか作ってもなあと思ってたけれど、
革の切れっ端ができたので、ちょっと考えた。

金具を使うと本体を傷つけるから、
なんとか革のテンションをうまく使えないだろうか。
(これを論理化できれば、はるかな高みまで登れるはず…)

で、これ。

◆◆◆

ただ、できたのはいいけれど、

本体を持ち上げると抜けちゃう。。
ちょっと大きすぎて、スポスポ抜けちゃうのである。

◆◆◆

で、どうしても大きすぎたりすると、結局こうなる。

ちょっきん。
革細工のいちばん面白いところは、革の柔軟性に助けられて、
はじめはキツキツだったものでも、使ってゆくうちに馴染んでくるところ。

わたしは木や石の彫刻も大好きであるが、
一旦削ってしまったものは、いや削れてしまったものも、
泣いても悔やんでも取り返せないそれらとは違い、
革の細工というのは、けっこう融通がきく。

ただし、融通が利くからと言って、
「革に甘える」のと、「革の味を引き出す」のとは、まったく違うのである。
後者は、偶然に任せず甘えず、出来上がりを完璧に意図して、つくり上げる。
革を縫い上げたあとに伸ばす作業を含めて、意図されている。
だから、いくつ作っても同じものができる。
前者とは、過程における構造のとらえかたが、まるで違うのだ。

ここをしっかりと意識できるのが、プロと素人の差というものであろう。

わたしは、いったん作ったものが完璧でなくとも、
まああとから伸ばしたりすればうまく整えられるなと、
気を抜けば逃げの発想が出てきてしまうから、まだまだ三流なのだな。

◆◆◆

しかし、彫刻の場合には、そうも言っておれない。

作業を横で見ていた家族に頼まれたので、15分ほどでつくった。
なぜそんなに早く出来るのかというと…(下の写真に続く)
それには、石と向きあう作業がどうしても必要だ。

作りたいものがイメージできたら、
店で買ってきた石を目の前に置いて、正面を見る。まわして、側面を見る。
もっと回して背面、側面、そして正面に戻ってくる。でも、また回す。
天地を逆にしたり、斜めに向けたほうがいいかとあれやこれやと考える。

じつに、実作業と同じくらいの時間を、
「石と向き合う」ことに使う。

なぜにそんなことが必要なのかと言われれば、石が天然のものだからだ。
そこには歴史が刻まれており、複雑な模様が走っているから、
表面に現れた斑紋を読み取り、
石の内部でそれらがどのように組み合わさっているかを像として持ち、
そこからどのようにすれば、自分の作りたいものの姿を、
完璧な形で掘り出せるのかと考えてゆくわけである。

わたしの知り合いの彫刻家から譲り受けた木彫りのフクロウは、
爪の部分だけ、とてもうまく、表皮の色が黒く出ている。
それも左右両方ともであり、これは奇跡的と言っても良い。
ご本人は、「運が良かったかな」と笑っておいでだったが、
もちろんそれはできすぎた謙遜であって、それだけのはずがない。

◆◆◆

(上からのつづき)というと、参考にできる型紙があるからである。
革工作において、型紙は理論だ。
iPhone 4の型紙を土台にして、3mmずつ縮めてできた。
ここにある過程というものは、
観念的な言い方をすれば、石と自分との共同作業であるから、
そこを延長させて、石にも精神があるのだということにすると、
これはもはや、
「自分がイメージに基づいて石を削っている」のか、
「石が自分にほんとうの姿を彫り出させている」のかが、
わからなくなってくる。

「観念的な言い方をすれば」と断れるのは、
作業が終わって後に、こうして彼我の区別がはっきりしてから
彫刻というものを振り返るから、そう整理することができるわけだが、
作業に没頭しているあいだともなれば、彼我の区別はないといってよい。

理性で整理したところの、人間が目的的に対象に向きあい、対象を自分化するとともに、自分を対象化するというきわめて弁証法的な相互浸透の過程を、
感性では「対象=自分」と、形而上学的にいっしょくたにしてしまうから、その混乱がおきるのだ。

人間が集中する、という動作の中には、
直感的な把握として、こういった彼我の一致という実感が現れる。
だから、芸術家は神と一体化する、宇宙に出逢う、あるものとひとつになる、
などといった表現が、さも真理のようにありがたがられることになるわけだ。

これは芸術家だけではなくて、スポーツでランナーズハイになったり、
武道である境地に達したとき、また学問で新たな地平がひらけた、
という実感が得られたときなど、あらゆる営みに顔を出す感触である。

◆◆◆

こういった実感は、それがあくまでも感性的な認識である、
という前提で扱われるのならまだしも、それが理性的に捉え返されずに、
直感で存在そのものを捕まえた、などと言い始めると、神がかってくる。

宗教的な信仰心をしっかりと持っている場合になら、
言い換えれば形の上だけでの盲信に始終していないなら、
いわばあえて、感性的な認識を、感性的な認識のままでより高い次元を目指すことになる。
そういった梵我一如の実感は、「仏に出逢う」などと一言で要されるしか無いのだから、
その内実をそれぞれがどれほど持っているかは、明確に確かめるすべがないのだ。

とくに禅というのは悟得を突き詰めるから、言ってみれば、
「自分だけでわかっておればよい」。

しかし、ここを後進に伝えようとする必要がある場合には、
「お前はお前でわかってよればよい、過程は勝手に埋めろ」というわけにはゆかない。
そういうわけで、本来ならばつかみがたい、つかもうとすると本質が逃げてゆくような感触さえある感性的な認識を、なんとしても理性的な認識へと移し変えて、それと直接に過程に含まれている構造を明らかにしてゆく作業が必要になるわけである。

自らの営みを未来へ伝えてゆくためには、
芸術なり学問なり、その道でもっとも先を走っている者たちだけにしか感じられないところを、なんとか論理的につかみとって理論化しなければならない。

そして、それを後進に伝えてゆかねばならない。

◆◆◆

「人がつながっている」という一語にこだわるだけで、
どれほど、どれほどに、問題は難しくなるか。

このことは、机の上で、かつての偉人たちの考えを組み合わせたり、
注釈を付けているだけの人間には、とてもわからない大難事である。

後進などどうでもよいというのなら、
神が見えた、宇宙とひとつになった、仏と出逢った、
といったあたりで満足していればいいのだが、
こんなものは、クスリでもやるか、
机の角にアタマでもぶつければ見えるほどのことでしかない。

感性が、理性でわりきれるものではない、
現実は、理論でわりきれるものではない、
そういった最高の逃げ口上が喉の奥から出かかるときに、
そのときにでも、自分を支える一念は、これである。

「わたしの後ろには、続く者たちがいる。」

本質的なところで人につながろうとする者ほど、孤独が身に染みる。
しかしその孤独こそが、人とつながるということである。

1 件のコメント:

  1. >「自分だけでわかっておればよい」。

     >本質的なところで人につながろうとする者ほど、孤独が身に染みる。
    しかしその孤独こそが、人とつながるということである。

      なんか…心に響きます~

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