2011/05/22

本日の革細工:トゥークリップカバー

トゥークリップって何よ?


ってひとには、インターネットで拝借してきた上の画像がいちばんわかりやすいと思う。
自転車のペダルに取り付けて使うもので、今はビンディングペダルに取って代わられて
あまり使われなくなったようだ。

◆◆◆

わたしの常用している自転車というのは、ランドナーという車種だ。

これは、「遠出をする人(ランドヌール)」というフランス語の英語読みで、
形はロードバイクに似ているけれど、荷物を積めるようになっていたりと旅用である。
日本には戦後、フランスをはじめとした欧米圏から入ってきたので、
今定年を迎えるくらいの人の中には、
あのころは私も、と思い出話をお持ちの方もおられる。

旅狂いのわたしがその思想に惹かれて愛車を買ったときに、
いまどきこんな自転車を選ぶからには、
と自転車屋のお兄さんがつけてくれたのが、このトゥークリップだった。
在りし日のチャリ旅人は、好んで使っていたものだというのである。

左がつくりかけ、右が完成一歩手前。

でもこれ、自転車屋で新車を受け取った帰りしなにいきなり気づかされたのだけど、
ブーツ履いてるとつま先がちゃんと入らないんだよねえ。

ついでに革靴は傷つくわ、サンダルでは乗れないわ、停車時には重みでペダルの裏側に回ってしまうわで、
あーめんどくさい、わたしにはとても使いこなせません、
ってなことになって、さっさと外してしまった。

◆◆◆

もともと、身につける物は少なければ少ないほうがよいと思っている人間なので、
腕時計もネックレスもなにもかも、それ自体で機能を持っていないものとか、
ほかの工夫で代用が効くものは全部とっぱらってしまう。

それを身につけることがあるときは、
「自分にはこれが足りないな」
と思えるようになった時だけだ。

モノがありすぎると、ほんとうの必要性を認識できないのだ。

◆◆◆

それで、今がその時かもしれないというので、
このトゥークリップも引っ張り出してみたわけである。

今回はめんどくさがらずにコバ磨きもちゃんとした。
「その時かもしれない」
というのは、数年かけてじっくりと自転車に乗ってきて、
一定期間でギアを一つ重いものにしてみたり、
つま先で踏み込んで回転を意識したりといったことをしているうちに、
「このままではこれ以上は望めないな」と思ったからだ。

◆◆◆

なにしろ、少々の坂道ならいちばん重いギアでもぜんぜん走った気にならないのだから、さしあたってもうこれ以上目指すべき目安がないのである。
日々前進を心がけるものにとって、ベッドに入ったときに
「疲れを感じない」という事実は、焦るに十分な残酷さがある。

もちろんそれも、ロードバイクなんかの、もっとスピードの出る自転車を新調したりすればいいのだけど、目的意識も整わないうちから形から入るというのは、あまりスマートな解決とはいえまい。

余談であるが、子供に主体性がつかない場合の主だった原因は、
お母さんが、赤ん坊が泣いきはじめたあと、「自分がいまほしいものはなにか」と自らに問いかけてみることを待たずに、おっぱい(=答えらしきもの)をあげてしまうからである。

それは大人も同じで、「ここにあれさえあればなあ」といった渇望感と共に、
必要なものについての意識が明確になる前に、モノを揃えてしまわないほうが良い。
問題が人を成長させるのは、その結論ではなくて、過程にこそ意味があるからだ、
というのは、赤ん坊はなおのことであるが、大人にとっても同じである。

革靴保護のために前面を覆うものにしようかと思ったけど、
革がもったいないのでやめた。
というわけで、力業での選択肢は、必要性がもっとも高い段階で明確化するまで、とりあえずおあずけというわけだ。

さてこのトゥークリップ、ペダルだけでの「踏み込む力」とともに、
「引き上げる力」も使わねば使いこなせないそうだけれど、
あたらしい目標になってくれるだろうか。

◆◆◆

目標というのは、それがあるときには焦燥に駆られるが、
達成したらしたで、他になにかないかとソワソワしはじめてしまうのだから、
この感触は、人間にとっては宿命に近いものなのかもしれない。

動かんと欲すればまずは留まり、留まらんと欲すればまずは動くべし。

動いていなければ、かえって落ち着かないものである。

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