2011/05/26

弁証法と技術の段階「知る、身につける、使う」について


 前回の記事「文学考察:うた時計ー新美南吉」について、さらに弁証法の使い方を一歩前進するべくやや突っ込んだ説明をしたので、一般的な範囲ですが補足しておきます。学習の進んだ方は参考にしてください。


 置いてきぼりにされるのはゴメンだ、という読者の方、言い換えれば、あれだけ怒られまくっていたノブくんに、いつのまにか先を越されるのはイヤだ、という方は内容を確認して、自分の今の理解はこのくらいなのか、ということを、すこし念頭においてもらうとよいかと思います。

 しかし年月というのは恐ろしいものですね。日々を真剣に生きる者の努力を、決して無下にはしないものです。ただ、それとは逆のことをやっていれば、やはりこれも言うまでもないということでもあります。わたしはこのBlogに記事を載せるようになってから、読者との連絡をやりとりするなかで、その人の論理性を逐一確認しながらここまできましたが、がんばって付いて来ようとしている方の言動を見ていると、やっていてよかったな、と思えることがあります。意欲ある姿勢そのものはもちろんですが、その中に潜む論理性の前進を感じるときが、やはり嬉しいものです。

 そういった意欲ある後進の期待に応えるには徐々に内容を高度にしてゆかねばなりませんし、事実そうなっているので、一回きりの人生、我が道を全うせんとされる同士は、ぜひともついてきていただきたいと思います。

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 さて前回の最後の節について、コメント中に誤解を招くおそれがある表現があった、ということなのでした。ことわりが多すぎるのも読みにくかろうと思ったので、誤解を恐れずに書いてしまったのですが、やはり説明が必要です。ですので、学習の進んだ読者の方でなければ難しいとは思いますが、学問的な整理をしておきます。

 評論へのコメントの最後の節で、「弁証法は問題を絞り込むのには使えるが、それ以降には使えない」、といった端的な説明をしました。このことの言葉尻をつかまえて、「弁証法はおおざっぱにしか使えない」との勘違いをしないでください。そもそも弁証法は、森羅万象の一般法則を捉えたもので、その対象には物質、社会、精神という、この世の中にあるすべてのものが含まれているのですから、弁証法を土台としながらも、それぞれの特殊性を意識しなければならないのは当然です。ここはたとえば、自然科学的な方法論を、精神の分析には使えないし、使ってはいけない、ということからもわかると思います。前回の記事で注意したのは、「弁証法」を的外れに延長させて、「認識論」そのものと同一視してはいけませんよ、ということであり、なおのこと、「いまだ3法則としてしか把握できない段階の弁証法」などは、とてもではないですが人間の認識を把握するためには使えませんよ、ということでした。

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 今回の場合に注意書きが必要だと思ったのは、そのことに加えて、弁証法は、<否定の否定>、<相互浸透>、<量質転化>という3つの法則を基本とする、というところまではたしかにそれでよいのですが、「それだけに尽きるものではない」、ということを言いたかったからです。言い換えれば、「3つの法則に照らしてみないとわからない」という初心の段階では、実のところ、ほんとうの弁証法性を把握したことにはならないのです。ではほんとうの弁証法はといえば、3つの法則が、渾然一体となったひとつの<弁証法>として、自らの認識そのものと浸透するのと直接に、弁証法性として無意識的のうちに技化できた、という段階のことです。

 ここまで来ると、たとえば自分が友人と歩いていて、同じものを見たにも関わらず、より深い論理構造に気づいた、という事実をみたときはじめて、ああそうか、自分には弁証法が身についてきたのだな、ということを改めて気付かされる、ということになります。その原因は、弁証法という論理性が、極めて自然に自分の認識の在り方そのものとなっているからであって、努力してそう見えた、という段階を通り過ぎているということなのです。日々の修練の結果、どのような能力が身についたかというのは、一定の期間を経た後に、過去の自分を振り返ってみることでしかわからないものですから。

 これを学問的に整理しておくと、ある「理論」が、「実践」に適用できるためには、つまり「技術」として獲得できるためには、理論を「知る」、「身につける」、「使う」という段階があるということです。3つの法則をひとつひとつ、ある現象に当てはめなければわからないという段階は、「知る」という段階を一歩出たに過ぎません。弁証法の中には、<矛盾の実現と解消>、<対立物の統一>なども含まれてきますが、3つの法則を機械的にまる覚えして念頭においてしまう向きには、そのどこにそれらが含まれているのかはわからず、扱いきれないことになるでしょう。そうするといきおい、それを弁証法から除外してしまったり、弁証法にはいろいろな種類があるのだ、などという短絡に繋がってしまいます。
 もちろん、「使う」という段階になったときにも、さらに大きく、深い使い方があるのであって、そういう能力をもっとも高度な実践の中で駆使するときになってはじめて、弁証法という論理性そのものをも前進させることができる、というわけです。

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 推敲してみて思いましたが、やはり難しいな、と思います。なにしろ、「なってみなければわからない」ことをくどくどと言われるのですから、もし文章が読めたとしても、これはもう、「ほんとかな?、ウソじゃないかな?」といった思いが心のなかをぐるぐる回っているという印象しかわかないのではないかと思ってしまうほどです。
 もし上で書いた文章がわからないときにでも、数ヶ月経った後にわからない箇所が出てきたあと、つまり「これはどういうことなのかな?」という問題意識が明確になったあとに読み返してもらえれば、大きなヒントになるということは確かだと思います。ですから、「5月の終わりくらいに、よくわからないことを説明されたな」ということだけは覚えておいてもらえると嬉しく思います。ともあれ、そのためには日々の修練による量質転化が欠かせません。

 以前に、わたしのところで学ぶ人が、わたしに直接質問をされたことがありました。「あなたの使っている弁証法は、私のものとは違うような気がしますが、どういうことなのでしょうか」ということでした。わたしは「鋭い!」と思うと共に、当人の中に、「この人はなにかまだ自分に教えていないことがあるのではないかな。ひっとしたら出し惜しみでもしているのではないかしら」という思いが生まれつつあるのが見えましたから、上のように説明したわけです。返ってきた反応は、「なるほど弁証法自体を磨いてゆくことができるとは!目からウロコです、自覚が足りませんでした」との謙虚なもので、とても嬉しく思ったものでした。

 そのとおりで、具体的な事実とともに、論理性もが、発展させるべき対象として見据えられるべきなのです。そういうことを見越して、大哲学者ヘーゲルは「哲学は時代的に完成する」と要したわけです。わたしたちは、わたしたちの時代という発展度合いに合わせて、論理性を磨いてゆかねばなりません。そういうわけで、自分が寄って立つ論理性、弁証法という根本的な土台そのものを磨いてゆけるのだし、またそうしなければ先人から受け取った文化遺産に新たな一ページを加えて前にすすむことなどとうてい不可能なのですから、ここからも、日々の修練を怠るわけにはゆかないことがわかろうというものです。

3 件のコメント:


  1.  >「なってみなければわからない」ことをくどくどと言われる…

     「己の到達した境地を語る」ですね。
     
     その境地を目指し、私も頑張ろう!

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  2. >一回きりの人生、我が道を全うせんとされる同士は、ぜひともついてきていただきたいと思います。

    私も「同志」のお仲間に加えて頂けたら幸いです。

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  3. 実体的な同志に成りえずとも…
    観念的な同志であり続けたい!

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