2011/05/24

文学考察: 眉山ー太宰治

文学考察: 眉山ー太宰治



◆ノブくんの評論
 帝都座の裏の若松屋という、著者がひいきにしている飲み屋があり、その家には自称小説好きの通称眉山という女中がいました。彼女はその無知で図々しい性格のため、著者を含めた彼の友人たちに嫌われていました。ですが、そんな彼女の印象が一瞬で変わってしまう出来事が起こってしまいます。一体それはどういう出来事だったのでしょうか。
この作品では、〈今まで傍にいた人物が突然この世から去ると分かった途端、その人物に対する印象を変える、あるお客〉が描かれています。
まず著者は、それから暫くして体の体調を悪くしてしまい。十日程その飲み屋に行けなくなります。そして体の調子が戻ると、彼は飲み友達の橋田氏を誘って再び眉山の飲み屋を訪れようとします。ですが、彼はその時橋田氏の口から思いもよらぬ事実を耳にします。なんと眉山は腎臓結核で手の施しようもなく、静岡の父のもとに帰っているというではありませんか。そして更に驚くことにそれを聞いた著者は、「そうですか。……いい子でしたがね。」と今までの眉山に対する印象をがらりと変えたような発言をしています。一体これはどういうことでしょうか。
一旦物語を離れて、私たちの日常生活に照らし合わせて考えてみましょう。例えば、私たちの身の回りの家族や友人との関係の中にも、こうった感情の揺らぎは起こっているはずです。嫌いな友人が転校してしまう時、或いは自分の苦手な家族に死が迫っているとき、私たちもやはりこの著者とおなじような印象を少なからずもつでしょう。では、私たちはどうしてこのような印象をもつのでしょうか。それは、彼らが私たちの生活に強く根付いていればいる程、そういった感情は強く出ます。つまり私たちは、何も彼らがいなくなることのそれよりも、自身の生活の変化に対して、ある種の寂しさのようなものを感じているのです。そして、この寂しさからこの著者も私たちも、今まで幾ら疎ましく思っていた相手に対しても、「あいつはいい人だった」と印象をころりと変えているのです。このように、私たちがもつこういった印象は、他人を通して自身の生活の変化に対し感じたものなのです。

◆わたしのコメント

 論者は、行きつけの居酒屋で働く「トシちゃん」への評価が、彼女が腎臓結核という大病を患っていたことがわかる前と後とで、大きく異なっていることの理由を考察しています。

 作中の表現を追ってみると、以前では「しょっちゅうトイレに行くこと」、「階段をドスンドスンと昇り降りすること」などが、筆者を始めとした一派の、彼女への非難の対象となっていました。ところが病気が判明してからは一変して、それぞれの理由が病気のせいだったから、という一言で片付けられています。彼女が病気だったと聞かされたときの筆者本人は、思わず漏らした「そうですか。……いい子でしたがね。」ということばに、自分自身で違和感を覚えていますが、彼の友人たちはそのことばをそのままに受けて、「あんな子は、めったにありません。」などとまで評するほどなのです。

 ここでは、いわば「死んだ犬を蹴飛ばすのははばかられる」といったような感情の裏返しとして、大病を患った「トシちゃん」のいいところを見つけてあげたい、という一念が前面に押し出されているわけです。ここに現れているのは、前もっておいた結論ありきで、そこにむかってあらゆる印象を収束させるという、いわばこじつけに似た態度ですね。
 現象としては同一でも、その受け取り方や評し方は状況によって一変するということは、人間の社会においてはよくあることです。どれだけ人を殺していても、死ねば英雄です。今回の場合であれば、「しょっちゅうトイレに行く」という彼女のふるまいは、そこを、人の気持ちに鈍感であるという気性を前面にもってきて理解すれば悪印象になるのですし、それとは違って彼女が病気であるという同情をとおして理解することになると、とたんに愛すべき健気さ、ということにもなるわけです。

◆◆◆

 こういった、感情次第で当人に対しての評価がくるりと一変することはひとつの矛盾ですが、それが矛盾であることを意識できているかどうかで、この現象の扱い方が変わってきます。筆者の場合であれば、「そうですか。……いい子でしたがね。」といった自分の評に違和感を覚えたというのは、まさにこの矛盾を感覚的に意識していたからです。彼の思うところを想像してみると、おおよそ次のとおりでしょう。「いま私は『トシちゃん』のことを『いい子だった』と表現してしまったれけども、彼女が病気だと知る前にはあれほどまで罵っていたことは、なんら揺るがぬ事実ではないか。いくら彼女が病気であることがわかったとしても、ここまで都合よく立場を変えてしまってもよいものだろうか…」。多かれ少なかれ、思想的な立場をゆるがせにできない職業である作家を生業にする彼にあっては、自身の評し方の移り変わりの極端さに、そういった違和感を覚えていてもおかしくありません。

 そういう筆者に対して、筆者以外の友人は、彼ら自身の主張が、客観的な事実にくらべて主観的な思い込みに振り回されがちなことに、あまり気づいていないようです。そういった、主観と客観を明確にわけて考えることの少ない一般的な人たちの物の見方というものは、事実よりも、思い込みに左右されること大なのであるということをみてとって、論者は「結論的に」、「つまり私たちは、何も彼らがいなくなることのそれより(「いなくなることそのものよりも」が適切か。コメント者註)も、自身の生活の変化に対して、ある種の寂しさのようなものを感じているのです。」と言っているわけです。

 論者の論証は、過程に含まれている構造を明確に表現していないために、あくまでも「結論的」でしかありませんから、どうしても観念的な響きを持っています。単なる俗流評論家などであれば、自分の限られた経験を手がかりにして、それを人間全体に的外れに押し広げる形で「人間とは~というものである」と言い切ってしまえば生活の糧には困らないわけですし、それなりの格好がついたと擱筆してしまってもよいものです。ただし、文筆家として一流を目指すとなれば、人間の精神の交通関係の、過程における構造というものは、学問用語で整理せずとも、せめてそれをうまく捉える訓練をしておくべきでしょう。そうでなければ、登場人物の言動を説得力あるものとして描き出すことはできません。

 これはなにも、文筆家だけではなくて、人間の機微を感じ取る必要のある職業、立場に立つ者であれば当然の注意ですから、是が非でも一流になるのだという志と、文学作品をつねに批判的に見ることをとおして、物事を見る目を高く持つのだという問題意識は常にもっておいてください。

◆◆◆

 ことわりが長くなりましたが、上で指摘したような、人間の認識における過程的な構造をふまえていたが表現力がなかったり、ふまえる気があるがよくわからなかったというのであれば、今回の評論は悪くありません。過程を無視するという形而上学的な、また結論ありきという観念的な踏み外しに注意しながら、既存の文学作品を越えるべく研鑽に励んでください。その際には、評論の形で批評するだけではなく、実際に作品を書いてみる、ということがどうしても必要です。執筆能力を始めとした自分自身の条件が整わないために、書くことに引け目を感じることを押してでも、やはり書くべきです。一流の泳法を学ぶときにも、溺れ死なない程度の泳ぎ方で、とりあえず泳いでみるということが、取りも直さず重要なのですから。何も書かないのに批判だけは一丁前、という頭でっかちにならないようにして欲しいものです。

 さいごになりましたが、上記したように論証は一定の評価ができるものの、一般性については誤りです。ここまで物語に即し「すぎて」いるものは、もはや一般性とは呼べません。一般性というからには、正しい段階にまで抽象化することを忘れないようにしてほしいものです。この物語は、「ある客」について述べていたのでしょうか?もういちど考えてみてください。

◆◆◆

【評論の正誤】
・まず著者は、それから暫くして体の体調を悪くしてしまい。
・こうった感情の揺らぎは起こっているはずです。
・では、私たちはどうしてこのような印象をもつのでしょうか。それは、彼らが私たちの生活に強く根付いていればいる程、そういった感情は強く出ます。
→二文目は、問に対する答えだから、理由を説明する「~から」といった表現にせねばならない。

【本文の正誤】
 また評論ではなく、太宰の作品本文に表現の誤りがあります。
 一文目「これは、れいの飲食店閉鎖の命令が、 未だ発せられない前のお話である。」について、「未だ発せられない前」というのはおかしいですね。「発せられない」という否定に、あることが未達である意味の「前」という否定が加わることによって二重否定となり、結局のところ肯定判断を指し示すことになっているからです。否定と否定をつなげて否定の強調とする場合もありますが、文脈からすると強調する必要性がまるでないので、意味もなく読者の混乱を招くという意味で、この場合にはやはり誤りであると判断せざるを得ません。
 ですからここでは、否定を一回限りにして、「未だ発せられない頃」や「未だ発せられる前」にするのが正しい表現です。その修飾の関係を述べれば、前者は「未だ」が「発せられない頃」にかかり、後者は「未だ発せられる」が「前」にかかっていることになります。筆者は、飲食店閉鎖の命令が出る前の話をしたかったのですから、これらの表現であれば、その意図を適切に表現できるでしょう。

1 件のコメント:

  1. >…やはり書くべきです。一流の泳法を学ぶときにも、溺れ死なない程度の泳ぎ方で、とりあえず泳いでみるということが、取りも直さず重要なのですから。

    「…論」も「…実践」も!ですね。。

    >何も書かないのに批判だけは一丁前、という頭でっかちにならないようにして欲しいものです

    忘れません!でも…忘れた時は、また想い出します。

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