2011/05/20

文学考察: 美少女ー太宰治

文学考察: 美少女ー太宰治


◆ノブくんの評論
 著者とその家内は、その年の六月の暑熱に心身共にやられていたため、甲府市のすぐ近くに、湯村という温泉部落に向かうことにしました。そこの温泉の中で、著者は清潔に皮膚が張り切っていて、女王のような美少女に出会います。そして彼は美少女の美しさに感動し「あの少女は、よかった。いいものを見た、」とこっそり胸の秘密の箱の中に隠して置きました。
七月、暑熱は極点に達するも、著者は温泉に行くお金を工面出来ない為、髪を切ってそれを凌ぐため、散髪屋へと足を運びます。そこで彼は再び例の美少女と出会うことになるのです。
この作品では、〈他人と知り合いを大きく区別している、ある著者〉が描かれています。
この作品の中の著者の論理性を紐解くには、美少女とその他の他人とを比較しなければなりません。彼は他人に対しては基本的に、「私は、どうも駄目である。仲間になれない。」、「『うんと、うしろを短く刈り上げて下さい。』口の重い私には、それだけ言うのも精一ぱいであった。」と、接触をひどく嫌っています。ですが、一方美少女に対しては「私は不覚にも、鏡の中で少女に笑いかけてしまった。」と、明らかに一線を画しています。これは一体どういう事でしょうか。
著者がこのような行動をとった重要な要素としては、美少女が彼を覚えていること、又彼自身が彼女を少なからず知っていることが挙げらます。そして上記の要素が合わさった時、彼は彼女を知り合いだと感じ、笑いかけているのです。つまり著者は他人と話すことを嫌う為、温泉や散髪屋での会話に戦々恐々し、美少女に関しては知り合いだと感じているからこそ、自分から接していこうとしています。彼にとって他人と知り合いには、それだけ大きな隔たりがあるのです。
◆わたしのコメント

 論者は、筆者が、「他人」と「知り合い」を明確に区別しているのだとして、彼の性質を一般性として述べています。その論拠となるのは、「気楽に他人と世間話など、どうしてもできないたち」であるはずの筆者が、温泉で出会い、その身体をまじまじと眺めたことのある美少女と思わぬところで再開したとき、不覚にも「少女に笑いかけてしまった」ことにあります。

 ここで論者は、筆者の論理性というものが、「他人」と「知り合い」を、「あれかこれか」の関係でしか読み取ることのできない形而上学的な論理性であると言いたいようですが、皮肉なことながら、そういう論者の論理性こそ、形而上学的だといわねばなりません。その欠陥を一言でいえば、「人間の認識についての交通関係が把握できるための実力がない」ということです(薄井坦子『科学的看護論 第3版』p70~、ほか)。

 もし仮に論者の言うように、筆者は美少女を「知り合い」だと感じ、その他の、たとえば散髪屋の店主を「他人」だとするとしたときのことを考えてください。しかしその場合でも、筆者にとっては当の美少女もが、どこかの時点までは間違いなく「他人」だったわけですね。ということは、筆者にとっての美少女が、いつ「他人」から「知り合い」になっていったのかをふまえておかねばなならないことになります。「すでに顔を見た」ことなどだけを「他人」から「知り合い」へと変わる変遷の節目であるとするなら、散髪屋の店主も「知り合い」になっていなければおかしいはずでしょう。ところが本文を読めばわかるとおり、それでも筆者にとっては、再開した美少女は「知り合い」なのであり、店主は「他人」でしかないのです。

 そういったふうに考えれば、今回の作品でいえば、「あれ」が「これ」に変わってゆく過程を追ってみなければならないことがわかります。それが、過程的構造を理解する、ということです。

 さてこの作品における筆者にとっての、「他人」が「知り合い」へと変わる過程には、どのような構造が含まれているのでしょうか。筆者と美少女は、AはBのどのような表現をとおして、Bの認識を読み取ってゆき、そのことを受けてどのような表現をしたから、Bはどう受け取ったのでしょうか。そういった、お互いが互いに精神的な働きかけを持ち、精神的な交通関係を築き上げる中で、どのように知り合いへと変わっていったのでしょうか。

 一流の小説家は、無意識的であれ、そういった人間同士の精神の働きかけあいを把握しているものです。こういった理解には、整理能力と当たり前の現象に潜む論理を丁寧に取り出す論理力が必要なので、たいへん難しいところではありますが、人間を正しく扱う仕事には必須の能力です。指定しておいた参考文献を手がかりとしながら日常生活と論理的に向き合い、ぜひともしっかりと修練を積んでください。


【誤】
・又彼自身が彼女を少なからず知っていることが挙げらます。

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