2011/05/27

どうでもよくない雑記:人として生きる、という姿勢

これ、言っちゃっていいのかなあ…


と思ってしばらく寝かせていたけど、やっぱり言ったほうがいいと思ったので、
震災ボランティアのありかたについて正直なところを述べておく。

◆◆◆

わたしは毎日自転車に乗っているけれど、
ここのところ多いのは、震災ボランティアの情報収集のためにだ。


ボランティアの募集は、社会福祉協議会のネットワークを通じた
支援依頼に応えたものがあり、これを募集する媒体といえば
居住地の市などが発行している広報などに限られることがほとんどである。

そういうわけで、なにしろかなり意識していなければ、
ボランティアの募集の情報そのものがあんまり入ってこない。
もっとも、各地域で募集しているのだから、
居住地の情報だけを見ておけばよい、ということだろうか。
わたしのように情報を総合して全体像をつかみたい、という人間は稀なのかもしれない。

ともあれせっかく見つけて説明会に行こうと思っても、
説明会を開くための公共機関がやや郊外に位置していることが多くて、
電車とバスを乗り継いでゆかねばならない。

ぎりぎりの空き時間で行こうと思うと、もともと本数の多くない
市バスの乗り合わせを調べているよりも、自転車を飛ばしたほうが早いのだ。

◆◆◆

で、説明会に出ると、毎回見せつけられるのは、
参加者のほとんどが、年配の方である、という事実である。

齢にかかわらず壮健であらせられる方もおられるから、
年配だからどうのと言うつもりはない。
しかし参加者の方の中には残念ながら、
この人は援助をするどころか、その人自身に援助が必要なのではないか、
とさえ思えてしまうような方もいるのである。

たとえば募集要項に、
「引越し用具を運搬するために」「心身ともに健康であること」とあるのに、
その背筋・腰の曲がり方、その落ち着かない貧乏ゆすり。

年令と体つきの不足をおして、あえて現地に赴かれる気持ちは、
たしかに得難いと思うのである。

しかし、しかし、である。
あまりに失礼にすぎる言い方であることは承知しているが、
自分の心身も整えられていないのに、
いったい現地でどんなことができるのか、とどうしても思ってしまう。

こういう意味では、と誤解のないようにしっかり前置きしておくが、
こういった場合に限れば、軍役などで、嫌でも身体とその運用の基礎訓練を叩き込まれる国とは、どうしても我が国では勝手が違っていると言わざるをえない。

そうかといって、受付側としては、せっかく募集してこられた方の思いを無下にすることもできないと見えて、担当の者は、ほぼなんらの審査も無しに参加者登録をしてしまっている。
それが、現状よく目にする光景である。

◆◆◆

わたしはそれを見ていて、
これではとても効率的な成果はあげられないであろうな、と思ってしまう。
数日のボランティア活動では、当然に組織の成員として教育する時間もないのだから、本来ならば、主催者側は、参加者自身の能力が、組織としての目標を達成できるかどうかを見ておかねばならない。

「人が自分のために何かしてくれる」
ということが、実際的な結果を生み出さなかったにしても、
その姿勢そのものが、本人を精神面から支えうることは、十分心得ているつもりである。

しかし、そもそもこういった実働が要求されるボランティアにおいて、
「その姿勢だけでもありがたい」と言わせてしまうのは、
本末転倒なのではないだろうか。


説明会の質疑応答でも、こんなふうである。
「お茶は持っていったほうがいいですか」
「トイレ休憩は何回ありますか」
「作業はしんどいですか」

失礼ですがあなた方は、
いったい誰のために、何のために行かれるのですか?

はっきり言って、耳を疑うほどであった。
場を和ませるための冗談ならばどれだけ救われたか、とも思う。
わたしの感覚が、異常すぎるのであろうか。

◆◆◆

本当に心底、失礼であるとは思うが、こんなことは、とても担当者や、
ボランティアされる側の口から告げられるわけにはゆかないであろうから、
あえて言っておきたいと思うのである。

それに、事実、そういった方たちにはご遠慮いただくことにした場合に、
力の有り余っている若者たちが我こそはと名乗りを挙げるかというと、
そういった人たちの人数は、数えるほどしかいないという現実も依然として残る。

こういう時にこそ、
ボランティア活動にたいして大学としての単位を認めるといった
産学協同といった動きを、マスメディアが盛り上げる、
という形にもってゆけないものなのだろうか。

わたしの周囲の学生さんたちは、行きたくてたまらない、
けど学校が、就活が、生活が、という人が多いのだけれど、特殊な環境なのだろうか。
彼女や彼らは、環境さえ整えば、嬉々として働いてくれるはずである。

しかしその肝心の環境がないのだから、なんとも、歯がゆい思いがする。
学校をやめてでも人のためになりたい、という人間にこそ、
国という機関は保障をして、正しく動いてもらうべきなのではないだろうか。

◆◆◆

ただもちろん、国という機関がうまく機能していても、
自分が心身ともに健康でなければ、どれだけ人のためになりたいと望んでも、
これはやはり画餅に帰すると言わねばならない。

その手段は問わないが、デスクワークが主である仕事をしているなら、
姿勢が悪くなりすぎないくらいには運動をして身体を整えておかねばならないし、
肉体労働が主なのであれば、情操を磨くということを自覚的に行わねば、
人間として片手落ちになってしまう。

そういった必要性を感じるのは、「人間としてはこれくらいできなければ」
という、人として生きるということに、どれだけの責任を感じているか、
という姿勢なのではないだろうか。

そういう姿勢を持っていれば、いまの自分に足りないものが見えてくるはずで、
その足りないものを補っていく過程で、自然に自信や覚悟というものは、
技として身についてこようというものである。

これから人助けをしに行こうというときに、
自分の身の回りのことさえ満足にする自信がないというのは、
ボランティア以前に…と、そう言わざるをえない。

◆◆◆

わたしの身の周りには、こんな人たちがいる。

39度の高熱を出しながらけろっとした顔で待ち合わせの約束を守り、
食事がまるですすんでいないようなので問い質したら、
「忙しいみたいだから無理してでも来ようと思って」
と笑みを浮かべた人がいる。

交通事故に巻き込まれたあとに平然な顔をして武道場にやってきた者、
きょうだいを失ったその日に、笑顔でパーティに参加した者、
気を失いかけながら漫画の原稿を仕上げた者。

これらは、すべて実際に、自分の目で見てきた後進である。
現場にいあわせたときの凄まじさはあまりに、なので、
詳細な描写は読者を驚かせるであろうが、
どちらにせよ、これは想像をはるかに越えている。

わたしが指摘しなければ、
彼女や彼らは、そのままの姿で誰も知られずに平然と過ごし、
誰にも見られないところでひとりになるまで、気丈でい続けたはずである。

人間は、意志の力でここまでやりうるのである。
こういった人たちなどは、
どんな役職に就かせても、どんなに不向きなことをやらせても、
いまの自分が置かれている状況を、目を逸らさず見据えて、
自分のできることはなにかとしっかり問いかけるであろう。

◆◆◆

もはや、何が言いたいのかは読者のみなさんにも
おわかりであろうと思うので、これ以上は何も言うまい。

わたしの信じている、人間の姿というものは、こういうものである。

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