2011/07/02

時間をうまく使うための環境づくり:物書きの場合 (1)

昨日は、「毎日の暮らしを整えるには」ということを書きました。


もしあなたが、自堕落な生活を今日から改めよう(「明日から」ではありません)、
と考えて、自分の道を定めて生涯をかけて歩もうと思ったときには、
いくら「精神性」を高く保とうと思っても、その「生活」が整っていなければどうにもならないのだ。
そういうことを言いたいのだな、と理解していただければ書いた意味があったということになります。

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またこのときに、単に時間をかければよいというものではない、というお話もしましたが、
あれは生活を形式的に整えるだけではなくて、その内容の質も問いなおしてみてほしい、ということです。

たとえば、帰宅後ぼんやりTVゲームをしていた時間をプログラミングに充てるとか、
音楽を聴くだけだったところを実際に楽器の演奏を練習してみるとか、
薬品で無理なダイエットしていたところを食事をちゃんと摂った上で運動することにしようとか、
日々の暮らし方を本質的な内容を備えられるように工夫してゆけば、生活も自然に向上してゆきます。

ここは、TVゲームはダメだからプログラミングにしろ、読書しろなどと、
個別のジャンルについてそれが劣っているから止めろと言っているように聞こえるかもしれません。
たしかに、たとえば武道家を目指す場合にも、武道というものは実体として存在しないため、
実際には剣道なり柔道なり、具体的な何らかの武道を実践することによって目的に近づいてゆくことになりますし、
より具体的にはどこの道場へ通うかという選択をするのですから、
そういった意味では取り組む対象への質が保証されているということは重要です。

しかし、そういったことは、取り組む人間の姿勢が整っていればこそなのだ、と言いたいのです。
もし最高の教材を与えられていても、読む側が「これくらい私にもわかっている」という姿勢で読んだ気になってしまえば、何も学べません。
それとは逆にもし劣った教材を与えられた場合にも、読む側が「こんなふうにはなるまい」と、それを反面教師とすれば学べることも少なくありません。

◆◆◆

そのことを断った上で、ではどのような対象に取り組むべきかともう一度問うときには、
どうしても、正しい人間観をもって、取り組む対象を吟味しておくべきでしょう。

「人間とは自堕落で非生産的な生活を送り、死ぬまでをなんとか生き延びるものである」
という規定を採用しているのなら、クビにならないくらいに手を抜いて終了時間まで仕事をし、仕事の後は飲み屋で上司の悪口を言ったり朝までギャンブルをした後フラフラして出社すればよいということになるかもしれません。

しかし、「人間とは目的を持って生きることが大前提であり、日々の生活をその途上として位置づけるものである」
という規定をする人には、そういった日々の過ごし方はとても受け入れがたいものがあるでしょう。

ここをどんなふうに規定するのかは人によって様々ですが、ひとつ言えることは、明確に意識しようと流されてそうなっていようと、思ったとおりの人間に、自分はなってゆく、ということなのです。

「あなたは、望んだままの人になる」などと表現すると、なにやら新興宗教の勧誘文句か、はたまた金と時間はあっても目的なし、なぜ自分は生きているのだろうと考え始めたご隠居さん向けの気休め本についている帯か、そんな響きも持ってくるのはなんとも皮肉です。

ここではその根拠を簡単に述べるにとどめますが、言えばひとつには、人間の行動は意志によって直接に規定されていること、そしてふたつめに、行動の積み重ねによって意志はその強さを増すこと、です。

◆◆◆

さて、まえがきが長くなりすぎるのはいつもの悪い癖です。
最後で出てきた話題は、「観念的に対象化された意志」を扱った記事で、関係のある話が出てくると思います。

もともと今回書きたかったのは、最近普及してきたいわゆるスマートフォンなどをはじめ、
複数の情報端末を併用されている方向けの記事です。

ところで、「携帯電話は使えるけれど、パソコンはまるで使えない」という学生さんが多くなってきています。
これはある一面では、万人が高度なコンピュータを扱えるようになったという意味での進歩なのです。
しかし他方では、もともとプログラミングをしたり絵を描いたりレポートを書いたりといった「創作」のための役割を果たしていたコンピュータというものが、今では単に「情報の閲覧」という受身の機能しか使われなくなりつつあるというのは、退歩だと言えるでしょう。

弁証法は、ものごとを両面から捉えることを要請します。
あるものごとには、切り離せない性質がありますし、その性質にも積極面と消極面があります。
いわゆるパソコンで採用されているキーボードは、文字入力を高速で行える利点と同時に、その使い手の認識の、文字の像を薄める働きをしていますから、パソコンしか使わない人の中には漢字が書けない、悪筆であるといった特徴が出てきます。
そうすると、その欠点を補うために、使い手は意識して、自分の手で文字を書くとともに、その像を深める訓練をしなければならないことにもなります。

それと同じように、物理キーボードではなく、画面に表示された仮想キーボードしか搭載しない端末を使う場合には、その積極面としては画面が広く使え、様々な入力方法を選択できるとしても、文字入力に限っていえば物理キーボードほどふさわしくはないのです。
そのことに引きずられて、論理的に意味の通った長文を文字入力することの意欲も減退することのないように、やはり工夫が必要になってきます。


(2につづく)

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