2011/07/11

日常を「あれもこれも」と考えるには:人は信じるに値するか (1)

大学生を教える立場にある人たちが、こういうことを言っていたことがある。


“人を信じるべきか、信じぬべきか。”

◆◆◆

どうやら、学生が真面目に講義に出るか出ないか、出たとしても真面目に講義を聞くかどうかということを議論なさっていたようで、こういう話によくあるように、「ウチの学生にはこんな人間がいる」、「いいやそれとは反対にこんなのもいるぞ」と、学生を信じる派と信じない派に分かれての議論であったようである。

なぜにこんな他人事のように書くかというと、わたしのような輩がこういう議論に参加すると、場を乱してしまって、結局誰にもいい顔をされないことを、ようやく学んできたからだ。

それもそのはずで、「あれかこれか」、結局のところ、どちらの陣営の有利に終わるかということに焦点が当てられている場合には、ニワトリ派とタマゴ派のあいだに「あれもこれも」と割って入る人間などは、邪魔者以外の何者でもない。

「お前は結局、どちらの立場なのだ?」、
ということである。

◆◆◆

しかしこういった議論、見れば見るほど複雑なものである。

複雑というのは議論の中身ではなくて、実のところ、残念ながらと言うべきか、それに参加する人間模様が複雑なのである。

タマゴ派の筆頭が、政界にも通じている名のある先生ならば、直接の利害関係はなくとも嫌われるとよろしくない。
ニワトリ派の言いだしっぺが、有力視されている若手研究者というのなら、恩を売っておくのも悪くない。

そういうわけで、はじめはみな、場の空気を読みながら牽制しあって、どちらが有利になりそうかと出処を伺うということになる。
そんな中で場は徐々に動き始めるが、単に有利な方に属して自らの先見の明を明らかならしめるだけにとどまらず、勝ち方が後に遺恨を残さないようにも工夫が必要であり、これは文字通り、立派な政治的な駆け引きなのである。

◆◆◆

議論の本質が議論そのものではなくて、それをとりまく政治にあるような場合には、そこで扱われているお題そのものは、それが正しいかどうかよりも有利に見えるかどうかのほうがはるかに重要なのであって、もっと言えば解かれようが解かれまいがどちらでもよい、ということさえありうるのである。

ところで、せっかく出したこのお題を、代わって考えてみることにしよう。

よく出されるニワトリが先か、タマゴが先か、という問題は、現実に存在するニワトリとタマゴとを比べて、それがあたかも「いきなり」この世に登場させられたものだとしたときに、ニワトリがなければタマゴが生むものがいないし、タマゴがなければ親ニワトリも生まれない、という矛盾のように映るというものであった。

ところがこの問題でおかしいのは、ニワトリという存在と、タマゴという存在が、まるで魔法のように、いきなりポンとこの世に出現したという前提そのものなのであるから、そこが実際にはどうであったか、と考えてゆけばよい。

生命史に類するどんな本の、目次だけでも眺めてみればすぐに了解されるとおり、タマゴという仕組みは、生命体が地球の環境につながっていながらもつながらない部分をつくろうと、つまり自身と地球とを相対的に独立した形に置こうとしたところにその発生のきっかけがあったのであって、ニワトリという鳥類の生成よりも、はるかに昔のことなのである。

タマゴという仕組みを持った生命体は、そのあと魚類、硬い殻を持ったタマゴをもって陸上へと進出した爬虫類を経たのち空へ、つまり鳥類へと発展していったのであるから、こういう観点から見れば、答えは明白そのものなのである。

◆◆◆

もし、より範囲を限定して、「いやあの問題はそういうことではなくて、『ニワトリ』と、『ニワトリのタマゴ』のどちらが先か、と問うているのだ」、などということであったとしても、ただそれもやはり、現代わたしたちが眼にしているような形の「ニワトリ」を、未来永劫かわらぬものとして存在してきたという固定化された理解に基づく誤解でしかない。

ニワトリの場合には、野鶏であったものが長い時間をかけて家禽として生成されてきたものなのだから、やはりこれも、過程をとばしていきなり結果だけを論じることはできない。
正しい答えは、ニワトリはニワトリとして生成されてきたものであって、これからも僅かながらとはいえ新しいかたちをとりつつある一つの動物なのであって、成体とタマゴの仕組みは互いに浸透しあって生成されてゆくものだから、どちらが先だとは言えない、というものである。

このふたつの例から類推して、聡明な読者は、「なるほど、目の前にあるものごとの間に、あちらを立てればこちらが立たずという矛盾があるばあいには、『そのものがどうやってできてきた(生成されてきた)のか』と考えてみればよいのか」と理解してくださるかもしれない。

これはそのとおりで、「あれかこれか」ではなくて、「あれもこれも」と考えてゆくのが「弁証法」の基本姿勢だけれど、これはなにも、たんに「中道をとる」という発想で、問いかけそのものから逃げることを目的としたものではない。
ものごとが正しくありうる範囲は、どこからどこまでなのか、という姿勢で、正しい答えを出すことを目指すのである。


長くなるので分けましょうか。

(2につづく)

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