2011/07/18

弁証法とはどのような形をしているか (2)

(1のつづき)


前回では、弁証法のイメージとして、それはひとつの「技」である、としておきました。

このたとえで強調したかったのは、お茶の煎れ方を知ってはいてもそれが身についていなければ意味がないように、弁証法の3法則をいくら暗記してみたところで、それを実際に使ってみることができなければ実質的な意味はないのだ、ということです。

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では「使える」というのがどういう段階なのかと考えてみましょう。

どんなものごとにでも、はじめは人や書物から習う、という段階がありますね。
「習うより慣れろ」とはたしかに一面の真理をとらえていますが、習う対象がなければ慣れることもできないのですから、はじめはお手本にするものが、どうしても必要になってきます。

たとえば「ピアノを習う」ということについて考えてみるとしても、はじめにはまず、弾きたい曲がなければ弾きようもありませんから、通常の場合であれば、楽譜を読む練習をするでしょう。
それが理解できるようになるのと前後して運指の訓練ができるようになるわけですが、どれだけ初心者向けの楽譜であっても、はじめて見たときには途方にくれるような感覚があるものです。
「こんな指の組み合わせ、こんな運指の速さは、とても人間にはできるはずがない!」
ところがそれを、それでも他に弾けてる人が居るんだからと励まし励まし練習を続けるという毎日の積み重ねのはてに、数カ月後にはようやく、楽譜一つをいちおうの形で「なんとかさいごまで弾ける!?」というところにまで到達することができるのです。
ともあれそれは、形の上で鍵盤が押さえられているというに過ぎず、人に聴かせるレベルの演奏とはまだまだ大きな隔たりがあるのですから、それがピアニストにとってのいわばスタートラインであって、そこからどこまでの高みに昇ってゆけるかどうか、ということが、当人のピアニスト人生を左右するわけです。

この、楽譜が弾けるようになるという過程を考えてみてわかるとおり、初見ではまったく味気のない運指の繰り返しで基礎力がついたことによって、徐々に次の段階へと昇ってゆけるということなのです。
こういったひとつの技術の習得過程をおおざっぱに言えば、「知る」、「身につける」、「使う」、という段階がふくまれていることになります。

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その仮定をつかってお話を進めると、ここでわたしが述べてきたのは、「弁証法の3法則」はこれこれこういうものなのだと知識的に「知った」あと、「身につける」にはどうすればよいか、というところまででした。
その修練の方法のひとつは、日常生活の中で、毎日弁証法の法則を見つけて日記に記しておく、ということでしたね。

たとえば、こんなふうに記されることになるのではないでしょうか。

「今日実家に帰ったら、『だんだんお嫁さんと笑い方が似てきたね』と言われた。
これは、近くにいる人間同士が似てくるという意味だから、<対立物の相互浸透>ということだろう。
もしかすると世の中で言われている「バイオリズム」というものも、こういうことを、生活習慣の面で指したときのことばなのかもしれない。」


この身につける、という過程は、さきほども言ったように、単調な作業を繰り返し要求されるのですから、感情的に言えば、これは実につまらないものであると思います。
世の中を知るための新聞購読、剣道のための素振り、体力づくりと姿勢を整えるためのランニング、などもそうですね。
実のところ、わたしにとってこのBlogに何かを書くというのもそれらと同じことなのですが、毎日の変わらぬ繰り返しという倦怠をどうして乗り越えるかといえば、つまるところ習慣付けてしまうのがいちばんよいのです。

習慣付けるにはどうすればよいかというと、毎日決まった時間にランニングしたり楽器の練習をするように、「この時間にはこれ」ということを毎日の繰り返しの中で身体的な感覚として身体に覚えさせてしまい、たとえば例外的な来客があっていつもの時間になってもそれをやれないというときに、「やらなければ身体がムズムズする」というところにまで持って行く、ということです。

以前20110714の記事で、「毎日の昼休みなどにすこし時間を作って、」日記に見つけた弁証法を記すと良い、と書いておいたのは、1日のうちにいつかやる、というよりも、決められた時間にやったほうが、はるかに習慣として定着ししやすいから、という理由がありました。

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ただわたしたちはもう物心がついてしまっていますから、毎日の繰り返しを習慣として持つことが苦手な人もいるでしょう。
下宿先が学校の近くにあって、毎日のように気ままな友人の来訪を受けるような状況にあれば、これは毎日決まった時間になにかをしたいのになかなか流されてしまってそうできない、という人もいるかもしれません。

それでもわたしたちはみな、ほとんどの場合には例外なく、赤ん坊の頃には寝返りをうてるようになり、ハイハイを十分にして四肢の実力をつけたあとに、つかまり立ちを何度も何度も繰り返し、転んで泣きながらでも二本の足で立って歩けるようになっていったという過去を持っているのです。

これが赤ん坊の場合なら自然成長にまかせていれば、まず間違いなくある程度の、人間としての身体運用を身につけることができますが、もし単に「大人になりたい、父親になりたい」といった形式的なものではなく、「立派な人格の大人になりたい」、「父親として尊敬されたい」という、質的に高い目標を掲げるとすれば、これは自然成長にまかせるわけにもゆきません。
そういう意味で、ここでの努力というものは、物心つくまでのそれとは違って、他律などではなく、自ら必要性を認識して取り組むという、自律的な動機が、どうしても必要なのです。

ですから、その目標だけは自分で決めたうえで、自分の生涯をかけて守り抜き、自らの足で進み続ける意志を持って欲しいと思います。
これは、物心つくまでの子どもが、両親に褒められるために何かをする、というのは質的に違った意志でなければならないのです。

学生さんの一部には、「努力する」ということが泥臭くていやだ、もっとスマートに成果を出したい、といった誤った観念が浸透することがありますが、そんなときにでも、遊ぶときと真剣に取り組むときにはきちんとメリハリをつけて自分の道を目指すという姿勢をもって、周囲の友人にも範を示すといったような人物になられんことを、願ってやみません。

どんな努力家でも例外なく、毎日の決意、決意の繰り返しで、軟弱だった意志の力を少しずつ、少しずつ増すと共に人柄として定着していったという過程を持っているのですから、これは誰にとっても不可能ではないのだと考えて、毎日を大事に過ごして欲しいものです。

◆◆◆

さて話を戻すことにすると、さきほどは技術の習得過程の2つめの段階、「身につける」という段階について触れてゆきました。

そこでの数限りない繰り返しによって、ようやく自分の身体に技が馴染んできたときになると、いよいよ「使う」というところにまで進むことができはじめます。

ここが、なぜ「できる」ではなく、「できはじめる」と、なんだかぼかしたような言い方になっているのかといえば、ここで述べた段階というのは、互いに行き来しあう過程であるからです。
たとえば楽譜がある程度弾けるようになったあとにも、バイエルに戻って基礎を整えなおしたり、同じひとつの鍵盤をすべての指でたたき続けるという訓練することも、本質的な上達にとっては必要なことであるように、です。

弁証法というものの見方が「使えはじめる」というところになると、自分の認識が、弁証法と浸透しあう形でものごとを見ることになります。
言い換えればそれまではアタマの中で、三法則、三法則、と念頭におかなければ見つからなかったものが、「自然と、ごく当たり前のように」認識にのぼってくる、ということです。

この場合には、今まで長い間疑問に感じていたことが、実のところさほど難しいものではなかったのだなと気付かされることも多くなってきます。
また、同じものごとを誰かと一緒に見たときにも、他の人には見えない問題点が、自分だけは意識できることに気づくと、これまでの毎日の積み重ねは、このためにあったのかと、それこそ<量質転化>の成果に気付かされることになり、ここまで来るとはじめて、「やっててよかった弁証法」と実感できるのです。


次回では、ではその使えるまでに身についた弁証法が、どのようなものなのか、というお題について、迫ってみましょう。

(3につづく)

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