2011/07/16

弁証法とはどのような形をしているか (1)

前回の一連の記事は、


最近ここに来られた新しい読者に向けてのものでした。

こんな文字ばかりのBlogを熱心に読んでくださる方は、人生における限られた時間を、単に面白ければいいというのでは悲しいとか、自堕落なものに留めておくことはしたくないとかいう理由で、多かれ少なかれ「本質的な前進」に関心を向けられている方々だと思っています。

そういう方と直接おはなしをしていると、「この人はわたしと出会わなくとも、他の何らかのやりかたで、ある程度までには自分の道を突き詰められたであろうな」と思える人も数人おられます。

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ところが、それが「ある程度まで」よりも先に進もうとなったときには、自分の賢さというものを自然成長性にまかせておいてもよいはずがなく、とくに自分の道では誰にも負けぬ一流のところにまで昇りつめたい、となったときには、自然と限界を自覚されるはずです。

目標が高ければ高いほどに、どれだけ流行りの思想や考え方を調べてみても、「あれでもない」、「これでもない」、自分のいいたいことはこれではないはずだけれど、だからといって正しいものを見つけたわけでも考えたわけでもないから、やっぱり私には才能がないのだろうか、と思ってしまう人も少なくありません。
もしあなたが「近所の物知りおばさん」とか、「近所の力自慢おじさん」などと呼ばれていれば満足していられるような人なのであれば、こういう打ちのめされるような無力感に苛まれることもないわけです。

「自分の道」というのは、なにも文芸や学問などのような、人間の文化に直接残るような営みとは違って、「単に優しいだけではない、叱るべきところはちゃんと叱れる最高の母親になりたい」とか、「子供にだけは軽蔑される父親にはなりたくない」というような目標の決め方も、十分にありえますし、そのことが上記したようなことに劣る、ということはありません。
どれだけ間接的な方法であっても、伝える対象が少数であっても、伝えることそのものの正しさは、損なわれることはありません。

しかし反面、書店に行けば、育児の本ひとつとっても、あれやこれやの主義主張があり、あれをするなこれをするなと言われると何も出来ないような気がするだとか、たくさん買い込んで読んでみたけど、さて実際の子供と向き合ったら結局なにもできなかった、こんな当たり前のこともできないのだろうか、と情けなくなることも少なくありません。

このようなとき、どれだけ当たり前に見える営みの中にも、やはり「ここは違うだろう」、と考える基準がなければ、自分のやることに自信は持てないはずです。
そこを「近所の力自慢おじさん」は、「おれがそう思うからそれでいいんだよ!」と胸をはって太鼓判を押すかもしれませんし、「近所の物知りおばさん」は、「昔からこうやってるからこれでいいのよ」と言ったりするかもしれません。

しかし、そういうことを、「納得する」と言うのでしょうか?

彼や彼女たちはそれでよいことにして済ますことができるのかもしれませんが、ものごとをなんとなく「思う」ことではなくて、「考える」人にとっては、「たしかに伝統にはそれなりの意味があるけれど、どうしてそうするのが良いのかを知りたいんだよね」、ということもあるでしょう。
そういう場合には、どうしても、自分なりのものごとを考える尺度が必要になってきます。

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すでにあるものを、それなりの存在理由はあるのだと認めた上で、それをもっと良くするために、そこから先のことを、自分の責任でもって考えてゆく、という考え方があります。
また考え方に加えて、表現することを含めた方法があります。

これを、学問の世界では「批判する」と呼ぶことになっており、一般の方にはこのことばの響きが刺々しく感じられるためか非常によく誤解されますが、これはなにも、「頭ごなしにお前は間違っている」と表明することではありません。

内容の不足について理解するという認識の問題と、それを当人に向けて伝える表現の問題は、繋がってはいますが独立(相対的な独立)の関係にありますから、「批判する」ということの内実を偏見をもとに度外れに押し広げて、「馬鹿にする」とか、「全人格を否定する」などと思わないでくださるよう、お願いしておきます。
あくまで、みなで高めあってゆくための方法なのです。

さて前回の記事でふれたとおり、そもそも人間は、ひとりでは生きてはゆけないのでした。
そういう観点から先のことを考えてゆくことにするとなると、総体として生きる人類の一人として人間文化を前に進めるためには、「巨人の肩に乗る」、つまり先人に学び、それを現代的なものとして新たにつくり変えるということをしてゆかねばならないわけです。

その歴史の流れが、人間を本質的に前に進める方法「弁証法」として、学問の世界では伝えられてきたのだ、ということです。

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ところで、このくどくどと述べられている弁証法なるもの、いったいどのようなものか?と言うと、辞書を調べてもなんだか納得のゆく説明がでてきません。

わたしは、とりあえず3つの法則を日常生活のなかに見つけてほしい、と言いましたが、「そういう修練をするのはわかったけれど、最終的にどうなっていればよいのか?」と、まずはおぼろげにでも完成したときの形を目標にするためにも教えてほしい、という読者の方もおられるでしょう。

あくまで「形としてのイメージ」に限りますが、たとえば一つの「球体」であったりとか、「螺旋階段」などと説明したことがあります。
しかしそんな説明をしたところで、結局のところ身についた人には、「ああ、そんな感じだね」と納得してもらえるのですが、それがまだの人にとっては、雲をつかむような話かもしれません。

たしかにそのとおり、先に結論を与えられてもその過程が踏まえられていなければ、何の意味もないわけですが、結論をすこし先取りしてイメージを掴んでおくことも、目標の設定には有意義なものです。
こういうときに、ちゃんとした学問的な修練を積んだ人間と直接に話してみることが、もっともよいイメージ作りになるとは思いますので、わたしでよければ時間が許す限りお手伝いしたいと思っていますが、弁証法の修練をなさっていない人に完成形をイメージしてもらうというのは、そもそも問いの立て方に無理があるのだ、ということも踏まえておいてください。

しかしともかく、無理を押してご説明することにしてゆきましょう。
「できた」という実感がもっとも意義深いものであるという場合は、「できないところがどこまでかがわかった」ということがその裏側に踏まえられている場合に限るものですから。

さしあたって弁証法を、学問はさておき、とりあえず日常生活の中で、自分の考える土台としたいという人に向けてご説明してゆきます。
弁証法は3つの法則からなるものである、という知識的なお勉強をしようということはさておき、弁証法は「技術」や「技」のようなものだ、とイメージしてくださるとよいかもしれません。

◆◆◆

わたしたちがお茶屋さんで振舞われたお茶がおいしいというので、これが家で飲めたらなあと思い、奮発していちばん良い茶葉を買ってきたとしましょう。
ところが、家で説明書き通りに入れてみても、あのときの味が出ない。
急須が悪いのか湯のみが悪いのかと買い換えても、やはり違う。

その理由はなんだと思いますか?

そういうものが、「技」と呼ばれるものです。


続けましょうか。

(2につづく)

1 件のコメント:

  1. 初めまして


    本日、初めて本ブログに出逢い、読ませて頂きました。

    私は、三浦つとむ氏の『弁証法はどういう科学か』、南郷継正氏の『武道講義』、『“夢”講義』、…その他の著書に、弁証法、認識論、論理学…を学んでいる者です。

    引き続き読ませて頂きます。
    ありがとうございます。
    by 自由びと

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