2011/07/07

弁証法は日常生活の中でどう見出すか (2)

前回の記事では、わたしの体験を例にあげて、日常生活を突っ込んで見てゆく、ということをお題として挙げたのでした。


そこでは、わたしが知人の荷物を運んだ時に、「キャリングケースをキャリーバーを使わず、取っ手を掴んで運んだのはなぜか」という問いかけがありましたね。

わたしとしての答えは、こういうものです。
わたしはなにもキャリングケースをはじめて見たわけではないのだし、それがキャリーバーとコロを使って転がすように荷物を運べるものなのだを知っていたにもかかわらず、そうしなかった。
それは、それまでに身についた生活態度や振る舞い方からして、いつもやっているように行動を起こしたときに、自然と取っ手をつかんで運ぼうとしたのだろう、というものです。

そのときにぼんやりと念頭にあったのは、自分の後ろに荷物を引きずって歩くのは、なんだか気持ちが悪い、という違和感です。

これはとりあえず、生まれた環境や、そこでの習慣が身についたものだと考えてよさそうです。
習慣というのはそもそも、この世に生を受けてから両親を始めとした人間たちの影響を受けながら、育てられるとともに人間として完成してゆく途上で育まれてきたところの、生活に対するふるまい方なのです。
そういうわけで、こういった環境に規定されながら作り、作られされてゆく人間の姿を、弁証法の法則で言えば「相互浸透」である、と言ってもよかったわけです。

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いわゆる「ライフスタイル」というものも、このようにして生成されてくるものですから、そのことが理由で、わたしはキャリングケースのバーではなくて、取っ手を掴んで運ぶ、ということになりました。

ところで、わたしがその際に、「取っ手を引っ張ってカバンを斜めに引きずるような格好で歩く」ということを人ごみの中でやりたくなかった、と判断をしたのは、自分が身につけている鞄や、連れ歩いている人たち、つまり「自分が伴っているモノやヒト」についても、自分の身体が延長されたものとして意識しながら生活をしている、ということが原因です。

そのようにして生活するようになった理由を、仔細にわたってすべて挙げることはあまり意味がありませんが、それでもあえて大きな理由を思いつこうとすれば、これまでやってきた武道や、自転車でのツアーなどがわかりやすい例だと思います。(個人的な話で申し訳ありませんが、具体的にお話しするほうがわかりやすいので、もうすこしついてきてください)

たとえば武道家などが街中に出るときには、周囲に居る人間が突然切りつけてきても対処できるように常に気を払っているものですし、自転車ツアーで先頭車を担当する場合には、後続車も自分の一部であるかのように意識しながら運転せねばなりません。

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どちらも、「自分だけは」人とぶつからず、事故に遭わずに目的地までつけばよい、という人と比べて、そのようなやり方で生活を送っている人間が、とくにそういった修練をはじめた当初にはたとえようもないほどに気疲れする、ということがわかってもらえるでしょうか。
それは一言で言えば、刻一刻と変わりゆく人の流れ、車の流れ、天候や道路状況を、「自分の実体的な身体とは違ったところにまで、観念的に延長させて気を払っておかねばならない」からです。

このためには、「危ない!」と思って避ければよいだけにとどまらず、「あそこは危ないだろうな」という予測、という観点が欠かせません。
空間に占める自分の占める割合が大きくなることに規定されて、「先読み」ということを常に行ってゆかねばならなくなるのです。


これは、物心がつき始めた子どもを連れて遠足に行く新人の保育士さんの疲れ方とも似ています。
彼女や彼らが相手にしているのは、友だちを追いかけてトラックの前に駆けてゆくかもしれない、押し合ってホームから転げ落ちるかも知れないといったような、気を抜けばどこへ走ってゆくかも知れない子供たちです。
これは、それなりに育って言うことを聞いてくれるし、また自分の判断で危険を回避できる学生たちを連れた大学教授、などとはわけがちがう存在なのです。

ここでなぜ気づかれするのかといえば、説明するまでもないことながら、保育士さんたちの中に、「自分の連れている子どもに万が一のことがあれば、かわいい子供たちにも保護者にも申し訳が立たないし、そうなれば自分の身も危うい」という思いがあるからですね。

◆◆◆

さて今回のお題の焦点は、この「思い」というものに向けられているのですが、読者のみなさんは、一連の記事も含めたこれまでの流れを読み取って、わたしがここでどういうことをお伝えしたいのかがだんだんわかってきたでしょうか。

読者のみなさんにも考えてもらいたいので、答えは次回で出す予定ですが、たとえばさきほどの保育士さんの例で考えてみてください。
新人の保育士さんは、「子供たちを見ておかねば、子供たちの安全は私が守らねば」という「思い」がアタマの中にありますから、そのことに突き動かされるようにして意識しておかねばならないために疲れるのでしたね。
それでは、同じ保育を年配の保育士さんがしたときには、これほどの疲れがあるものでしょうか。

もし、その答えが「それほどではないはずだ」と推測するとするなら、それはなぜでしょうか?
もっといえば、新人保育士さんは、いつからベテラン保育士さんになったのでしょう。
ある日突然、レベルが上がったからでしょうか、そうではないですね。

その過程の中に、どのような意志があったのかと考えてみてください。


(3につづく)

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