2011/07/12

日常を「あれもこれも」と考えるには:人は信じるに値するか (2)

(1のつづき)


わたしにとっては、「学生を信じるべきかどうか」ということは、これはニワトリとタマゴの問題ほど単純明快な答えを出せるような類のものではないけれど、それでもひとつ言えるのは、こういう問いかけに興じること自体が、やはりある一定の考え方を示しているのだな、と思えてしまうということだ。

たとえば、「私は学生のことを信じていますから」という信念を持っていて、ゼミにも来ずに学生を自由放任にしたままでいるというのは、これは聞こえがいいだけの、単なる体のよい責任逃れということになろう。

それよりもむしろ、「私は学生のことはまるで信じない」という立場で、恋愛から研究まで仔細にわたって注意深く見ておこうとする先生のほうが、ある意味で優れているとさえ言えるかもしれない。

そうすると、「信じるか信じないか」ということだけを振りかざしても、学生たちと向きあう実践的な方針としてはほとんど役に立たない、ということになる。


上で、今回の問題を議論しようとすること自体が「ある一定の考え方」を示している、と言ったのは、わたしにとっては、信じるか信じないかという姿勢が、どのような場合に発揮されるべきなのかと問わずに、単にあれかこれかと議論するという、その姿そのものが、大いに疑問符のつくものだからである。

果たして教育というのは、教える相手を信じたり信じなかったりなどといったような、何らの状況も想定しないところで議論できるものなのだろうか。

こういった、机の上だけで考え出したような極端なあれかこれかが、本当の教育指針として通用しうると思っておられる先生方は、いったいどんな教育「実践」を持たれているのだろうか?

◆◆◆

実際の大学生たちに向きあってみればわかるとおり、彼女や彼らはまだ未熟な側面もありながら、それでも、ひとりの人間としてほとんどのことを過不足なくやりうるし、また逆に言えばできてしまう、という存在なのである。

そうして仮にも、学ぶ者、「学生」として、大学というところに入学してくるからには、大学側も十分な役割を果たさねばならない、というのが筋であろう。

もし少しでもそういう意識があるのなら、一人の人間の未来を大きく左右する立場にあったれば、単に学生がそれまでの20年前後で身につけてきた、自然成長的な能力を放っておけばよいということでは、そのそもそもの存在意義すら問われることになろう。

わたしから見れば、大学入学当初から、「まるごと信じて放っておいて」、非の打ち所のない立派な人間に育ってゆくことが明確な学生、というものは、ひとりも見たことがない。

ところがいるのである、学生を散々ほったらかしにした後に、「我がゼミの誇る諸君らにあっては」としたり顔で述べる輩が!

どんなに正義感が強い人間の中にも、一度折れたらもとに戻らない性質が潜んでいるし、
どんなに人に尽くす人間の中にも、ある種の強い依存心が見え隠れすることも少なくない。
学問という分野に限っても、ものごとはある面とは切り離せない他の面を持っているから、どんなに成績優秀な人間であろうとも、眼に見える面とは裏側に、いったいどのような消極面があるのかと考えておかねばならない。

たとえばいわゆる受験秀才などというのは、実際にはやりもしないことをことばだけで丸呑みにさせられているという意味で、言ってみればひとりの人間としては極めて歪な存在なのであって、彼女や彼らは学業成績とは裏腹に就職活動でたいへんな苦労をするばかりか、研究職としても本質的な研究が「できない」可能性のほうが、はるかに高いのである。

◆◆◆

人類の残してきた文化に、新しい1ページを書き加えようともすれば、ヨーロッパのどこぞの学者が残した本の中に、たくさんの細かな誤りを見つけたり新しく注釈を付け足したりといった研究に耽溺しているだけでよいはずがない。

本質的に新しいものを創り上げるためには、誰かと誰かが作ったものを貼りあわせてオリジナルのアイデアだなどと売り出すのではなくて、人類が総体として歩んできた歴史を自分の足で歩き通しながら、ジグザグに入り組んだ道を足を棒にしながら歩き直し、泥まみれになってそこに一筋に光る本道を見出したうえで、そしてまた一歩一歩と歩み続けるということを、あくまでも自分の力でやれねばならないのである。

こういう仕事をしなければならないときに、意味もわからないままの丸呑み・丸覚えの能力が、いったいどこで発揮されるというのだろうか?

自分で判断する力を養えない場合の、「たまたま」上司になった者の言いなりになったり、「たまたま」捕まった新興宗教の勧誘にコロッとやられたり、「たまたま」手の触れ合った異性と触れ合うしかなくなることの顛末がどのようなものであるかは、大衆メディアを賑わせるニュースで厭というほど耳にしてきているはずである。

◆◆◆

そういうわけで、わたしは学生のことをあらためて考えてみれば、その可能性は信じているけれども、その可能性がどういった方向にも拓かれていることを信じているがゆえに、間違った道に陥りがちであるということも、同様に信じている。

こういった姿勢をとっている場合には、傍から見ればどうでもいいと映るような事柄についても、学問を目指すにはまず生活から、志を養うには毎日の過ごし方を大事にしろ、付き合う相手を選べなどと偉そうに、あれやこれやとダメ出しするのであるから、これはまるきり学生のことを信用していないようにも見えるであろう。

しかしこれは、指導の内容を学問的にするだけにとどまらず、指導の方針をも学問的に整えていなければならないはずの、「学者」としての責任があるからである。
その責任に照らして、学生を見ているからである。


さて以上を要して、わたしは「あれかこれか」の質問に、なんと答えるべきであろうか?


(了)

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