2011/07/24

「許せるか、許せないか」はどう判断するか (1)

週末は、学生さんと会ってきました。


学生さんといっても、昔わたしと関わりのあった人のうち、同業者じゃない人のことを今でもそう呼ぶだけなので、この人の場合はもう立派な社会人です。

そういう「学生」さんからいきなり連絡があったときには、たいていは大事な話なので、仕事の状態がどんなであろうと、できるだけ早くに会えるように手配します。

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会ってみるとやはりというか、仕事をはじめて辞めようと思った、苛立ちのあまり一生のうちモノに当たったのは2回目だ、というほどの出来事があったのだそうな。

どんなことがあったのかと聞けば、1年をかけて全社的に取り組んできたアンケートの回収率が一定数に満たないというので、上の方から通達があったらしいのですね。
その通達の内容というのは、統計的に有意な数が揃うまでアンケート結果を水増しせよ、というもの。

予定の隙間を縫っては必要な部数をコピーし、顧客が字が小さすぎて読めないときには口頭で、例外的な遠方の客にも自分の足でと、ひとりコツコツと調査を進めていた当人にとっては、いまさらのちゃぶ台返しは、到底受け入れられるものではなかったようなのです。

本心を同期の友人に言ったところ、「それくらいいいんじゃないの、みんなやってるし」と、お客さんの手によらねばならぬはずのアンケート用紙に自筆で書き込む有様で、上司に相談しようにも、その通達を伝えてきたのが他ならぬその上司であったそうで、どうしようもなくむしゃくしゃしてゴミ箱を蹴飛ばしたあと我に返り、これはいかんということで、この思いを誰にぶつけたものかと思ったときに思い出したのがわたしであったというわけです。

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この人は、くり返しくり返し、「ワタシのわだかまりの中には、自分がやってきたことが無駄になったという意味もありますが、それよりも、ダメだったらダメだったなりに結果を出したあとで、そこから学ぼうとする人が一人もいないことにいちばん驚いて、信じられない気持ちになったのです。」と言っておられました。

そうはいっても、内部告発だとかで出すところに出したところで、外面的にはそれほどの大きな問題でもないし、事実的に問題になるのかということもわからないし、内部の人間の大多数がそれでよいのだというのなら組織の中ではそれが正義になるのかしらと思い始めると、「もしかしたら、自分は偏屈なんだろうか?おかしいのだろうか?」とも思えてきて、自分の中にいかにたしかなものがないのかを思い知らされた、というのです。

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わたしのまわりには、一言でいったばあいには生真面目というか、生真面目にふるまうつもりがなくても人柄のなかにそういう面が強いために、人からの「それくらい、別にいいんじゃないの」という一言に打ちのめされる思いがする、という人たちが少なくありません。

友人が、コンビニの駐車場の縁石に腰掛けて食事しているのを注意したら、偏屈扱いされただとか、友人の恋人が他の異性と手をつないでいるのを見て、友人に伝えようかどうかと思い悩むとか、がそれです。


これは一見すると、「ここまでは許せる」か、「ここからは許せない」というだけの問題に見えるようで、事実そういった占いやテレビ番組もありますが、事実はそんな平面的な理解では割り切れないほどの内容があります。

このことに気づけない場合には、いくつかの質問項目を用意した上で、それについたマルが多ければ正義感が強いといえる、などという結論を出してしまうことがありますが、その質問項目をいくら詳しくしたところで、また調査する人数をいくら増やしたところで、一歩も人間のココロなるものには近づいてゆくことはできません。

なぜなら、この問題は、もっと立体的な構造を持っているからです。


(2につづく)

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