2011/07/19

弁証法とはどのような形をしているか (3)

(2のつづき)


前回では、技の習得過程を「知る」、「身につける」、「使う」として、「使ってみることのできる弁証法」がどんなものなのかを簡単に触れるところにまでたどり着きました。

この記事で目指すところは、弁証法を学び始めた人を対象に、そのいちおうの完成形がどのような形をしているのかをイメージし、目標にできるようにもってゆく、ということだったので、いくつか例示をしながら「ああ、なんとなくわかってきた」とぼんやりとでも感じてもらわねば意味がありません。

その「弁証法とはどのような形をしているか」は、冒頭で述べておいたように、過程を経なければわからないはずのものを、過程を経ていない人にもわかってもらうということであり、問いの立て方そのものがかなり無茶なのですが、できるところまで論じてみましょう。

そういう理由で、初学者の方には過程を飛ばして結論を先取りする形になってしまいますが、それなりの形で使ってみることのできる弁証法が身につくと、日常生活でぶつかる問題を解決するための手がかりが、ごく自然に見えてきます。

◆◆◆

たとえば、あなたが友人と散歩しているとき、突然の雨に降られたとしましょう。

持ち物を見ると、折り畳み傘を持ってきていないことに気づき、困ったな、雨が止むまで待とうかな、と思っているときのことを想像してみてください。

そんなとき友人から、こんなふうに言われたらどうでしょうか。
「もともと空気中には水分が含まれているから、晴れの日も雨の日も同じだよ。」


あなたは「あれっ、そういうふうに考えたらたしかにそうなるな」と判断して歩き続けることにするかもしれませんが、それでもどこかの魔法のように、見えない力があなたたちだけを守ってくれたりはしませんから、そのまま歩き続けてみて濡れてしまうことが、その判断が誤りであることを教えてくれます。

同じようにその意見をあまり吟味しない場合でも、その反応とは逆に、「なにをヘリクツを!」と怒ることもできますね。

極端に見えるこの正反対の立場は、そのどちらもが、「なんだかおかしいような気がするけれどうまく指摘できない」というところで思考が止まっており、正しく反論できないという面では共通しています。

さて果たして、それがなぜヘリクツだといえるのかを、しっかりと説明できるでしょうか。
なるほど、リクツの上ではたしかに晴れの時にも空気中には水分が含まれていますから、晴れの日にも多少なりとも水分があり、雨の日には同じように水分が含まれているのだということになると、晴れでも雨でもそう大差ないようにも思えてきます。

ところが、歩いてみれば実際に濡れてしまうことが、その明確な反証となっているわけです。
そうするとこれらを一見すると、「リクツの上で考えてみたとき」と、「現実に向きあって体験したとき」のことが、相容れない矛盾の関係におかれているかのように思えます。

あなたがもし、そこまでしか考えを進めてみることのできない場合には、あなたはリクツっぽい友人の意見に賛成するか、それともその友人の発言を冗談として笑うかヘリクツとして詰るか、どちらかの立場を選ばなければならないことになります。

◆◆◆

種明かしをすれば、実のところわたしが「リクツ」とカタカナで書いたところの理屈(=論理性)は、世界を立体的にとらえるやりかたである「弁証法的」な論理ではなくて、世界の一面だけを切り離してあれかこれか、としか考えられない「形而上学的」な論理、なのです。

ある人がこういったふうな、自分自身が現実を目の当たりにしたときの素朴な実感と反するリクツを持ち出したときに、その考え方のどこが間違っているのか、どうすれば正しい考え方になるのかを明確に指摘できるために、弁証法は大きな力を貸してくれます。

あなたがもし、弁証法を自然に使えるようになっているのなら、「あれかこれか」を極端に割りきろうとする姿勢に、「おやっ、なにかヘンだな?」と気づくことができるでしょう。

この場合には、あなたの友人は、リクツではこうだ、現実ではこうだ、という矛盾にぶつかって、自分が積み上げたリクツを手放せなかったことに引きずられて、結局のところ「あれかこれか」と考えることになったのでした。
この場合には、「あれ」と「これ」とが、永遠に相いれることのない切り離された関係であると解釈することが誤りのもとだったようです。

弁証法は、どんなに正しいことであっても、それを度外れに押し広げることは誤謬に繋がることを主張し、一般に考えられているような、正しいものはどこまでいっても正しく、間違っていることはどこまでいっても間違っているという「あれかこれか」の考え方を排除します。
つまり弁証法は、「あれもこれも」と考え、ものごとが正しいと言えるのはどこからどこまでなのか、また逆に間違っているのはどこからどこまでなのか、と考えるのです。

そうするとあなたは、ここに弁証法の、どのような法則を持ち込めば、その矛盾を正しく解決することができるでしょうか。

リクツに引きずられて「裸の王様」にならないために、まずはものごとをありのままに見つめてみましょう。
いくら学問的な裏付けがまだとれていない場合にも、わたしたちが日常生活のなかで自然に培っている判断のあり方は、それなりの合理性をもっているものです。

このたとえを例にとったときにも、わたしたちが日常的にそう判断しているように、やはり晴れと雨という現象は質的に違うとみなしておく意味がありそうです。


ここまで言うと、わかってきたでしょうか。

(4につづく)

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